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戦姫メイド  作者: 白彩
戦のない世界に
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第一話:本日の作戦区域

こんばんは、白彩です。

この章のエピローグまで、毎日投稿で走りたいと思っています。


最後まで見ていただけると幸いです。

2章以降は隔週木曜日投稿に切り替わります。

 午前五時。レイラ・シエルは、完璧な一日の任務を開始した。まず館の見取り図を頭の中に展開する。本日の作戦区域は、東棟の廊下、食堂、旦那様の書斎(しょさい)、それから中庭。敵は『埃』。昨夜の雨で持ち込まれた『泥』。あと、ノエル様の書類の山——あれは倒しても倒しても増殖する、最悪の敵だった。


「まずは制圧から」


呟いて、箒(ほうき)を取る。


戦場では、最初に地形を制した者が勝つ。屋敷でも同じだ。廊下を、食堂を、書斎を、自分の領域にする。一度そうしてしまえば、あとは維持するだけでいい。

東棟の廊下に立って、レイラは一度、目を閉じた。埃の分布を、読む。窓際に多く、中央に薄い。風の通り道は、敵の侵攻経路だ。天井の隅の蜘蛛の巣は、昨日の時点ではなかった。新規の敵陣と認定する。


箒を取って、廊下の端に立つ。まず、左足を半歩引いた。膝を少し落とす。それから箒を前方に押し出し——床すれすれで止めて、手前に引く。大きく振るのではなく、肘から先だけを小さく動かして、埃を一点に集めていく。


窓際。柱の陰。扉の枠の溝。——埃の溜まる場所は、決まっている。レイラは立ち位置を一つも無駄にせず、進んだ先の床を、順番に仕上げていった。二度戻った場所は、一箇所もない。天井の隅の蜘蛛の巣には、背伸びをして箒の先を届かせた。巣が絡まった箒を、二度、三度と捻って、絡め取る。


「……廊下、制圧。所要時間、八分。前日比、三十秒の短縮」


小さく記録する。自己更新は、励ましではない。事実の確認だ


次は、東棟の窓を順に開けていく。四つ目の窓の鍵が硬い。レイラは指先に意識を集中させた。一滴。血の一滴を代償に、小さな火の魔法が錠前(じょうまえ)の油を温める。今朝一つ目の、一滴。


「よし」


窓が開いた。朝の光が、銀色の髪の上に落ちる。メイドの仕事は、戦いに似ている。正確さ。段取り。無駄のなさ。違うのはひとつだけ——ここでは、誰も死なないことだ。その「違い」が、レイラにはまだ少し、不思議だった。



「シエル。おはよう!」


食堂の準備を終えた頃、館の主が現れた。ノエル・エステル。このエステル家の当主にして、レイラの雇い主。金の髪を無造作に撫でつけ、高価な上着のボタンを一つ、掛け違えている。


「おはようございます、ノエル様。ボタンを掛け間違えています」

「ん? ……ほんとだ。気づいた?」

「掛け違いの検知は、メイドの基本技能です」

「基本技能に入ってるんだ、それ」


ノエルは笑いながらボタンを掛け直し——失敗した。レイラは黙って手を伸ばし、三秒で修正した。


(……呼称は「ノエル様」)


赴任の初日のことを、レイラは正確に記憶している。前任のメイドが残した引継書には「主人の呼称:旦那様」とあった。だからその通りに呼んだ。するとこの人は、少しだけ困ったように笑って、こう言った。


『ノエルでいいよ。それは、父に対する呼び方だからさ』


理由はそれ以上、尋ねていない。引継書に「訂正の理由を尋ねる」という手順が、なかったからだ。ただしレイラには、呼び捨てという選択肢が存在しなかった。主を名指しで呼ぶ手順が、引継書にない。……結果として彼女は、「ノエル様」と呼ぶことにした。訂正と、敬意の、折衷案である。ノエルは、その折衷を、何も言わずに受け入れた。


「助かる。……じゃ、いつものやるか」


ノエルは指先を宙に掲げた。火起こしの魔法。誰にでも使える、生活魔法の基本中の基本。十秒。二十秒。指先に、マッチにも満たない火種が、ようやくポツリと灯る。


「……よし、火炉(かろ)に灯せた時間が七秒も縮んだね」

「前回との差異は誤差です」

「誤差って言うなよ」


ノエルは苦笑して、それでも自分の灯した火種で湯を沸かし始めた。レイラがやれば一滴と三秒で済む。それを、この人は毎朝、わざわざ自分でやる。理由を尋ねたことがある。答えはこうだった。


『自分の朝飯くらい、自分の火で喰いたいだろ』


レイラには、その理屈が分からなかった。効率で言えば全て間違っている。だがこの一年で学んだこともある。この人の「非効率」には、測れない何かがあるらしい、ということ。


「ところでシエル」


湯の沸く音を背に、ノエルが振り向いた。


「今日の昼、街に祭りの準備が始まるらしいんだ。見に行くか?」

「……私、が、ですか」

「他にシエルはいないだろ」

「任務があります。午後の作戦区域は洗濯と——」

「だからさ」


ノエルは、いつもの問いを放った。


「——シエルは、どうしたいの?」


…………。


レイラの意識が、一瞬だけ空白になる。命令なら答えられる。任務なら遂行できる。しかしこの問いには、答え方の手順書がない。

脳内で、検索が走る。引継書——該当項目なし。応対の記録——なし。戦場の教範——なし。「命令」なら実行手順がある。「任務」なら遂行要項がある。「希望」……語義は辞書で確認できる。だが、その運用手順が、ない。そして、気づいた。


