第三話:街と記憶
「シエル。明日、街に行くぞ」
夕食の席で、ノエルはそう言った。食事の終盤、本日の絵皿が下げられた直後のタイミングだった。ノエルは食後の果物の葡萄を一粒、指先で摘んだまま、それを口に運ぶでもなく、転がすでもなく、宙に止めている。何かを言い出す前の、この人の癖だった。
「承知しました。護衛の編成を確認します。……単身ですか?」
「俺とお前の二人。祭りの準備、視察って名目でな」
「名目、ですか」
「ああ」
ノエルは悪びれもせず言い切って、ようやく葡萄を口に入れた。エステル家当主の公式行事には、目的と名目が乖離している事例が、少なくない。レイラの脳内記録では、過去一年で十七件。本日の発言で十八件目だった。
「同行の目的を確認します。護衛ですか、荷物持ちですか」
「どっちでもない。……前に言ったろ、祭り、見に行くかって」
「……先日の、問いの件ですか」
「ああ。あれはシエルに『行きたいか』を聞いた。今日のは違う。今日のは『行くぞ』だ。命令だ」
命令。その言葉に、レイラの中の何かがすっと静まった。水面に落ちた埃が沈んでいくような、静かな収束。命令なら遂行できる。命令には、答え方の手順書が要らない。
「了解しました。任務として遂行します」
「……そこは『はい、楽しみです』って言うところだよ、普通」
「楽しみ、ですか。……感情の発生は、現時点では確認できていません」
「確認できてないんかい」
ノエルは箸を置いて、しばらくレイラの顔を見ていた。それから、小さく吹き出した。
「いいや、そのままで。明日、確認すればいい。現地でな」
翌朝、レイラはいつもより四十分早く起きた。外出時の装備を確認する。メイド服の各所のポケットの中身。応急の手当て道具。非常食の乾燥果実。護衛対象の行動パターンの再確認——ノエル様は、書類から逃げる時と同じ速度で、人混みの中を逸れる傾向がある。見失い対策として、今日はマントを羽織ってもらうよう進言する。
準備を終えて廊下に出ると、ノエルはまだ寝ていた。
「……ノエル様。出発時刻を、十五分超過しています」
扉越しに呼びかけると、中から「あと五分」の声が返ってきた。この「あと五分」は、過去の実績から、平均して二十二分を要する。レイラは扉の前で、二十二分間、待機した。
正確に、二十一分四十秒後に、扉が開いた。
「……悪い。行くか」
「はい。まずマントを」
「いらないよ」
「視認性の確保が」
「祭りの視察に目立つ格好で行く当主がいるか。……おい、それ押し付けてくるな」
押し問答の結果、マントはノエルの腕にかけられた。羽織ることはしなかったが、持参はした。部分的成功として記録する。屋敷の門を出ると、朝の光が、石畳の道を白く照らしていた。鳥の声。遠くで井戸の轆轤が回る音。誰かが窓を開ける音。ノエルは大きく伸びをして、こう言った。
「さ。行くぞ、シエル。俺の領地だ。……たまには、自分の街を、客みたいに歩くのも悪くない」
街は、五月蠅かった。歓声。物売りの声。金槌の音。子供の笑い声。車輪の軋み。家畜の鳴き声。どこかでパンが焼ける匂い。革を鞣す匂い。乾いた埃と、濡れた石の匂い。
レイラは同行開始から数分で、感覚情報の過多を自覚した。戦場の喧騒とは種類が違う。戦場の音は全てが警戒対象だ。音の向き、音の距離、音の意味——全てを処理し続ける。ここの音は、どれも攻撃の予兆を含んでいない。金槌は釘を打っているだけで、笑い声は笑っているだけだ。
警戒すべき対象が存在しない空間は、巡回経路のない館以上に、把握が難しかった。処理すべき情報が多すぎるのに、処理の優先順位を決める基準がない。
「シエル。右」
「はい」
右を見た。布を売る露店。染めたての布が、風に並んで揺れている。藍色。茜色。鶯色。
