第五話:遠い砲声
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申し訳ないです・・・
避難民が、領地に流れ始めている。最初は一日に二、三人だった。街道を、家族連れが、背中に荷を載せて歩いてくる。靴は皆、泥に汚れていた。荷車を引く者もいて、荷の上で子供が眠っており、揺れるたびに頭が小さく揺れていた。山羊を連れた一家もいた。その山羊だけが、よく太っていた。
一週間で十人を超え、十日で、数十人になった。皆、北の方から来る。レイラが門の上から数えた限りでは、最も多い日で、一日に十九人だった。教会堂が開放された。床に藁が敷かれ、毛布が配られた。レイラは献立表を作り、物資の台帳をつけ、配膳の順路を決めた。数字で構成された問題は、数字で解けた。
ただ、食料の帳尻だけは、日ごとに苦しくなっていく——
その日の午後、改訂した献立表を届けるため、教会堂に向かった。歩いて十五分。裏口では、炊き出しを仕切っている村の婦人が、大鍋の灰汁を取っていた。
「おや、屋敷の人かい。……へえ、豆を増やすのね。うちの亭主がまた文句を言うよ。豆ばっかりって」
「豆は、腹持ちがいいです。……文句を言われた時の返答も、表の裏に書いてあります」
「……なんだい、これ。『腹持ちがいいのです』……あんた、ずいぶん生真面目だねえ」
婦人は笑って、献立表をエプロンで手を拭いてから受け取った。帰り道、教会堂の前の広場で、避難民の子供たちが石けりをしていた。その中の一人、五つか六つの女の子が、レイラをじっと見上げて、言った。
「おねえちゃん。かみ、しろいね。おばあちゃんなの?」
「十八歳です」
女の子は、くすくす笑って、石けりの輪に戻っていった。婦人が「失礼なこと言うんじゃないよ」と叱る声が、背後から聞こえた。レイラは少しの間その場に立ってから、屋敷への道を戻った。髪を一本、指で摘んでみた。銀色だった。白ではない。……そういえば、子供は皆、初めて見るものを良く見る。それだけのことだ。
書斎では、役人たちの声が絶えない。
「受け入れ先の割り振りはどうなってる!」
「領内の空き家は三軒。宿屋は満室です」
「教会堂の藁が湿気てきた。交換しろ」
「藁より毛布が先です。業者に掛け合って——」
ノエルは机に座ったまま、届く書類に次々と目を通していた。空の珈琲カップが、机の隅に三つ並んでいる。レイラが昼の報告に入ると、ノエルは書類から顔も上げずに手だけを出した。報告書を受け取る手つきだった。
「食料です。現状の流入が続けば、冬まで持ちません」
「……備蓄の買い付け、予算を回す。値が釣り上がる前に、今日中に手配だ」
「それと、キャベツの納品が十五束でした。注文は五十です」
「……なんでだ」
「北の街道が詰まっているそうです。荷が通りません」
ノエルはようやく顔を上げて、天井を見た。それから、大きく息を吐いた。
「分かった。献立を組み直してくれ。豆を多めに。キャベツは半分に刻んで、かさ増しにしろ」
「了解しました。……なお、豆の返答文は既に配布済みです」
「何の話だ」
「いえ」
引き下がりかけて、レイラは机の端を見た。朝に置いたはずのパンが、一切れも減っていない。
「ノエル様。昼食を召し上がっていません」
「あー。食う。あとで食う」
「『あとで』は、昨日も聞きました」
「今日は食う。……たぶん」
たぶん、は記録に値しなかった。十五分後に盆を回収しに行くと、パンは半分だけ減っていた。
夜。書斎に夜食を運んだ。蝋燭は二本目に入っている。芯が長くなって、炎が揺れていた。レイラは湯気の立つ盆を置いてから、燭台の芯を鋏で切った。作業の間、ノエルのペンは止まらなかった。
「……悪い。ありがとうな」
