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戦姫メイド  作者: 白彩
戦のない世界に
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4/39

第三話:街と記憶

 「シエル。明日、街に行くぞ」


夕食の席で、ノエルはそう言った。食事の終盤、本日の絵皿(えざら)が下げられた直後のタイミングだった。ノエルは食後の果物の葡萄(ぶどう)を一粒、指先で摘んだまま、それを口に運ぶでもなく、転がすでもなく、宙に止めている。何かを言い出す前の、この人の癖だった。


「承知しました。護衛の編成を確認します。……単身ですか?」

「俺とお前の二人。祭りの準備、視察って名目でな」

「名目、ですか」

「ああ」


ノエルは悪びれもせず言い切って、ようやく葡萄を口に入れた。エステル家当主の公式行事には、目的と名目が乖離している事例が、少なくない。レイラの脳内記録では、過去一年で十七件。本日の発言で十八件目だった。


「同行の目的を確認します。護衛ですか、荷物持ちですか」

「どっちでもない。……前に言ったろ、祭り、見に行くかって」

「……先日の、問いの件ですか」

「ああ。あれはシエルに『行きたいか』を聞いた。今日のは違う。今日のは『行くぞ』だ。命令だ」


命令。その言葉に、レイラの中の何かがすっと静まった。水面に落ちた埃が沈んでいくような、静かな収束。命令なら遂行できる。命令には、答え方の手順書が要らない。


「了解しました。任務として遂行します」

「……そこは『はい、楽しみです』って言うところだよ、普通」

「楽しみ、ですか。……感情の発生は、現時点では確認できていません」

「確認できてないんかい」


ノエルは箸を置いて、しばらくレイラの顔を見ていた。それから、小さく吹き出した。


「いいや、そのままで。明日、確認すればいい。現地でな」



 翌朝、レイラはいつもより四十分早く起きた。外出時の装備を確認する。メイド服の各所のポケットの中身。応急の手当て道具。非常食の乾燥果実。護衛対象の行動パターンの再確認——ノエル様は、書類から逃げる時と同じ速度で、人混みの中を逸れる傾向がある。見失い対策として、今日はマントを羽織ってもらうよう進言する。


準備を終えて廊下に出ると、ノエルはまだ寝ていた。


「……ノエル様。出発時刻を、十五分超過しています」


扉越しに呼びかけると、中から「あと五分」の声が返ってきた。この「あと五分」は、過去の実績から、平均して二十二分を要する。レイラは扉の前で、二十二分間、待機した。


正確に、二十一分四十秒後に、扉が開いた。


「……悪い。行くか」

「はい。まずマントを」

「いらないよ」

「視認性の確保が」

「祭りの視察に目立つ格好で行く当主がいるか。……おい、それ押し付けてくるな」


押し問答の結果、マントはノエルの腕にかけられた。羽織ることはしなかったが、持参はした。部分的成功として記録する。屋敷の門を出ると、朝の光が、石畳の道を白く照らしていた。鳥の声。遠くで井戸の轆轤(ろくろ)が回る音。誰かが窓を開ける音。ノエルは大きく伸びをして、こう言った。


「さ。行くぞ、シエル。俺の領地だ。……たまには、自分の街を、客みたいに歩くのも悪くない」



 街は、五月蠅かった。歓声。物売りの声。金槌の音。子供の笑い声。車輪の軋み。家畜の鳴き声。どこかでパンが焼ける匂い。革を鞣(なめ)す匂い。乾いた埃と、濡れた石の匂い。


レイラは同行開始から数分で、感覚情報の過多を自覚した。戦場の喧騒とは種類が違う。戦場の音は全てが警戒対象だ。音の向き、音の距離、音の意味——全てを処理し続ける。ここの音は、どれも攻撃の予兆を含んでいない。金槌は釘を打っているだけで、笑い声は笑っているだけだ。


