第四話:屋敷からの客人
孤児院に行く、と聞かされたのは、三日も前のことだった。
「行く!」
僕は、そう答えた。迷いはなかった。ミラの手紙が届いていたし、蜜煮のお礼も言いたかったし、あの庭の洗濯物が風で膨らむのを見るのも、嫌いじゃない。またお姉ちゃんとかくれんぼもして遊びたいな。そう答えてから、隣を見た。十番が、テーブルにあごを乗せていた。
「あーしも行くー」
「畑で足が疲れたって前に言ってたでしょ?」
「あれは、あの時の話。今は行く。なんか、行かないといけない気がするー」
根拠のない言い方だった。でも、十番の「なんか」は、たいてい当たる。音の人だから、人が聞こえない何かを聞いているのかもしれない。
「それでは、皆さん一緒に孤児院へ行きますか」
お姉ちゃんが、そう言った。
出発は、朝食のあとになった。馬車の用意はガルドさんだ。荷台には、パンと、保存の干し肉と、ノエル様が書き入れた書類の束が積まれた。書類は、院長への届けものだそうだ。子供の戸籍とか、そういうの。よく知らないけど、大事なやつらしい。
「シュピ、乗ったか」
「乗った」
「シエルさんと十番も。……よし、出すぞ」
馬車が動き出す。屋敷の門をくぐって、表通りを抜けて、街の外へ。畑と、疎らな家並みが続く道。前に来た時と、同じ道だった。
窓の外を見ていると、隣で十番が言った。
「ねえ、シュピ」
「ん」
「あそこ、何人いるんだっけ」
「七人。……八人か。手紙に書いてあった。新しい子が来たって」
「ふーん」
十番は、それで話をやめた。やめたのに、どこか頷いていた。この子は時々、こういう頷き方をする。答えを聞いたんじゃなくて、答えの裏側を確認したみたいな。
向かいの席で、お姉ちゃんが書類を見ている。というより、書類の上を目が滑っている感じだった。お姉ちゃんは、たまにこうなる。考えごとをしている時の、読んでるふりだ。
「お姉ちゃん」
「はい」
「新しい子って、どんな子だと思う」
「分かりません。報告では、畑に倒れていたところを院長に保護された、とだけ」
「畑に」
「はい」
それ以上は、聞かなかった。畑に倒れている子供、というのは、この領では珍しいことじゃない。避難民は今も増えている。道のどこかで、誰かが倒れている。そんな子達が、畑で拾われる。拾われる場所があって、よかった、と思う。思うだけで、何も変わらないことくらい、僕にも分かる。
馬車が止まった。
「着いたぞ」
門は、まだ少し軋んだ。直したばかりのはずなのに、鳴く。あの蝶番は、もう寿命なのかもしれない。
庭に、子供たちがいた。洗濯物が並んでいて、その向こうで、豆の選別をしている。手前の畑では、小さい子がじょうろを抱えている。門の音に、いっせいに顔が上がって——
「シュピくん!」
一番に駆けてきたのは、ミラだった。じょうろを置き去りにして、一直線に来る。受け止める。受け止める、というか、ぶつかられる。
「手紙、読んだ?読んだ?」
「読んだ。『か』の字、逆だった」
「うそ!?」
「うそ。ちゃんと読めた」
「もう!」
ミラが笑って、フィンが洗濯物の陰から顔を出して「うるせえ」と言って、小さい子たちが僕の周りに集まってくる。前と同じだった。でも少し違う。違うのは、僕の方かもしれない。屋敷で暮らして、ここで経験できないようなこともさせて貰っている。本来ならば、僕も行き着く先は畑仕事だったかもしれない。
「パン、持ってきたよ。トムさんの」
荷台から籠を降ろす。子供たちの目が、籠に集まる。集まって、誰も手を出さない。出していいのは、配られてからだ。ガルドさんが書類を抱えて、玄関の方へ行く。院長の姿が見えて、深々と頭を下げるのが見えた。書類の話は、少しかかるだろう。