「休息を推奨します」
「分かってる。でもな、俺が一時間休むと、この紙のどこかの誰かの飯が、一時間遅れるんだよ」
盆を机に置く。スープの湯気が書類の端にかかって、ノエルが慌てて紙をどけた。
「あぶな。シエル、次から湯気の多いやつは手前に置いてくれ」
「了解しました」
引き下がろうとして、扉のところで振り返った。ノエルはもう書類に顔を落としている。袖口のインクが、昨日より広がっていた。レイラは、湯気の立つスープと、ペンの音とを、順番に見た。何か言おうとして、何を言うつもりだったのか分からないまま、扉を閉めた。
食料庫の鼠は、罠にかからなかった。仕掛けて三日目の朝、罠を見ると、バネだけが作動していた。餌は綺麗に無くなっている。器用な鼠だ。罠を元に戻そうと棚の奥に手を伸ばした拍子に、古い樽の後ろから、菓子の包みが出てきた。誰かが隠したものだろう。包みの端が、少し齧られていた。鼠か、主か。見なかったことにして、元に戻した。
夕方、厨房でトムと会った。包帯姿のまま、片腕で鍋を運ぼうとしていた。
「トムさん。左手は使わないでください」
「あ、レイラさん。いや、これ右手じゃないんで」
「……そうでした」
「それより見てくださいよ、この腕。ずいぶん良くなって。祭りには間に合いそうです」
「祭りに、腕が要るのですか」
「いや、要らないですけど。……出たいんですよ、出店。友達がやるんで。手伝いは無理でも、食いに行くくらいは」
「出店。……蜜煮の露店のようなものですか」
「そうそう。ああいうの。……あ、レイラさんも来ます? 友達の焼き菓子、うまいですよ」
「……検討します」
豆の分量の話をして、厨房を出た。出ながら、検討という言葉の置き場所を考えていた。置き場所は、見つからなかった。
その夜、遅く。レイラは、音で目を覚ました。遠い轟音。地の底を転がるような、重い音。気づいた時、体は床に転がっていた。窓から離れ、壁に背をつけている。右手は枕の下の短剣を握り、指先に火が灯りかけていた。
心臓が速い。呼吸を整える。四拍吸って、四拍止めて、四拍吐く。何千回と繰り返した手順だった。
四つ、吸って。四つ、止めて。
……途中で、数を見失った。
もう一度、初めから。四つ、吸って。四つ、止めて、四つ、吐く。窓の外で、雨が降っていた。雷が光った。遅れて、また轟音。雷だ。そう分かっていても、体は壁から離れなかった。馬小屋の方で馬がいなないている。遠くで犬が啼いている。それ以外は、静かだった。雨が小降りになるまで、レイラは壁に背をつけたままだった。指先の火は、消すのに時間がかかった。
巡回の途中、廊下でノエルと出会った。蝋燭を手にしている。袖口はインクで汚れたままだった。書斎を出たところらしいが、戻る気配ではない。
「シエル。お前も起きてたのか」
「雷が、少し」
「雷、な」
ノエルはレイラの右手を見た。短剣はもう鞘に収まっている。指先の火の名残の、かすかな明かりまでは、隠せなかった。
ノエルは、何も聞かなかった。
「少し休んでけよ。雨、見てくから」
「巡回の途中です」
「俺も巡回だ。ちょうどいい。二人で回れば半分で済む」
計算が合っていない。二人で回っても、歩く距離は変わらない。レイラは訂正しようとして、やめた。訂正しない方がいい場面というものが、この一年でいくつかあることを覚えていた。この場面がそれに該当するかは不明だったが、試しに該当させてみることにした。
並んで、歩いた。
「そういや、鼠は」
「負けています」
「……負けるなよ」
「罠を替えます。……ただ、相手は、なかなかの手練です」
「鼠に手練も何もないだろ」
「あります。餌だけを取っていきます」
「……そいつは手練だな」
中庭の渡り廊下で、ノエルが足を止めた。雨に煙る庭を眺めている。