警戒すべき対象が存在しない空間は、巡回経路のない館以上に、把握が難しかった。処理すべき情報が多すぎるのに、処理の優先順位を決める基準がない。


「シエル。右」

「はい」


右を見た。布を売る露店。染めたての布が、風に並んで揺れている。藍色。茜色。鶯色。


「左」

「はい」


左。細工師の店先。木の小さな人形が、棚にずらりと並んでいる。鳥。犬。兵士。


「で、目の前」


言われるままに顔を向けると、いつの間にか目の前に、串に刺さった焼き菓子があった。ノエルがどこかの露店で買ってきたらしい。湯気が、ほんの少しだけ立っている。


「食え」

「……これは、任務ですか」

「任務。重要任務だ。味を報告しろ」

「了解しました」


レイラは焼き菓子を食べた。小麦粉と、蜜と、油。火の通りは適正。雑味はなく、熱の管理が行き届いている。露店としては高い技術水準。


「報告します。美味しい、です」

「……美味しい、のか?」

「はい。基準値を上回っています」

「基準値ってなんだよ。……お前の『美味しい』は、どこに基準があるんだ」


ノエル様に言われてハッとした。美味しいとは何か。何と比較して、美味しいのか。レイラの食の記憶を検索する。携行食。乾燥パン。塩漬け肉。水。戦場の食事は、栄養と保存性で構成されていた。味は評価項目に含まれない。含まれない、はずだった。


ではこの「美味しい」という判定は、何に照らして出したのか。


「……比較対象が、不明です」

「不明か」

「はい」

「じゃあ今日から作るか。お前の『美味しい』の基準をさ。———次、行くぞ。今度はあっちの、蜜煮の店だ」

「そんなに空腹ではありません。お気遣いなさらないでください」


ノエル様は聞こえないふりをし、次の露店へ歩き出した。人混みの中を、するすると縫っていく。レイラはその背中を追いながら、気づいた。この人は今日、護衛でも荷物持ちでもなく、レイラに街を見せることを任務にしている。名目と目的が乖離している、これで十九件目。


ただし今回は、目的が自分に向いている。その構造を、レイラはまだ、理解できないでいた。

蜜煮(みつに)の露店では、小瓶に入った果実の蜜煮が並んでいる。瓶を光に透かすと、中の果実が琥珀色に光る。レイラはそれを、必要以上の時間、眺めた。観察だ。情報収集だ。そういうことにした。


「気に入ったか? 買ってくぞ」

「……不要です。ただ、光の透過率が、高いと」

「買ってくぞ」

「不要です」

「お前の『不要』は信頼性が低いからな。買う」


小瓶が一つ、レイラの手に載せられた。瓶はまだ、ほんのり温かかった。



 広場の外れに、大きな掲示板があった。老若男女が、何かを読み、顔を見合わせ、声を潜めている。ノエルが足を止め、掲示板を見上げる。レイラも視線を合わせた。


『———戦況報。北の国境にて交戦継続中。第十二方面軍、増援を要請。徴兵告示。領内十八歳以上の男子は———』


活字の羅列が、目に入った。その瞬間、レイラの中で、何かが静かに軋んだ。


(……硝煙の匂い)


広場の喧騒が遠ざかる。金槌の音が、笑い声が、水底に沈んでいく。視界の端に、光の残像が散る。聞こえるはずのない音が、頭の芯で鳴っている。砲声。号令。倒れる音。血の匂い。指先から引く血が、尋常な速さで消えていく感覚。五十滴。六十滴。それでも足りなくて、もっと深く、もっと深く———