「左」
「はい」
左。細工師の店先。木の小さな人形が、棚にずらりと並んでいる。鳥。犬。兵士。
「で、目の前」
言われるままに顔を向けると、いつの間にか目の前に、串に刺さった焼き菓子があった。ノエルがどこかの露店で買ってきたらしい。湯気が、ほんの少しだけ立っている。
「食え」
「……これは、任務ですか」
「任務。重要任務だ。味を報告しろ」
「了解しました」
レイラは焼き菓子を食べた。小麦粉と、蜜と、油。火の通りは適正。雑味はなく、熱の管理が行き届いている。露店としては高い技術水準。
「報告します。美味しい、です」
「……美味しい、のか?」
「はい。基準値を上回っています」
「基準値ってなんだよ。……お前の『美味しい』は、どこに基準があるんだ」
ノエル様に言われてハッとした。美味しいとは何か。何と比較して、美味しいのか。レイラの食の記憶を検索する。携行食。乾燥パン。塩漬け肉。水。戦場の食事は、栄養と保存性で構成されていた。味は評価項目に含まれない。含まれない、はずだった。
ではこの「美味しい」という判定は、何に照らして出したのか。
「……比較対象が、不明です」
「不明か」
「はい」
「じゃあ今日から作るか。お前の『美味しい』の基準をさ。———次、行くぞ。今度はあっちの、蜜煮の店だ」
「そんなに空腹ではありません。お気遣いなさらないでください」
ノエル様は聞こえないふりをし、次の露店へ歩き出した。人混みの中を、するすると縫っていく。レイラはその背中を追いながら、気づいた。この人は今日、護衛でも荷物持ちでもなく、レイラに街を見せることを任務にしている。名目と目的が乖離している、これで十九件目。
ただし今回は、目的が自分に向いている。その構造を、レイラはまだ、理解できないでいた。
蜜煮の露店では、小瓶に入った果実の蜜煮が並んでいる。瓶を光に透かすと、中の果実が琥珀色に光る。レイラはそれを、必要以上の時間、眺めた。観察だ。情報収集だ。そういうことにした。
「気に入ったか? 買ってくぞ」
「……不要です。ただ、光の透過率が、高いと」
「買ってくぞ」
「不要です」
「お前の『不要』は信頼性が低いからな。買う」
小瓶が一つ、レイラの手に載せられた。瓶はまだ、ほんのり温かかった。
広場の外れに、大きな掲示板があった。老若男女が、何かを読み、顔を見合わせ、声を潜めている。ノエルが足を止め、掲示板を見上げる。レイラも視線を合わせた。
『———戦況報。北の国境にて交戦継続中。第十二方面軍、増援を要請。徴兵告示。領内十八歳以上の男子は———』
活字の羅列が、目に入った。その瞬間、レイラの中で、何かが静かに軋んだ。
(……硝煙の匂い)
広場の喧騒が遠ざかる。金槌の音が、笑い声が、水底に沈んでいく。視界の端に、光の残像が散る。聞こえるはずのない音が、頭の芯で鳴っている。砲声。号令。倒れる音。血の匂い。指先から引く血が、尋常な速さで消えていく感覚。五十滴。六十滴。それでも足りなくて、もっと深く、もっと深く———
「シエル」
声が、近くにあった。いつの間にか、ノエルが横に立ち、レイラの視界を、体で半分だけ遮っていた。掲示板が、見えない角度に。
「……大丈夫か?」
「……問題ありません」
「手、握ってるぞ」
言われて、初めて気づいた。自分の右手が、左腕の袖の上で、固く握られている。布越しに、古い傷の凹凸が、指に触れていた。
「……失礼しました」
「失敗じゃない」
ノエル様は、またそう言った。この人は、レイラの逸脱を失敗と呼ばない。基準が違う。レイラの中の基準と、この人の中の基準が、ずれている。
「……先ほどの、記憶の再生です。制御可能な範囲です」
