第二話:引継書のない仕事
こんばんは白彩です。
今回は文量が少なめですが、2話目になります。
エステル家のメイドの仕事には、引継書がある。前任のメイドが残した、分厚い一冊。掃除の手順。洗濯の温度。食事の好み。主人の起床時刻から、書類の山への介入タイミングまで、事細かに記されている。
レイラ・シエルは、この一年で引継書の全項目を習熟した。記載のある事案に関して、失敗率はほぼ零。引継書は優秀だった。前任者は優秀なメイドだったのだろう。ただひとつ、記載の精度に難がある項目がある。
『主人の呼称:旦那様』
———あれは、不正確だった。
正しくは「ノエル様」である。初日に訂正された。以来、レイラはこの一項目だけを、脳内で赤線修正した引継書と共に運用している。
「つまり引継書にも、欠陥はある」
朝の食堂でそう報告したら、ノエルは珈琲を吹きかけた。
「ぶっ……おい、それ俺の目の前で言うか? お前が訂正された件だろそれ」
「事実の記録です。なお、書類の山への介入タイミングは『三日に一度』とありますが、現状の増殖速度からすると、二日に一度が適正かと」
「介入タイミングって言うな。……書類は今日やる」
「昨日もそう仰っていました」
「今日はやる」
ノエルは断言した。レイラは備考として記録した。本日、書類は片付かない見込み。のちに判明するが、この日の書類は本当に片付かなかった。レイラの予測精度は、人間観察の分野においても既に高水準にあった。
来客があったのは、午前の作戦区域がほぼ制圧完了した頃だった。使いの者だった。隣領の商人の家から、書状と小包を届けに来た、初老の男。屋敷の者が応対する———引継書にある通りの、よくある手順のはずだった。男は玄関先で書状を渡し、慇懃に頭を下げ、用件を済ませた。そこまでは手順通りだった。
「……実は、ひとつ。私情でお詫びを」
男は、深く頭を下げたまま言った。
「先月、お届けしたはずの品が、届いておりませんでした。街道が……あちらの街道が、封鎖されまして。荷は戻されました。代金はお返しします。ですが、あれは……あの品は、この屋敷の奥方さまへの、先代さまからの贈り物の、その、仕立て直しで……」
言葉が、そこで切れた。男の肩が、小さく揺れていた。僅かながら目に涙も浮かんでいる様子だった。
「……職人が、亡くなりまして。街に、流れ弾が。……あの人にしか、直せない品でした。多分もう、二度と」
静寂。
レイラは状況を整理した。荷の遅延。職人の死。先代の贈り物。仕立て直しの永続的不能。事実は全て把握した。対応すべき事案として、構造的には理解している。だが———男は今、頭を下げたまま、黙っている。引継書を、脳内で検索する。
『来客への応対:書状を受け取る。茶を出す。用件を確認する』
……この項目には、続きがなかった。相手が泣いている場合の手順が、ない。
(どうすれば———)
分からない。戦場でこんなことは起こらなかった。戦場で人は泣かない。泣く余裕があるなら動け、と教えられてきた。動けない者は、動けなくなる。それだけの世界だった。だがここは戦場ではない。男は動ける。なのに、動かない。頭を下げたまま、ただ、揺れている。レイラは、できることをした。現時点での、最善を選択する。
静かに一歩下がり、茶を淹れに行った。引継書にあることの中で、いちばん近いと思われるものを、選んだ。
「……それで? 戻ってきたら、もういなかったと」
昼食の席で、ノエルは眉根を寄せていた。
「落ち度は、私にあります」
レイラは直立したまま報告した。
「対応不能な事案が発生しました。引継書に該当する手順がありません。代替として茶の提供を試みましたが、提供前に相手が退去。……対応、失敗です」
「失敗じゃないよ」
「しかし」
「失敗じゃない」
ノエルは、珍しく即答した。それから額に指を当てて、しばらく考えるような間を置いた。
「……あの人の街は、先月から状況が悪い。戦線が近づいてる。職人が死んだのは、多分、本当だ」
「戦況が、こちらに近づいているのですか」
「まだ遠い。……でも、遠いってのは、いつか近くなるってことでもある」
ノエルは窓の外を見た。庭の先、領地の町並み、そのさらに先の、どこか。
飄々とした人の顔が、一瞬だけ、違っていた。レイラにはその顔の名前が分からない。分からないが———記録には残った。