「シエル」


声が、近くにあった。いつの間にか、ノエルが横に立ち、レイラの視界を、体で半分だけ遮っていた。掲示板が、見えない角度に。


「……大丈夫か?」

「……問題ありません」

「手、握ってるぞ」


言われて、初めて気づいた。自分の右手が、左腕の袖の上で、固く握られている。布越しに、古い傷の凹凸が、指に触れていた。


「……失礼しました」

「失敗じゃない」


ノエル様は、またそう言った。この人は、レイラの逸脱を失敗と呼ばない。基準が違う。レイラの中の基準と、この人の中の基準が、ずれている。


「……先ほどの、記憶の再生です。制御可能な範囲です」

「記憶の再生って言うな。……思い出した、でいいだろ」

「思い出す、とは———」

「制御できなくても、いいんだよ」


ノエルは、掲示板に背を向けたまま言った。


「ここは戦場じゃない。制御が要らない場所だ。……分かるか?」

「分かりません」

「そうか」


ノエルは、それだけ言った。それ以上、掘らなかった。いつものように。


ただ、レイラが掲示板から離れるまで、ノエルはずっと、レイラと掲示板の間に立っていた。体で、半分だけ、視界を遮り続けた。完全に遮らなかったのは、きっと、遮り切ることは優しさではないと、この人が知っていたからだろう。その行為の意味を、レイラは記録した。


歩き出してしばらくして、ノエルが、ぽつりと言った。


「……第十二方面軍の方面は、今年に入って、動きが早い。前はもっと、間があった」

「……戦況が、悪化しているのですか」

「分からん。悪化してるのか、誰かが焦ってるのか。……どっちにしろ、あんまりいい知らせじゃない」


その横顔は、いつもの不真面目なものではなかった。領主の顔だった。レイラは、その顔を、脳内の引継書の空白に書き込んだ。『ノエル様には、二種類の顔がある』と。帰り道、日が傾き始めた頃、広場の端で、子供たちが遊んでいた。


輪になって、歌いながら、回っている。着古した服。襟の擦り切れたシャツ。膝の綻びたズボン。それでも、声は明るかった。靴の先が、石畳を蹴るたび、小さな埃が光の中に舞う。レイラは、立ち止まる。意識が、引かれた。正確に言うと、引かれている自分に、気づいた。


(……なぜ、立ち止まっている?)


任務は帰還だ。停留の理由がない。だが、足が動かない。子供たちの輪が、回っている。歌が、続いている。レイラは、その光景を、ただ見ていた。見ていた——


「……あれは、何ですか」

「ん? ……ああ、輪踊り。子供の遊びだ」

「遊び」

「楽しいから、やるんだよ」

「楽しい、から」


レイラは、その言葉を反芻(はんすう)した。楽しいから、やる。効率では説明できない行為。目的のない動作。成果を産まない時間。……だが、子供たちは、確かに、何かをしていた。

輪の中で、一人の小さな子供が転んだ。輪が止まる。転んだ子供の顔が、泣き出す一瞬前の形に歪む——だが、隣の子供が手を差し伸べて、何かを言った。転んだ子供は、顔を歪めたまま、手を取った。輪が、また回り始める。


レイラは、その一部始終を、一秒も逃さず、見ていた。


「ノエル様」

「ん?」

「……私は、ああいうことを、したことがありません」


ノエルは、少しだけ驚いた顔をした。それから、ゆっくりと、頷いた。


「……そうか」

「はい」

「シエル」

「はい」

「お前、今、『したことがない』って言ったな。……『したい』とは、言わなかったな?」


レイラは、答えられなかった。

先日の「回答不能」とは、何かが違う。あの時の空白は、綺麗な空白だった。何もない場所だった。だが今回の沈黙には、何かが引っかかっていた。透明な壁の向こうに、何かが見えるのに、届かない。そういう、引っかかりだった。その引っかかりの名前を、レイラはまだ知らない。


「……歩くか。日が暮れる」

「はい」


振り返って、歩き出す。背後で、歌が続いている。レイラは一度だけ、振り返りたくなった。

———振り返りたくなった、という事実を、レイラは自分でも不思議に思った。「振り返る」に該当する任務上の必要は、存在しない。なのに、首が、動きかけた。そして振り返りかけたことは、記録に値した。



 屋敷に戻る頃には、空が橙色に傾いていた。門を潜り、庭を横切り、扉を開ける。いつもの帰還。いつもの手順。装備の点検、明日の予定の確認、夕食の支度の開始時刻の算出。なのに———靴を脱いだ時、レイラは、ほんの一瞬だけ、この床の冷たさに、安堵に似たものを覚えた。


(……帰還、完了)