「記憶の再生って言うな。……思い出した、でいいだろ」
「思い出す、とは———」
「制御できなくても、いいんだよ」
ノエルは、掲示板に背を向けたまま言った。
「ここは戦場じゃない。制御が要らない場所だ。……分かるか?」
「分かりません」
「そうか」
ノエルは、それだけ言った。それ以上、掘らなかった。いつものように。
ただ、レイラが掲示板から離れるまで、ノエルはずっと、レイラと掲示板の間に立っていた。体で、半分だけ、視界を遮り続けた。完全に遮らなかったのは、きっと、遮り切ることは優しさではないと、この人が知っていたからだろう。その行為の意味を、レイラは記録した。
歩き出してしばらくして、ノエルが、ぽつりと言った。
「……第十二方面軍の方面は、今年に入って、動きが早い。前はもっと、間があった」
「……戦況が、悪化しているのですか」
「分からん。悪化してるのか、誰かが焦ってるのか。……どっちにしろ、あんまりいい知らせじゃない」
その横顔は、いつもの不真面目なものではなかった。領主の顔だった。レイラは、その顔を、脳内の引継書の空白に書き込んだ。『ノエル様には、二種類の顔がある』と。帰り道、日が傾き始めた頃、広場の端で、子供たちが遊んでいた。
輪になって、歌いながら、回っている。着古した服。襟の擦り切れたシャツ。膝の綻びたズボン。それでも、声は明るかった。靴の先が、石畳を蹴るたび、小さな埃が光の中に舞う。レイラは、立ち止まる。意識が、引かれた。正確に言うと、引かれている自分に、気づいた。
(……なぜ、立ち止まっている?)
任務は帰還だ。停留の理由がない。だが、足が動かない。子供たちの輪が、回っている。歌が、続いている。レイラは、その光景を、ただ見ていた。見ていた——
「……あれは、何ですか」
「ん? ……ああ、輪踊り。子供の遊びだ」
「遊び」
「楽しいから、やるんだよ」
「楽しい、から」
レイラは、その言葉を反芻した。楽しいから、やる。効率では説明できない行為。目的のない動作。成果を産まない時間。……だが、子供たちは、確かに、何かをしていた。
輪の中で、一人の小さな子供が転んだ。輪が止まる。転んだ子供の顔が、泣き出す一瞬前の形に歪む——だが、隣の子供が手を差し伸べて、何かを言った。転んだ子供は、顔を歪めたまま、手を取った。輪が、また回り始める。
レイラは、その一部始終を、一秒も逃さず、見ていた。
「ノエル様」
「ん?」
「……私は、ああいうことを、したことがありません」
ノエルは、少しだけ驚いた顔をした。それから、ゆっくりと、頷いた。
「……そうか」
「はい」
「シエル」
「はい」
「お前、今、『したことがない』って言ったな。……『したい』とは、言わなかったな?」
レイラは、答えられなかった。
先日の「回答不能」とは、何かが違う。あの時の空白は、綺麗な空白だった。何もない場所だった。だが今回の沈黙には、何かが引っかかっていた。透明な壁の向こうに、何かが見えるのに、届かない。そういう、引っかかりだった。その引っかかりの名前を、レイラはまだ知らない。
「……歩くか。日が暮れる」
「はい」
振り返って、歩き出す。背後で、歌が続いている。レイラは一度だけ、振り返りたくなった。
———振り返りたくなった、という事実を、レイラは自分でも不思議に思った。「振り返る」に該当する任務上の必要は、存在しない。なのに、首が、動きかけた。そして振り返りかけたことは、記録に値した。
屋敷に戻る頃には、空が橙色に傾いていた。門を潜り、庭を横切り、扉を開ける。いつもの帰還。いつもの手順。装備の点検、明日の予定の確認、夕食の支度の開始時刻の算出。なのに———靴を脱いだ時、レイラは、ほんの一瞬だけ、この床の冷たさに、安堵に似たものを覚えた。
