第五話:卵売り
私の朝は、鶏より早い。目が覚めると、まず数える。薪の残り。粉の袋。干し肉の束。それから子供たちの寝息。物の数は昨日と同じでなければならない。寝息の数は、今朝も八つでなければならない。数えることは、この仕事について備わった癖みたいなものだ。四半世紀も子供を預かっていれば、誰だって数えるようになる。
門を開けて、朝の空気を入れる。
蝶番が、また鳴いた。この前、油を差したばかりなのに。年季の入った木戸は、人間と同じで、直しても直しても元の鳴き方に戻る。まあ、いい。鳴く門は、誰かが入ってきた時に教えてくれる。
朝食を炊いて、子供たちを起こして、畑と洗濯と掃除を割り振る。割り振るだけで、もう日は軒の半分を越えている。この仕事は、終わりがない。終わりがないから、続いていられる。
洗い物の手を止めて腰を伸ばした時、門の外に声がかかった。
「卵はいかがですかね。朝取れの、いい卵です」
立っていたのは、背の高い、日に焼けた男だった。荷担ぎの棒の両端に籠をぶら下げて、作り物めいた愛想の良さで、何度も頭を下げる。
「卵は、あるよ。鶏が六羽いる」
「六羽で八人の口ですか。それは、足りますまい」
門の閂にかけた手が、止まった。
庭を見回す仕草は、ひとつもなかった。男は門の外に立ったまま、籠の中の卵しか見ていない。見ていないのに、八つという数を知っていた。今日、まだ誰にも数を言っていない。子供たちは半分が畑で、半分が裏の水場だ。門から見えるのは、せいぜい三人が四人。
「……行商のくせに、よう数えるね」
「商売ですから。お客さんの口の数は、売れる数です」
愛想笑いが、崩れない。笑い方というのは、喋っている間中、顔の奥で別の帳面をつけている人のものだ。
私は、四半世紀前にも、この目を見たことがある。違う顔だった。違う声だった。でも、同じ目だった。数える目。棚の品を値踏みする、あの目。
「買う気はないよ」
「そうですか。では、また」
男は籠を担ぎ直して、街道の方へ歩き去った。歩き去る背中を、最後まで見送った。草鞋の底は、新しかった。街道を歩く商い人の草鞋は、皆、土にまみれて減っている。あれは、歩いてきた人の足元ではない。
門を閉める。閂を、いつもより深く、落とした。
「マダム?」
裏からミラが顔を出した。
「卵、買わなかったの」
「買わないよ。うちの鶏に、もう少し働いてもらう」
「ふーん」
子供は、納得して引っ込んだ。納得してくれる子供で、助かる。この歳になると、嘘は上手くなる。上手くなった嘘を、誇ったことは一度もない。
子供たちの昼寝の気配が寝所に満ちる頃、戸棚の奥から紙を出した。紙は、わざわざ買うものではない。配達の荷を包んでいた厚紙の裏を使う。鉛筆を削って、灯りに近づいて、ゆっくり書く。字は遅い。遅いが、書ける。あの人に教わった。
『子供の数を聞く者あり。卵売りを名乗る。草鞋は新しい。街道の上り方面へ。』
考えて、もう一行足した。
『増えた一人のことを、気にしていました。』
封もせず、折って、紐で結ぶ。明日の朝、行商の便に託せば、昼には屋敷に届く。この仕組みも、あの人が作った。昔は毎月、子供の数だけを書いて送った。数と、顔ぶれの変わりよう。それだけの紙だった。あの人は、それを読むためだけに、毎日ここへ足を運んでいた。
返事は、翌日の粥が炊ける前に届いた。届いたのは、紙ではなく、人だった。門の外に馬が止まり、大柄な男が降り立つ。ガルド。屋敷の剣の人だ。何度か顔を見ている。子供の扱いが、見た目に似合わず丁寧な人だった。
「院長。急ですまんな。書面はしっかりと届いた」
「早いねえ」
「ノエル様が、直々にな」
広間に通して、湯を出す。ガルドは湯を一口飲んで、それから身を乗り出した。
「顔を聞かせてくれ。細かいところまで、な」
言われるままに話した。背の高さ。日焼け。荷担ぎの棒。崩れない笑い。新しい草鞋。それから、八つという数を先に知っていたこと。
「卵は、売らなかったのか」
「売りもしなかったし、値段も言わなかった」
「……行商が、値段を言わない」
ガルドは、指で顎を撫でた。商人は、まず値段を言う。言わない商人は、卵を売りに来たのではない。そういうことだ。
「街道の上りは、俺が見る。下りは、街の兵に回させる。……院長、子供たちを屋敷へ移す話も、頭に置いておいてくれ」
