第四話:他人のための魔法
午前五時半。厨房には、まだ誰もいない。レイラはかまどに小さな火を灯し、鍋の前に立った。木の匙で、琥珀色の蜜をゆっくりかき混ぜる。蜜煮の試作、二回目である。露店の老婆の話は、魔法の記録も含めて、一言も漏らさず記憶していた。果実の下処理、蜜の量、灰汁の取り方、火にかける時間。工程は完璧に再現した。それでも出来上がったものは甘く、というより、甘いだけの塊だった。
原因の特定に半日かかった。答えは鍋だった。露店の鍋は底が厚く、ここの鍋は薄い。熱の入り方が違えば、水分の抜ける速さも変わる。蜜の濃度は、三分煮詰めすぎると簡単に変わってしまう。工程は記憶していた。ただ道具のことまで、記憶していなかった。
「……よし、今日こそ」
食堂の火炉の前。エステル家当主・ノエル。レイラは蜜煮の調理に夢中で、その存在に気づけなかった。ノエルは指先を宙に掲げて、気合を入れている。朝食の湯を沸かすための、火起こしの魔法。生活魔法の基本中の基本。誰にでも使える、世界で最も簡単な術式のひとつ。
「十秒……いや、八秒で灯す。見てろ」
「了解しました。計測を開始します」
レイラは、腕に巻いた時計を見る。メイドの仕事に時刻の正確さは必須。ついでに言えば、主の挑戦の記録係も、いつの間にか彼女の任務になっていた。——ノエルの指先が、微かに光る。
五秒。……まだ灯らない。
十秒。……灯らない。
十五秒。指先の光が、不安定に明滅し始める。
十八秒——そして、二十秒。
「……お、おお」
二十一秒目。指先に、マッチの火ほどの火種が、ポツリと灯った。
「灯った! 二十一秒! 昨日より九秒速い!」
「記録しました。……なお、参考値として申し上げますと、私が同じ術式を行使した場合の所要時間は、約三秒です」
「参考値って言うな。聞きたくない値だそれは」
「あと、湯は既に沸いています。私が別途、沸かしました」
「……え」
鍋の湯は、ほどよく沸騰している。ノエルは、自分の指先の火種と、完成している朝食を、交互に見た。
「……俺のこの火は、何のために灯ったんだ」
「練習のため、ではないですか」
「……そうだな。そういうことにしとこ。」
ノエルは自嘲気味に笑って、席についた。この人は、負けた場面でも妙に潔い。その潔さの正体が、レイラにはまだ分からない。分からないが——記録には残っている。『ノエル様は、自分の非を隠さない』と。
そんな朝を過ごしている中、窓の外で烏が啼いた。見上げると、庭の木の枝に一羽とまっている。こちらを見ているような気がした。レイラは棚の端に置いてあった昨日のパンの耳を一つ取り、窓を開けて、外の濡れ縁に置いた。烏はしばらく動かず、それからひとつ跳んで、パンの耳を咥えて飛び去った。
「朝が随分と早いんですね」
「鳥と話しているのか?」
「……? 私、今鳥に話しかけていましたか?」
「はは、自覚なくて鳥に話しかけたのか? シエルは面白いな」
烏に言っても仕方ない。それでも言ってしまった。何故だろう。
そこからは鍋の中身を皿に移し、窓辺に運んで朝日にかざす。果実が光を通した。店のものと、同じ色をしている。失敗作は捨てていない。小瓶に移して棚の奥に置いてある。甘すぎるので誰にも出せないが、捨てるのも何か違う気がして、そのままになっている。あの棚には、そういう「そのまま」のものが、少しずつ増えていた。
朝食の席に、小さな皿がひとつ、並んだ。琥珀色の、果実の蜜煮。街の露店で買った瓶詰めを、レイラが今朝、再現を試みたものだった。
「これは?」
「レシピの記憶に基づき、試作しました。街の露店の再現、三回目。評価をお願いします」
「評価って……いや、いいけど」
ノエルは一口、食べた。ゆっくりと、咀嚼する。レイラは、その間、じっと主の顔を観察した。表情筋の動き。咀嚼の速度。喉の動き。それから、もう一口。レイラは立ったまま待った。
「うまい。本家より上手いかもしれん」
「本物を上回ることは、再現の目的ではありません」
「細かいこと言うな。……ん?」
ノエルはふとレイラを見た。
「お前、これ、感想を聞くために作ったのか。今朝の台所での水の音の正体はこれか?」
「洗い物は任務です。作っていたのは、その後です」
「つまり、任務じゃない時間に、か」
「はい」
「……なあシエル、気づいてるか?」
「何を、ですか」
「お前さ、前に俺に言ったろ。『味を報告しろ』は重要任務だって。……今、お前の方から、味の評価を求めてるぞ」