その間に、と思って、庭を見回した。畑の方に、ひとりだけ、動かない子がいた。
苗の畝の間に座っていて、じょうろを両手で持っている。長い髪が、肩から膝まで垂れていた。灰っぽい、金とも茶とも言えない色。門の音にも、ミラの声にも、パンの籠にも、誰より遅れて顔を上げた子。
目が、合った。
庭の真ん中で、時間だけが止まった。
知っている顔。知っているのは、顔ではない。妙な佇まいも知っている。呼吸の分しか揺れない立ち方。待つことだけに向いてる身体。白い廊下で、すれ違うたびに思った。あの子は、立っているだけで、待っている。
「……六番?」
声が、出ていた。出すつもりはなかった。出るはずがなかった。あの番号は、この場所で言う言葉じゃない。言っちゃいけない言葉だと、喉の奥が知っているのに。
畑にいる子が、ゆっくり立ち上がった。じょうろを、畝の脇に置いて。土を、膝から払って。こちらを見て。
「……五番」
小さい声だった。聞こえたかどうかも怪しい声が、庭の真ん中で、ちゃんと届いた。届いて、僕の胸の中の、しまってあった引き出しを開けた。開けてはいけない引き出しだった。何もない部屋。白い盆。腕に入れられる、何か。隣の部屋から聞こえる、小さい寝息。あの寝息は、僕より先に検査へ連れていかれて、僕より遅く戻ってきた。
「おー」
後ろで、十番が言った。
「六番じゃん。生きてたんだ」
気楽な声だった。この子は、そういう子だ。会えて嬉しいとか、心配してたとか、そういう言葉を、全部「生きてたんだ」のひとことに畳んでしまう。畳んで、あとは畑まで歩いていって、六番の前に立って、長い髪を指でつまんだ。
「髪、のびすぎ。重くないの、それ」
「……知らない」
「アハハ。知らないんだ。六番ってば、相変わらず」
六番——その子は、十番を見て、ほんの少しだけ目を細めた。笑った、のかもしれない。分からない。分からない程度の、緩み方だった。
僕は、まだ動けなかった。
庭の真ん中に立ったまま、畑の縁に立つあの子を見ていた。去年より、背が伸びている。顔色は、悪くない。手が、赤い。畑仕事の手だ。白かったあの手が、土の色をしている。
よかった、と思った。同時に、思ってはいけないことを思った。あの子が畑にいる。僕が屋敷にいる。どっちも、拾われた。どっちも、生きている。なのに、あの白い廊下で多く検査に入れられたのは、あの子の方だった。僕より一つ上で、出来が良くて、だから、検査の数も多かった。
僕は、六番より、楽な道を辿っていたと思う。
あの頃と同じ言葉が、胸に戻ってきた。戻ってきて、居座った。
「シュピ」
お姉ちゃんの声で、我に返った。
「……ごめん。なんでもない」
「分かりました」
お姉ちゃんは、何も聞かなかった。聞かないで、僕の隣に立って、畑のあの子を見た。見て、小さく頷いた。あの頷きは、たぶん、挨拶だ。お姉ちゃんの挨拶は、いつも小さい。
昼は、庭でパンを食べた。トムさんのパンは、孤児院の子供たちに大人気だった。ちぎって、回して、最後の一切れをじゃんけんで決める。ミラが勝って、勝ったくせに小さい子に半分あげていた。そういう子だ。
僕は、縁側に座って、畑を見ていた。
六番は、畑の仕事に戻っていた。客人がいるのに、戻った。無愛想なのではない。あの子は、仕事の手を止めないことが、挨拶なのだ。温室でもそうだった。検査から戻った日も、決まった時間に、決まった場所に座っていた。休んでいいよ、とは誰も言わなかったから。ここでは違う。ここでは、休んでいいよ、と言ってくれる人がいるのに、あの子は畑にいる。