——この問いを、自分は、人生で一度も受けたことがない。


戦場で「お前はどうしたい」と問う者は、いなかった。兵器に意向は要らない。要るのは、遂行だけだった。十七年間、一度も受けたことのない問いに、答え方の手順書があるはずがない。


「……確認します。『したい』とは、任務とは別の、個人の——」

「そう。任務でも命令でもなく。シエルが、したいかどうか」


分からない、と思った。同時に、無意識に、左の指が右腕の袖の上を撫でていた。布越しの、古い傷の凹凸に沿って。


(———考えるときの、くせ。誰かに教わったわけじゃない。いつからあるのかも、覚えていない)

「……現時点では、回答不能です」

「そっか。じゃあ保留で、また直前にでも聞くことにするよ」


ノエルはあっさり引き下がった。いつもそうだ。問いだけを置いて、答えは急がせない。まるで、答えそのものより、問いを持ち続けることに意味があると知っているみたいに。


「湯が沸いた。お前も喰え」

「はい、ノエル様」


———後から考えると、あの朝が最初だった。

後のレイラが「初めて」という言葉を正しく使えるようになったとき、振り返ってそう気づくことになる、何でもない、最初の朝だった。



午後。結局ノエル様の気が変わったようで、祭りの準備の視察は後日に先送りになったらしい。

私は、洗濯物を畳みながら、レイラは右腕の袖を捲った。

腕に、古い傷が走っている。治癒魔法で治せるのはかすり傷まで。この傷は、そのずっと深くまで届いた。そしてこの傷は、敵に受けたものばかりではない。


(……血が、足りなかった)


記憶の断片が、勝手に灯る——。硝煙の匂い。命令の声。指先から引いた血が、生活魔法の血の効率以上の速さで消えていく感覚。五十滴。六十滴。それでも足りなくて、もっと深く———


「シエル」


声に、我に返った。ノエルが庭の向こうに立っている。いつの間に来ていたのか。気配を読み損ねた。この一年で初めての、明白な失敗だった。


「……失礼しました。私としたことが」

「ぼんやりしてた? 珍しいね」

「ぼんやりではありません。……過去の任務の、検証を」

「検証、ね」


ノエルはそれ以上、掘らなかった。ただ、捲られた袖に一瞬だけ目を落として、それからいつもの調子で言った。


「なあシエル。俺、お前のその……すごいところを見るとさ、いつも思うんだよ」

「何を、ですか」

「お前が普通に失敗するところが、俺は見たい」


……理解不能な命令だった。失敗は、遂行任務において必要ではない。だがノエルの目は、笑っていなかった。飄々としたこの人が、ごくたまに見せる、底の静かな目。


「……努力目標として、記録しておきます」

「よろしく頼む」


風が吹いて、干したシーツが大きく膨らんだ。白い布の向こうで、夏の終わりの空が、ひどく青かった。


レイラはまだ知らない。

この「失敗してもいい場所」が、自分にとって何を意味するのか。  

この屋敷に迎えられた本当の理由を、主人が全て知っていること。そして自分の血が、世界でただ一つのものであることを。


———戦争は、まだ終わっていない。遠くの戦場で今日も、かつての師が、剣を握っていることも。



夜。自室。レイラは机に向かう前に、いつもの手順を踏んだ。

インク瓶の残量を、確認する。ペン先の状態を、灯火にかざして検(あらた)める。予備の紙の枚数を、数える。全て、儀式のような手順だった。戦場で武器を点検するのと、同じ手つきで。それから、分厚いノートを開く。


日誌。赴任三日目から、今日まで。欠けた日はない。最初のページには、短い一文だけが記されている。

『特記事項なし』


……あれから一年。今や備考欄は、ページからはみ出すようになった。はみ出した分は、余白に小さく書き込む。それでも足りない日は、別紙を挟む。ノートが、少しずつ、厚くなっている。そのことの意味を、レイラはまだ理解していない。ただ、このノートの分厚さが、自分の一年の形なのだということだけは、なんとなく分かっていた。


そんなことに考えを巡らせながら、ペンを執る。ただこの日のレイラ・シエルの日誌には、こう記されるだけだった。


『本日の血液消費量:四滴。

用途:錠前、湯沸かし補助、庭の灯、蟻の巣の調査(好奇心)。  

備考一:ノエル様の問いに、回答できず。保留。  

備考二:呼称について。引継書の「旦那様」は現在不使用。訂正の理由は未記録。……いずれ、記録する』


ペンを置いて、窓の外を見る。

屋敷の夜は、静かだった。戦場の夜とは違う静けさ。次の音を孕んでいない、眠るための静けさ。明日の作戦区域は、西棟。敵は、また埃だろう。

——倒しても倒しても現れる、穏やかな敵と共に、明日も一日が始まる。

ご拝読いただきありがとうございました。


そういえば、Xでも投稿の告知をしています。白彩と検索したら出てきますので、フォローよろしくお願いします。(投稿の告知以外にも発信することがあります)

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