……言われて、レイラは初めて気づいた。確かに。今朝のレイラは、命令されていない。誰にも頼まれていない。蜜煮の再現は、引継書のどの項目にも該当しない。自発的に、誰かに何かを食べさせ、その評価を求めている。これは、任務か。……任務ではない。では、何か。
「……記録します。該当する分類が、現時点では不明です」
「また保留か。……お前の保留ってやつは、いつか全部、ちゃんと解決するといいな」
ノエルはしばらく蜜煮を見ていた。それから三口目を、さっきよりゆっくり食べた。
「おいシエル。これ、毎朝作れるか」
「材料と時間があれば」
「頼む。うまい」
「了解しました」
レイラは頷いた。厨房に引き上げる途中、何度か振り返りそうになった。用は済んでいるのに、である。
午前九時。西棟の廊下で、薪を運ぶ使用人とすれ違った。厨房手伝いの青年だ。顔は知っている。話したことは、ほとんどない。
「あ、おはようございます」
「おはようございます。その薪、上から三本目がずれています。落ちま——」
「え?」
言い終わる前に薪が一本崩れた。レイラは一歩踏み込んで受け止めた。粗い木の皮が手の甲を擦る。
「あ、ありがとうございます……っ」
「抱え方を変えてください。重心が高すぎます。腕を出してください」
青年の腕の中の薪を二本組み替える。太いものを下にして重心を下げ、脇で固定する形だ。
「どうぞ」
「うわ、軽い」
「軽くはありません。安定しただけです」
「あ、はい。ありがとうございます」
青年は何度も頭を下げて去っていった。二度ほど振り返っていた。レイラは手の甲を見た。浅い擦り傷がひとつ。かすり傷の範囲だ。放っておけば夕方には塞がる。いつものことである。廊下の窓の外では、さっきの烏が、今度は屋根の上にいた。パンの耳は効いたのかもしれない。
事件は、昼下がりに起きる。レイラは西棟の廊下を巡回していた。午後の区域の確認。窓の施錠、床の埃、備品の点検——。その時、庭の方から、鈍い音がした。木の倒れる音。それに続いて、人の声。悲鳴、と呼ぶには短く、うめき声、と呼ぶには鋭い音。レイラの体が、思考より先に、窓に向かった。
中庭。倒れた脚立。植木の剪定をしていた若い使用人が、地面に倒れている。今朝の青年だった。右腕からは血が流れていて、おそらく剪定鋏が、落下の際に腕を深く裂いたと見受けられる。そして血の勢いが、強い。
(……出血部位、前腕。深さ、深部まで到達。止血、必要)
状況の把握と同時に、レイラは窓を開けた。二階からの距離、約四メートル。階段を回るより、直接降りる方が早い。レイラは窓枠を踏んで、庭に降りた。着地の衝撃を、膝で殺す。使用人のもとへ、砂利を蹴って三歩。
「動かないでください。腕を見せてください」
「あ、あの、血が、血がいっぱい……」
若い使用人——顔は知っている。厨房の手伝いをしている者だ、痛みと恐怖で、目を見開いていた。呼吸が浅い。動揺している。
「見ています。じっとしていて、呼吸をゆっくり。いいですか、今から私が血を止めます。あなたは何もしなくていい。空でも見ていてください」
「ぜ、ぜんぜん痛くないです……へ、変なの」
「痛みはあとで来ます。来てから考えてください」
傷は深い。治癒魔法で完全に塞げる範囲を超えている。だが、出血を止めることはできる。レイラは指先を傷口の上にかざして、血を引いた。治癒の魔法は、他の魔法と少し違う。傷を塞ぐ力は、術者自身の体から引き出される。人の傷を治すたび、自分の体の修復の力が、その分だけ削られる。その仕組みを知っていて、使った。
(……コストを算出。血小板系統の消費、推定、通常の八滴分。残量には問題なし。……実行)
「これから、血を止めます。少し、じっとしていてください」
使用人の青年が、不安そうにレイラを見上げた。その目が、レイラの腕——袖の下の、古い傷——に、一瞬だけ触れた。レイラは気に留めなかった。今は、術式が先だ。指先に、一滴の血を灯す。血が淡い光に変わり、光が傷口に沈んでいく。出血が緩やかになり、やがて止まった。
「止まりました。傷そのものは治りきっていません。医師の手当てが必要です。歩けますか」
「は、はい。……あの、ありがとう、ございます」
「腕を高く。心臓より上に。ゆっくり立ちます」