十番が、畑の縁に座って、六番の仕事を眺めている。時々、「それ、何の苗」とか聞いて、「まめ」とか答えている。会話になっているのか、なっていないのか。あの二人は、あれで会話になっているのだ。
「シュピくん」
ミラが、隣に座った。
「あの子、ろくって言うんだよ。わたしたちがつけたの」
「……ろく」
「うん。服に字があったから。ろく、字、読めるのかな。教えてあげようと思ったら、なんか、もう読めてるっぽくて」
パンを持つ手が、止まった。
「読めてる、っぽい?」
「なぞるふりをしてる感じがする。……ねえ、それって、怒ること?」
怒ること、じゃない。怒ることじゃないけど、ミラには説明できない。なぞるふりをする理由が、僕には分かる。分かるから、言えない。言えないことは、飲み込む。
「怒ることじゃないよ。……優しいんだよ、たぶん」
「優しい?」
「ミラに合わせてくれてる」
ミラは、考えて、それから「ふーん」と言った。納得したのか、しなかったのか。ミラは、深く考えないところが良い。深く考えない分だけ、まっすぐ優しい。
「ね、魔法、また見せて」
話が変わった。変わって、ほっとした。
「いいよ。……大きいのは、ダメだからね」
掌に、小さな火を灯す。指先ほどの、温かい火。子供たちが集まってくる。歓声が上がる。この火は、消えない。僕が消すまで、消えない。燃やすものも、僕が選ぶ。だから今は、ただの明かりだ。ただの、温かい明かり。
ふと、畑を見た。六番が、こちらを見ていた。
じょうろを持ったまま、火を見ていた。見ている、というより、火の中の何かを、見ていた。僕の火は、怖いものを燃やす火でもある。あの子の分の怖さも、昔、燃やしてきたのかもしれない。そんな気がした。気がしただけで、確かめようはない。
帰り際。門のところで、六番が立っていた。
「……また」
言った。言って、続きを探した。来る、と言うべきか。待ってる、と言うべきか。どっちも、違う気がした。違う気がして、結局、何も言えなかった。
「うん」
あの子は、頷いた。頷いて、それから、小さく言った。
「ここ、いいところ」
「……うん」
「よかった」
よかった、という言葉が、胸に刺さった。刺さって、抜けなかった。あの子は、いいところに拾われた。僕も、いいところに拾われた。よかった、よかった。なのに、どうしてこんなに、痛いのだろう。
馬車が動き出す。
振り返ると、門の前に、子供たちが並んで手を振っていた。いちばん後ろに、長い髪の子が立っていて、手は振らず、ただ立っていた。立って、こちらを見ていた。小さくなっていく姿が、角を曲がるまで、ずっと、立っていた。
「お姉ちゃん」
「はい」
「あの子、僕より、検査が多かったんだ」
窓の外を見たまま、言った。言ってしまってから、しまった、と思った。思ったが、引っ込まなかった。
お姉ちゃんは、少しの間、黙っていた。
「……そうですか」
「うん」
「シュピは、それを、ずっと」
「うん」
それ以上は、言えなかった。言わなくても、お姉ちゃんは分かってくれる。隣にいることが、どれだけのことか、僕は知っている。知っているから、言えた。言えた分だけ、少しだけ、軽くなった。
隣で、十番が寝ていた。馬車の揺れに合わせて、頭が前後に揺れている。寝顔は、無防備だった。この子も、あの白い廊下を知っている。知っている者同士、何も言わなくても、分かることがある。
窓の外では、畑が夕日で赤くなっていた。
あの畑に、あの子はいる。じょうろを持って、苗に水をやっている。今日も、明日も、明後日も。同じ「楽しい」場所にいられることが、どれだけのことか。僕は、少しだけ、知っているつもりだ。