「前みたいにね」
「ああ。前みたいに」
前、というのは、あの冬のことだ。夜のうちに馬車が来て、七人を乗せて、屋敷の広間に布団を並べた。あの時も、誰かがこの子たちを数えていた。
剣の人は、日が西へ回る前に帰っていった。それから畑を二度、耕した。三度目の畑仕事の帰り道、門の外に、見覚えのある馬が止まっていた。
「いなくなった」
ガルドは、土間に立ったまま言った。湯を出す間も惜しむ顔だった。
「上りの宿場を三つ、当たった。卵を担いだ男は、誰も見ていない。荷車の通過記録にもない。……街道の真ん中で、消えた」
「消えるもんかね、人が」
「消えない。消えないから、腹が立つ」
ガルドは土間の柱に、こつんと拳を当てた。怒りの出し方を知らない拳だった。当てておいて、すぐに降ろす。
「院長。一つ、聞いていいか」
「なんだい」
「増えた一人、というのは。……どんな子だ」
どう答えたものかと、考えた。
畑に倒れていた子。髪の長い子。ほとんど喋らない子。服の内側に、六の字が縫ってあった子。全部、本当のことだ。全部、言ってもいいことだ。でも、私は別のことを言った。
「よく働く子だよ。鍬を持つのが、うちでいちばん上手い」
ガルドは、少しの間わたしを見て、それから小さく頷いた。聞きたかったのは、そういうことではなかったのだろう。聞きたかったことを聞かなかった、その頷きに、私は少しだけ助けられた。この人も、聞かないことができる人だ。
「剣は、屋敷にある。……何かあれば、朝を待たずに使いを出してくれ。夜でも、必ず届く」
そう言い残して、大きな背中は街道へ消えた。
夕餉の支度にかかるより早く、あの人が来た。
毎日の訪ね歩きの時間を、いつもより半刻ほど繰り上げて。籠の中身は、干し葡萄の瓶だった。子供たちが広間で瓶に群がる間、わたしとあの人は、台所に並んで立った。
「卵売りが……」
「聞いたわ。ノエルから」
「八つって、数を知っていました」
「……ええ」
あの人は、竃の火を見ていた。火を見る顔は、いつもと同じだった。いつもと同じ顔で、いつもより長く、火を見ていた。
「ユリア」
何十年ぶりかで、名前を呼ばれる。
「数を、減らしちゃだめよ」
「……分かっています。分かってるとも」
それだけの会話だった。それ以上は、どちらからも言わなかった。それがあの人とのあいだに積み上げてきた、いちばん丈夫な壁だ。壁の内側に、お互いの知らないことが沢山ある。知らないままで、信じている。そういう付き合いも、ある。
一日の終わりは、寝息の点呼だ。子供たちを寝かしつけて、寝所の戸を閉める。閉める前に、順番に見ていく。ミラの寝ぐせ。フィンの出っ放しの腕。小さい子の蹴飛ばした毛布。端から数えて、八つ。
八つ目の寝具で、長い髪の子が眠っている。
眠ると、あの子の眉間の皺が消える。起きている時は、いつも少しだけ寄っている。何を待っているのかと思うくらい、じっとしている子だ。待つことしか知らない子というのは、待っていたものが来なかった子のことだ。
わたしは知っている。この子を拾うのは、初めてではない。雪の朝だった。門の外に、小さな包みが置かれていた。包みの中の子供は、泣かなかった。泣く力を、どこかに置いてきた子供だった。あの子の服の内側にも、字が縫ってあった。五つの、横棒と縦棒の、小さな字。
あの子は今、大きな屋敷で、暖炉の前に座っている。名前をもらって、灰色の服を着て、火を灯している。門の前の包みだった子が、人に火を見せて歓声を上げられている。拾ってよかったと、思う。思うだけなら、幾らでも許される。
六つ目の子が、畑に落ちていた。
今度は、門の前ではなく、土の上だった。置いていかれたのではなく、落ちてきた。どこから落ちてきたのかは、知らない。知らないが、落ちてきた子を追いかけてくる者がいる。卵売りの、数える目が、その先触れだ。
戸を閉めて、台所に戻る。竃の火を落として、鍋を磨いて、明日の粥の米を研いで水にさらす。手を動かしていると、頭の中の騒ぎが、少しずつ静かになる。この四半世紀、そうやって夜を越えてきた。
火を消す前に、わたしは、もう一度だけ数えた。椀は八つ。寝息は八つ。閂は、深く。減らさない。それが、わたしの仕事だ。
ご拝読ありがとうございました。