青年の左腕を取って立ち上がらせた。その体が、細かく震えていた。処置は終わっている。つまり、この震えは傷の問題ではない。傷の問題でないものに、今の魔法は届かない。出血は止まり、歩けて、医師への段取りも立つ。なのに、レイラの足はその場に留まった。
「寒いですか」
「え?」
「震えています。寒さのせいではないですね」
「……すみません。その、血がいっぱい出て。自分の血なのに、怖くて」
「そうですか」
それ以上、言うことがなかった。言うことがないのに立ち去るのも変な気がして、レイラは青年の隣に立ったまま、待った。何を待つのかは、決めていなかった。風が吹いて、剪定し残した植木の葉が揺れた。遠くで、屋敷の誰かの笑い声がした。井戸の轆轤が回る音もした。三分ほど経って、青年の震えが止まった。
「もう、大丈夫です」
「では、医師のところへ。左手は使わないでください」
青年は何度も頭を下げて、通用口の方へ歩いていった。途中で一度だけ振り返り、レイラに手を振った。レイラは手を振り返すタイミングを逃して、ただ頷いた。倒れた脚立と剪定鋏を片付け、血の落ちた地面を拭いた。雑巾は二度洗った。拭きながら、先日引継書に追記した項目を思い出した。
午後は洗濯をした。今日は清々しいほどの快晴で、シーツが風に膨らみ、干し場が白い帆だらけになった。烏が干し場の柵にとまってこちらを見ていたが、レイラが近づくと逃げた。パンの耳は、やはり一回分の効果しかないらしい。畳みながら、昼のことを考える。三分。あの三分間、自分は何をしていたのか。立っていた。それだけのことを、なぜあんなに真剣にやっていたのか。真剣、という言葉が合っているのかも分からない。
完璧な遂行なら導き出せる頭を持っている。それでも、答えは出なかった。そうして様々脳内で情報を処理している内に、シーツは畳み終わった。
「……ということが、ありまして」
夕方、書斎。レイラはノエルに、事件の報告を上げる。発生時刻、負傷部位、術式の選択、コストの見積もり。全て、正確に。ノエルは書類から顔を上げて、じっと聞いていた。報告が終わると、ノエルは、少しの間、黙っていた。
「……で、治療までしたのか」
「はい。出血は止め、医師にも繋いであります。ひとつ確認があります。私の治癒は完全ではありませんでした。傷は残ります。あれは失敗に分類されますか」
「分類されない。人が一人、血を止めてもらった。助かったんだよ」
「助けた、という表現は過大です。止血したのみで」
「止血した、が、助かった、だよ」
ノエル様はそう言って、再度黙り込む。それから、レイラの右手を見た。治癒に使った、その指先を。
「指先から血を引いて、術式に変える、あのやり方」
「はい。訓練で習得しました」
「……上手いよな、それ」
ノエル様は目を細め、その目の奥に、一瞬だけ、何かがよぎった。レイラには読み取れない、何か。感嘆でも、安堵でもない。もっと深いところにある、見てしまった者の静けさのような、何か。
それ以上、ノエルは何も言わなかった。湯飲みを口に運んで、食事に戻った。鶏肉の焼き加減について一言「いい焼きだ」と言い、パンをお代わりした。食事が終わる頃、また口を開いた。
「なあシエル。治癒の魔法ってのは、使うと自分の傷の治りが遅くなるんだろ。人の分まで血を使うから」
「はい、その通りです。……なぜ、それを」
「ん?」
「治癒の仕組みは、一般的な知識ではありません。どこで」
「本で読んだ」
湯飲みが、また口元に上がった。
「どんな本ですか」
「……難しい本だ。お前にはまだ早い」
「メイドに読めない本があるのですか」
「ある。……いや、ないけど、ある。そういうことにしろ」
怪しい。しかしこれ以上追及しても、ノエル様は湯飲みの向こうに逃げるだけだろう。レイラは引き下がった。引き下がることも、最近覚えた。
ノエルは、レイラのことを、全て知っている。戦場で何をしていたか。血をどう使ってきたか。その手つきが、本来、何のために磨かれたものか。だからノエルは、それ以上、何も言わなかった。ただ、椅子から立って、レイラの隣まで歩くと、そっと、その肩に手を置いた。
「……今日は、よくやった。それだけ言いたかった」
「任務の範囲内だと考えます」
「任務って言うな。……人が一人、助かったんだ。お前の、その血で」
『助かった』——レイラは、その言葉を脳で処理をしつつも、懐疑的な部分があると思い首を傾げる。