任務は終了した。報告すべき事項は———マントの部分的成功、焼き菓子の味、蜜煮の瓶、掲示板、輪踊り、振り返りかけた首。……多い。今日の報告事項は、やけに多い。


「シエル。今日は疲れただろ。風呂の準備は俺がやっとく。……いや、できる気がしないからやっぱり頼む」

「了解しました」


いつものやり取りに戻った。レイラは風呂場へ向かう。その背中に、ノエルの声が追いついた。


「な、シエル。今日は———楽しかったか?」


答えるべき言葉を、検索する。任務の達成度は良好。目的は遂行された。事故はなかった。……だが、ノエル様が聞いているのは、そういうことではない。


「……分かりません。ただ」

「ただ?」

「……蜜煮の瓶は、光に透かすと、綺麗でした」


報告として、それは答えになっていない。レイラ自身にも、それが分かっていた。だがノエルは、笑った。声を立てずに、肩で笑った。


「……そっか。綺麗だったか。そりゃ、良かった」


その夜、レイラは自室で、右腕の袖を捲った。古い傷が、走っている。敵に受けた傷。そして、自分で引いた、血の痕。今日、掲示板を見た時、戦場での一部の記憶が再生した。血が消えていく感覚。あの感覚は、まだ、この腕に残っている。この腕は、覚えている。


今日の消費は、七滴だった。錠前一つ。湯沸かし補助。道案内の灯。巡回の灯。……そして、最後の一滴は、帰還後、自室で、蜜煮のレシピを記憶するために使った。店の老婆が話していた配合と手順を、頭の中に、正確に書き写すために。

戦場の記憶と、ここにきてからの一滴。レイラは、その落差を、ただ見つめていた。戦場では、より多くの血を削って、人を殺した。ここでは、一滴の血で、菓子の味を、記憶する。同じ血だ。同じ魔法だ。なのに、用途が、まるで違う。


その違いの意味を、レイラはまだ、知らない。

———今日という日の終わりに、レイラは、右腕の傷を、そっと撫でた。


 いつもの、考える時の癖。ただし今夜は、その傷が、少しだけ、遠く感じられた。机の上には、蜜煮の小瓶が置いてある。枕元の灯りの光が、瓶を透過して、床に琥珀色の小さな円を落としていた。レイラはそれを眺めて、それから、灯りを消した。闇の中で、琥珀色の円が、最後に、ゆっくりと消えていった。



ただこの日のレイラ・シエルの日誌には、こう記される。


『本日の血液消費量:七滴。

用途:錠前、湯沸かし補助、道案内の灯、巡回の灯、蜜煮のレシピ記憶(好奇心)。

備考一:街の感覚情報量は、想定の三・二倍。過多。……だが、不快ではなかった。


備考二:掲示板にて、記憶の再生が発生。制御可能範囲。ノエル様は「制御が要らない場所」と仰った。……基準の不一致。要検証。なお、ノエル様は、私と掲示板の間に立っていた。

理由:不明。……不明だが、悪くなかった。


備考三:子供たちの輪踊りを、見た。「したい」とは言えなかった。「したくない」とも、言えなかった。……この状態の名称は、不明。あと、一度だけ、振り返りかけた。任務上の必要は、なかった。


備考四:蜜煮の味は、基準値を上回っていた。……「美味しい」の基準は、本日より、作成を開始した。


備考五:ノエル様の問い「楽しかったか」に、回答できなかった。……ただ、蜜煮の瓶の話をした。あれは、答えになっていない。……なっていないのに、ノエル様は、笑っていた』

ご拝読ありがとうございます。


白彩の裏話:

Xにポストする内容を日々考えているのですが、なかなか思い浮かびません。

日頃からSNSで発信するということを怠っていた弊害ですかね。これから学習していこうと思っています。

(本当に何を発信しようかな……)

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― 新着の感想 ―
人間らしい感情の揺らぎを獲得していく様子がとても美しいですね。 ノエル様の不器用な優しさなど、どのシーンも二人の関係性が丁寧に描かれていて魅力的です! 「……不明だが、悪くなかった」と記録するラス…
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