「……姉貴のいる方は、もっと近いんだろうな。この音」
「はい」
「手紙、また来てたよ。三日前に。『元気にやってる』って、それだけ」
「それだけ、ですか」
「あの人にとっての手紙はいつもそれだけだ。死んだら届かない手紙だから、届いた時点で用済みなんだと」
ノエルはくすりと笑う。レイラは窓の外を見たままだった。言いかけた文があった。ヴェラは、と始まる文だ。その先が、うまく組み立たなかった。元気なのでしょうか、と続けるべきか。考えているうちに、間が過ぎた。
「……いえ」
「ん?」
「何でもありません」
ノエルは前を向いたまま、少し笑った。
「お前、言いかけて止めるの、下手だな」
「そうですか」
「そう。まあ、いい。聞きたいことができた時に、聞け」
その後、二人で渡り廊下を往復して、別れた。巡回にかかった時間は、いつもとほぼ同じだった。
翌朝、避難民の先導役が屋敷を訪れた。初老の男だった。どうやら、避難民のまとめ役らしい。皺の深い手で、何度も帽子を取っては被り直していた。ノエルは書斎で応対し、レイラは茶を運んだ。用件は十分ほどで終わった。男は深く頭を下げて退出していく。廊下で、給仕に控えていたレイラとすれ違った。
その時だった。男の足が、止まった。レイラの、銀色の髪を見ていた。目が見開かれて、息を呑む音が廊下に小さく響いた。
「……あ、あなた、は……」
「何か、ご用ですか」
男は数瞬、レイラの顔を見ていた。それから慌てて頭を下げた。深く。何度も。
「いえ。……人違いでございます。失礼、いたしました」
男は、逃げるように去っていった。杖を突く間隔が、乱れていた。見覚えはない。レイラは給仕の盆を畳んで、書斎に戻った。
ノエルは窓の外を見ていた。
「ノエル様。先ほどの方が」
「見たよ」
振り返らずに、そう言った。いつもより、低い声だった。
「シエル。今後、避難民への対応は、俺の指示があるまで表に立たないでくれ。炊き出しの献立と物資は変わらず頼む。だが、顔を見せるのは控えろ」
「理由を」
「お前の銀髪は目立つ。それだけだ」
レイラは頷いた。
「承知しました」
引き下がる途中、渡り廊下の窓の外に目をやった。門のあたりを歩く初老の男の背中が見えた。男は一度だけ立ち止まり、屋敷の方を振り返った。それから、その日の午後から、レイラは髪に布を被るようになった。厨房裏の通用口を使うようになった。教会堂の方角が見える廊下の窓の前を、通らなくなった。
回り道で、四十二歩、増えた。帳簿の隅に書いて、それから、線で消した。書くほどのことでは、なかった。
夜。自室。日誌を開く。挟んであった飴色の包み紙がするりと落ちて、昨日の頁が開いた。拾って、挟み直してから、今日の頁を開く。——ペンを執る。
『本日の血液消費量:六滴。 用途:巡回の灯×2、夜食の保温、書斎の灯、文書の乾燥、補助。
備考一:雷。馬がいなないき、犬が啼いていた。
備考二:避難民のまとめ役が来た。帰り際、屋敷を振り返っていた。
備考三:明日より、避難民対応は裏方。ノエル様の指示。髪に布を被る。
備考四:鼠、罠の餌だけを持っていく。手練。罠を替える。
備考五:教会堂の子供に、おばあちゃんと言われた。十八歳ですと訂正した。』
筆を置く。書きたいことが、もうひとつあったような気がした。ペンを取り直して、それから、また置いた。思い出せなかった。
灯りを消す。闇の中で、遠くの犬がまだ啼いていた。布団に入ってから、レイラは布に包むはずの自分の銀色の髪を、しばらく手の中で握っていた。
白彩の裏話:
最近食トレをしてます。夏バテやら、体調不良やら多かった気がするので、やっぱり食事の大切さを気付かされています。おすすめの増量法があったらこっそり教えて欲しいです