「やはり迷う要素がありませんでした。目の前に出血があり、私に術式がある。魔術を行使するのは比較的に合理的な判断だと考えられます」
「……そうか。合理的、か」
ノエルは、くすりと笑った。だが、その笑いは、いつもの不真面目なものとも、書斎で見せる静かなものとも、少し違った。
「で、だ。……傷の治りが遅くなっていく魔法、それを承知で使ったんだよな」
「はい。コストとして認識しています」
「……それをさ。世の中の人間は、そういうのを、こう言うんだ」
ノエルは、ひとつ、言葉を置いた。
「——優しさって、言うんだよ」
レイラは、その言葉を、反芻した。
巡回の途中、玄関の辺りで呼び止められる。青年だった。右腕に包帯を巻いている。
「あ、あの。メイドの、お姉さん」
「はい」
「今日は、その、ありがとうございました。俺、あのままだったら」
「出血死までは至りませんでした。過大な評価です」
「いや、でも。その、これ、よかったら」
小さな紙包みが差し出された。街の露店の、安い飴だ。
「お礼です。包帯してて、荷運びはできないから、これしかなくて」
レイラは紙包みを見る。受け取るべきかどうかを考える前に、手が出ていた。
「……いただきます」
「あの、えっと、お姉さん、お名前は」
「レイラです」
「レイラさん。俺、トムって言います。厨房の」
トム、と頭の中で書き写した。顔と名前が、ようやく繋がった。
「トムさん。明日から、薪は太いものを下に、怪我の状態を観察しつつ無理はしないように」
「は、はい!」
トムはほっとしたように笑って、何度も頭を下げ、詰め所の方へ走っていった。包帯の腕を、ちゃんと心臓より上に保ったままだった。教えたことを守っている。良いことだ。レイラは飴をひとつ口に入れた。甘い。ただ甘いだけの飴だった。蜜煮の基準値には遠く及ばない。
それでも、飴が溶けきるまで、玄関に立っていた。その結果、巡回の時刻に五分遅れた。
夜。自室。レイラは右腕の袖を捲って、確認する。古い傷の縁が、いつもよりかすかに赤く、治りが遅れている。昼の治癒で消費した分、この腕の修復が後回しになっているのだ。次に手の甲を見る。朝の擦り傷も、まだ閉じていなかった。普段なら、とっくに塞がっている傷だ。予測通りの遅れである。それなのに、そのまま少しの間、見ていた。見ていても傷の閉じる速度は変わらないのに、見ていた。
袖を下ろして、机の上を見た。蜜煮の小瓶と、畳んだ飴の包み紙。
「……想定内」
呟いて、袖を下ろした。想定内。コストは計算済み。影響は軽微。問題はない。……問題はない、はずだった。だがその夜、レイラは床に就く前に、少しだけ長く、机の前に座っていた。蜜煮の小瓶が、月光を受けて、かすかに光っている。昼の青年の、震えていた肩。ノエルの、肩に置かれた手の重さ。
そして、「優しさ」という、分類不能の言葉。
レイラは右腕の傷を、そっと撫でた。いつもの、考える時の癖。今日という日は、計算で説明できる。出血、術式、コスト、結果。全て、数字に収まる。なのに——説明できない何かが、残っている。
その残りものが、今日という日の、本当の中身なのかもしれないと、レイラは、ぼんやりと思った。
包み紙を手に取って、二つに畳み直して、日誌の今日の頁に挟んだ。栞代わりだ。紙の節約にもなる。理由は、それでいいことにした。ペンを執る。
『本日の血液消費量:十二滴。
用途:
蜜煮の火調整、錠前、巡回時の灯二回。
治癒、一回。
備考一:蜜煮・第二回は成功。ノエル様が毎朝分を所望。果実と蜜の補充が必要。
備考二:朝、烏が窓に来た。パンの耳を置いたら咥えていった。昼は屋根の上、午後は干し場の柵にいた。近づくと逃げる。また来るかもしれない。
備考三:庭の件。医師への連絡は完了。厨房手伝いの名は、トム。明日、経過を確認する。薪の話もした。
備考四:巡回、五分遅延。』
日誌を書き終えて筆を置く。日誌を閉じると、今日の頁の間から、飴色の包み紙が少しだけはみ出していた。窓の外、屋根の上の烏はもういなかった。明日も来るだろうか。パンの耳を、少し多めに残しておくことにする。そんなことを考えながら、灯りを消した。
ご拝読ありがとうございました。
白彩の裏話:
最近夏を感じるためにホラー系の小説を読んでいたのですが、場面や情景が思い浮かび過ぎます。
たまーに夜とか外に出る時、道の奥から何か来るんじゃないかとヒヤヒヤする時があって、夜外に出るのが怖いです。