「なあシエル」
「はい」
「お前、あの人に茶を淹れに行ったんだろ。……それ、なんでそうした?」
「———引継書の記載事項の中で、最も近しいと思われる手順だったからです」
まだ自分でも頭の整理は追いついていないと感じるが、これは主人からの問いかけ。迅速に対応すべき事案である。
「手順書にないことをしようとした時点で、お前にとっちゃ結構なもんだよ」
「……意味が分かりかねます」
「分からなくていい」
ノエルは笑った。いつもの、不真面目な笑い方に戻って。
「そのうち分かる。……あ〜あ、でも俺がいればよかったな。ああいう時はさ、一言添えて、茶の一つも出して、『大変だったな』って聞くだけでいいんだ。手順は要らないよ。ただ、そばにいて、聞くだけ」
「……そばにいるだけ、ですか」
「そう。それが結構、難しいんだけどな」
そばにいるだけ。レイラはその言葉を、引継書の空白に書き込むイメージで、頭の中に記録した。『対応不能な事案の対応:そばにいること』。……曖昧すぎる。再現性が低い。検証が必要だ。
その日の夕方、仕事の途中で、レイラは玄関の前を通りかかった。足が、止まった。男が頭を下げていた場所。昼間と同じ石の床が、夕日で赤くなっている。
レイラは、その場に立ってみた。
……特に、意味はない。立ったところで、床は床だ。見えるものは、靴の先と、夕日の色だけだった。しばらく立ってから、踵を返した。夜の巡回の時間が、もうすぐそこに迫ってきている。
(……分からない)
その夜、ノエルは書斎の書類と対峙していた。レイラは定時の巡回の途中、書斎の前で足を止めた。扉の隙間から、明かりが漏れている。気配はひとつ。ペンの音がしている。……書類を、片付けている。
「ノエル様。……書類が、片付いています」
「おい、感動のポイントずれてないか? 普通そこは『頑張ってますね』だろ」
「予測との乖離が大きかったもので」
「予測って言うな」
ノエルは椅子の背に凭れて、疲れた顔で笑った。机の上の書類の山は、確かに、標高を半分ほど下げていた。その山の一番上に、見慣れない書状が置いてあった。昼の、使いの男が届けたもの。封は既に切られている。差出人の名は、レイラの視力でも読み取れた。
———ヴェラ。
「……ノエル様。それは」
「ん。姉貴からだよ。たまに来るんだ、こういうの」
姉貴。レイラは、その人物を知っている。知っている、という言い方が正しいかは分からない。記憶の底にいる。硝煙の匂いと一緒にいる。剣だけを持って、戦場を歩く人。
———レイラ。
その人は私を、そう呼ぶ。私の名は、あの人がくれた。
「元気でやってるみたいだ」
ノエルは書状を伏せて、それだけ言った。内容は、話さなかった。尋ねるべきかどうか、一瞬だけ判断に迷って———尋ねなかった。手順書にない問いだから、ではない。……なぜ尋ねなかったのかは、自分でも分からなかった。
「巡回、続けていいぞ。おやすみ、シエル」
「はい。……おやすみなさい、ノエル様」
扉を閉める。廊下を歩く。屋敷は静かだった。戦場の夜とは違う、静かさだった。戦場の静寂は、次の音を孕んでいる。ここの静寂は、ただ、眠っている。
レイラは窓の外を見て、それから歩き出した。眠る前に、日誌をつける。それだけの夜だった。
『本日の血液消費量:五滴。
用途:錠前、湯沸かし補助、庭の灯×2、巡回の灯。
備考一:対応不能な事案あり。手順書なし。対処は失敗。……ただしノエル様は「失敗じゃない」と発言。判定基準の不一致。要検証。
備考二:引継書への追記項目。『対応不能な事案の対応:そばにいること』。……曖昧。かつ再現性が低い。
備考三:ヴェラから書状あり。内容未聴取。……尋ねなかった。
備考四:書類は半分、片付いた。予測を外れた。
備考五:夕方、玄関に立ってみた。……何も、分からなかった。』
ご拝読ありがとうございます。
白彩の裏話:これから毎日投稿の際はやってみようかなと思ってます(ネタが尽きたら辞めます)
実はこの作品、自分が学生の時からずっと描きたいなって思っていました。学生の頃のエネルギッシュさって凄いですよね。今、色々世界を知っていざ執筆を始めようってなるまで相当な時間がかかりました。
時間を巻き戻せたら?と問われたら自分は速攻で断る自信があります。




