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戦姫メイド  作者: 白彩
夢を見る子
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第三話:蜜煮の瓶

 その日の朝は、雨だった。畑仕事は休みになる。代わりに、子供たちは軒下と寝所に散らばって、それぞれの自分ができる仕事に就いた。フィンは薪の皮を剥き、ミラはほつれた袖口を繕い、小さい子たちは積み木で遊んでいる。わたしは縁側で、豆の選別を言いつかったので、笊の中で豆を転がし、割れたもの、虫の食ったものを摘み出す。単純な仕事だった。単純な仕事は、好きだ。手が動いている間、頭は何も考えなくていい。


雨の音が、庭全体を包んでいる。


軒先から落ちる雫が、地面に小さな窪みを作っている。ひとつ落ちるたび、窪みの水が跳ねて、また窪みに戻る。その繰り返しを見ていると、豆を摘む手が、雨の間隔に合わさって動き出した。


昼少し前、門の軋む音が雨に混じった。最近、直ったばかりのはずの門だった。まだ少し、鳴く。その音を聞くなり、寝所にいた子供たちが一斉に顔を上げた。積み木が倒れる音。膝を立てる音。誰かが「来た!」と言って、皆が縁側へ雪崩れ込む。


雨の中から、傘を差した小柄な人影が近づいてくる。藍色の外套。片手には、布で包んだ籠。


「おばあさま!」


小さい子が一番に飛び出した。濡れるのも構わず、庭の真ん中まで走って、その外套に抱きつく。傘が傾いで、雨が二人分の肩に落ちた。老婦人は咎めもせず、空いている方の手で子供の頭に触れた。


ノエル・エステル様の母上。この領の、先代の夫人だ。


わたしは、作業の手を止めて、その姿を見ていた。来ることは、聞いていた。この領で隠居しており、毎日孤児院に必ず寄る人だと。菓子を置いていく人だと。でも、実物を見るのは初めてだった。


想像していたより、ずっと小さな人だった。


背はミラとさほど変わらない。外套の裾は泥に濡れて、傘は立派なものではない。それなのに、庭に立っただけで、あたりの空気が締まった。雨の音すら、少し遠退いたように感じた。


「濡れるので、中へいらっしゃい」


マダムが玄関から声をかけた。子供たちを追い立てるようにして、皆が屋内へ入る。夫人は傘を畳み、軒下で丁寧に水滴を落としてから、敷居を跨いだ。

広間に、蒲団ほどの座布団が並べられた。普段は出さないものだ。この人のための座布団だということが、並べ方の丁寧さで分かった。


「今日は蜜煮よ。林檎の」


籠の布が解かれて、小さな瓶がいくつも現れる。琥珀色の、透き通った瓶だった。子供たちの目が、いっせいに瓶へ集まる。集まって、誰も手を出さない。出していいのは、配られてからだと、全員が知っている。


「その前に」


夫人は座布団に座って、子供たちを見回した。


ゆっくりと、端から。目がひとりずつの上を通っていく。急がない。流さない。顔を見て、数を数えているのだと、わたしには分かった。この人は、子供たちを眺めているのではない。数えている。


「……八人、ね」


小さな声だった。確認するような、頷くような声。


マダムが、黙って頷いた。言葉は交わされなかった。交わす必要のない問答が、あの短い間に済んでいた。


夫人の目が、わたしの上で止まった。一拍。本当に、一拍だけ。すぐに次の子へ移った。でも、その一拍の中で、わたしは頭のてっぺんから爪先まで、全部を見られた気がした。見られて、仕舞われた。棚に戻される品物のように。


「あなたが、新しい子ね」

「……うん」

「名前は」

「ろく」


答えてから、それがこの場所でもらった名前だと気づいた。六つめの空の部屋の番号と、いちばん小さい子が指さした「ろく」。同じ字で、違うもの。違うものに、同じ音がついている。


夫人は、少しの間、わたしを見ていた。


「名前をもらったのね、いい名だわ」


それだけ言って、籠に手を戻した。瓶を配り始める。ひとりに一本ずつ。子供たちは両手で受け取って、順番に「ありがとうございます」を言う。練習したのだろう、歯抜けの多い発音で。


わたしの番が来た。瓶を、差し出される。受け取る。ガラスは冷たくて、中の林檎は蜜の色に沈んでいた。


「食べ方はご存知?」


首を振った。


「蓋を開けて、刺して食べる。蜜は、残さず飲むのが作法よ。うちの息子は、いつも蜜を残すの。もったいない子」


誰に言うでもない口調で、そう付け足した。息子、というのは、あの屋敷の当主のことだろう。大きな屋敷の主人が、蜜を残す子供だった頃がある。そのことを、この人は今も「もったいない子」と呼ぶ。


配り終えて、夫人はお茶を受け取った。子供たちは広間の隅で、それぞれの瓶と格闘している。蓋の開かない子の蓋を、フィンが渋々開けて回っていた。ミラは林檎を三つに分けて、小さい子たちに行き渡らせている。歓声と、木の匙の音と、雨の音。


わたしは、自分の瓶を開けた。林檎を刺して、口に運ぶ。

甘かった——

甘い、ということは知っている。温室の食事にも、甘味は時々あった。規定量の、決まった形の、甘い塊。でも、これは違った。林檎の実が、蜜の中で柔らかくなっていて、噛むと蜜が沁み出して、蜜の奥から果実の酸っぱさが顔を出す。甘いだけではない。甘さの中に、層がある。