(……帰還、完了)
任務は終了した。報告すべき事項は———マントの部分的成功、焼き菓子の味、蜜煮の瓶、掲示板、輪踊り、振り返りかけた首。……多い。今日の報告事項は、やけに多い。
「シエル。今日は疲れただろ。風呂の準備は俺がやっとく。……いや、できる気がしないからやっぱり頼む」
「了解しました」
いつものやり取りに戻った。レイラは風呂場へ向かう。その背中に、ノエルの声が追いついた。
「な、シエル。今日は———楽しかったか?」
答えるべき言葉を、検索する。任務の達成度は良好。目的は遂行された。事故はなかった。……だが、ノエル様が聞いているのは、そういうことではない。
「……分かりません。ただ」
「ただ?」
「……蜜煮の瓶は、光に透かすと、綺麗でした」
報告として、それは答えになっていない。レイラ自身にも、それが分かっていた。だがノエルは、笑った。声を立てずに、肩で笑った。
「……そっか。綺麗だったか。そりゃ、良かった」
その夜、レイラは自室で、右腕の袖を捲った。古い傷が、走っている。敵に受けた傷。そして、自分で引いた、血の痕。今日、掲示板を見た時、戦場での一部の記憶が再生した。血が消えていく感覚。あの感覚は、まだ、この腕に残っている。この腕は、覚えている。
今日の消費は、七滴だった。錠前一つ。湯沸かし補助。道案内の灯。巡回の灯。……そして、最後の一滴は、帰還後、自室で、蜜煮のレシピを記憶するために使った。店の老婆が話していた配合と手順を、頭の中に、正確に書き写すために。
戦場の記憶と、ここにきてからの一滴。レイラは、その落差を、ただ見つめていた。戦場では、より多くの血を削って、人を殺した。ここでは、一滴の血で、菓子の味を、記憶する。同じ血だ。同じ魔法だ。なのに、用途が、まるで違う。
その違いの意味を、レイラはまだ、知らない。
———今日という日の終わりに、レイラは、右腕の傷を、そっと撫でた。
いつもの、考える時の癖。ただし今夜は、その傷が、少しだけ、遠く感じられた。机の上には、蜜煮の小瓶が置いてある。枕元の灯りの光が、瓶を透過して、床に琥珀色の小さな円を落としていた。レイラはそれを眺めて、それから、灯りを消した。闇の中で、琥珀色の円が、最後に、ゆっくりと消えていった。
ただこの日のレイラ・シエルの日誌には、こう記される。
『本日の血液消費量:七滴。
用途:錠前、湯沸かし補助、道案内の灯、巡回の灯、蜜煮のレシピ記憶(好奇心)。
備考一:街の感覚情報量は、想定の三・二倍。過多。……だが、不快ではなかった。
備考二:掲示板にて、記憶の再生が発生。制御可能範囲。ノエル様は「制御が要らない場所」と仰った。……基準の不一致。要検証。なお、ノエル様は、私と掲示板の間に立っていた。
理由:不明。……不明だが、悪くなかった。
備考三:子供たちの輪踊りを、見た。「したい」とは言えなかった。「したくない」とも、言えなかった。……この状態の名称は、不明。あと、一度だけ、振り返りかけた。任務上の必要は、なかった。
備考四:蜜煮の味は、基準値を上回っていた。……「美味しい」の基準は、本日より、作成を開始した。
備考五:ノエル様の問い「楽しかったか」に、回答できなかった。……ただ、蜜煮の瓶の話をした。あれは、答えになっていない。……なっていないのに、ノエル様は、笑っていた』
ご拝読ありがとうございます。
白彩の裏話:
Xにポストする内容を日々考えているのですが、なかなか思い浮かびません。
日頃からSNSで発信するということを怠っていた弊害ですかね。これから学習していこうと思っています。
(本当に何を発信しようかな……)