瓶の底の蜜を、教わった通りに飲んだ。喉の奥に、温かいものが落ちていく。外は雨で、指先は冷たいままなのに、身体の真ん中だけが温かかった。


「美味しい?」


いつの間にか、夫人が隣を見ていた。


「……うん」

「よかった」


よかった、という言葉のわりに、その顔は笑っていなかった。笑っていないのに、不機嫌でもなかった。この人の顔は、決まっているのだ。決まった顔のまま、全部を見て、全部を納めている。温室の検査官たちも、感情のない顔をしていた。でも、あれとは違う。あの顔には何もなかった。この人の顔には、しまってあるものが多すぎる気がする。


お茶を飲み干してから、夫人はマダムと並んで台所に立った。

二人の会話は、聞こえない。聞こえないのではない。聞くな、という距離の取り方を、二人がしている。わたしは豆の笊を膝に戻して、摘み出す仕事に戻った。割れた豆。虫食いの豆。笊の底に残る、綺麗な豆。


台所の向こうで、ふたつの小さな背中が並んでいる。

年齢も、背の高さも、似ている二人だった。あの二人は、何年の付き合いなのだろう。何年分の、聞かないことが積み重なっているのだろう。


 夕方、夫人は帰った。雨はすでに上がっていて、西の雲の切れ間から、薄い光が差していた。子供たちは門まで見送りに行く。わたしも、列のいちばん後ろについた。


「また明日」


振り返って、夫人は言った。また明日、と、この人は言う。約束のように言う。明日が来ることを、疑っていない声だった。門の外へ出て、数歩歩いて、その人は一度だけ立ち止まった。振り返らなかった。立ち止まっただけだった。何を見ていたのかは、分からない。背中は、こちらに何も語らなかった。


 夜。寝所の灯が消えて、寝息が満ちていく。わたしは横になったまま、目を閉じた。意識が、するすると抜けていく。


今夜は、遠くまで歩いた。


いつもの子の夢を通り過ぎて、寝所の外へ、庭へ、街道へ。夢の入り口は、眠っている人の数だけある。農家の夢。宿屋の夢。どこかの兵士の夢。どれも曇り硝子の向こう側で、それぞれの色で明滅している。わたしは、その前を歩くだけだ。立ち寄ることもできる。でも今夜は、歩くことが目的だった。


歩きながら、思っていた。


あの人の夢は、どこにあるのだろう。甘い蜜の人。数を数える人。一拍だけ、わたしを見た人。あの人も、どこかで眠っている。眠っているなら、夢の入り口があるはずだ。あの人の夢は、温かいのだろうか。それとも、雨の中みたいに、静かなのだろうか。


探す、ということを、したことがなかった。いつも、辿り着くままに立っていた。でも今夜は、探したかった。街の方へ、街の方へ。眠りの気配を辿って、歩く。


見つけた。


見つけた、と分かった。分かったのは、その入り口が、他の全部と違っていたからだ。扉が、あった。

今まで見てきた入り口に、扉はなかった。曇り硝子のような、柔らかな隔たりがあるだけだった。近づけば、その向こうに立ち入れた。それがこの場所の決まりだと思っていた。


でも、そこには、扉があった。


木の扉。取っ手のない、隙間のない、ぴったりと閉じた扉。触れてみる。冷たかった。ということ自体が、この場所では初めてだった。夢の中に、冷たいものはなかったはずだ。


押してみた——


でも、動かない——


耳を近づけてみた。向こう側に、眠っている人がいるはずだった。呼吸の気配すら、何も伝わってこない。閉じている。完璧に、内側へ閉じている。


どれくらい、その前に立っていただろう。時間は、この場所では測れない。長かった気がする。短かった気もする。わたしは扉に手を当てたまま、考えていた。ノックをする、という考えも浮かんだ。浮かんだが、しなかった。ノックは、中の人に届く。届く、ということは、気づかれる、ということだ。


気づかれてはいけない気がした。根拠はない。根拠はないのに、身体がそう教えていた。


手を、扉から離した。


離した手のひらには、冷たさだけが残っていた。



 目が覚めると、窓の外はまだ暗かった。雨上がりの、湿った朝の気配。隣では小さい子が、毛布を蹴飛ばして眠っている。いつも通りの朝のはじまり。毛布を直して、起き上がる。


畳む手つきは、いつも通りだった。端を揃えて、三つ折りにして、枕を載せる。台所へ行けば、竃に火が入っている。椀は八つ。粥の匂い。マダムの丸まった背中。


何も変わっていない。変わっているのは、わたしの手のひらに、夜の冷たさが残っていることだけだ。


あの扉のことは、誰にも言えない。というのは正確ではない。言う言葉を、持っていないのだ。夢を見た、と言えば、それは夢の話になる。でも、あれは夢の話ではない。夢の中で、夢に入れなかった話だ。そんな話の、どこに言葉がある。


朝食の席で、小さい子が言った。


「おばあさま、きょうも、くるかな」

「来るよ。毎日来る人だ。いつもは子供達が仕事をしている合間に来るのだけどね」


ミラが答える。当たり前のように答える。毎日来て、菓子を置いて、数を数えて、帰っていく人。それが、この場所でのあの人の全部だ。


全部のはずなのに。


わたしは粥を啜りながら、自分の手のひらを見ていた。昨夜の冷たさは、もう消えている。消えているのに、そこにあったことだけは、消えなかった。


昼前、夫人は来た。昨日と同じ藍色の外套で、同じ籠を提げて。子供たちが同じように駆け寄って、同じように数が数えられる。瓶は今日も八つ。わたしは昨日と同じ位置に座って、蜜煮の瓶を受け取った。


「美味しかった?」


訊かれた。


「……うん」

「よかった」


昨日と同じ言葉。昨日と同じ顔。その顔を見上げながら、わたしは思っていた。この人の夢には、扉がある。誰にも、言えないまま。

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