プロローグ:剣と、勘と
初めまして、白彩です。
今まで燻っていた『戦姫メイド』という作品を毎週木曜日の日付の変わるタイミングで投稿していきます。(創作意欲が止まらなかった場合、ペースは早まるかもしれません)
これから皆様に自分の作品を見ていただけるように、物語を描いていきますので、温かい目で見守ってやってください。
その夜も、戦場には火が灯っている。北の国境沿い。名もなき丘の上の、野営地。篝火の数は、二十を超えている。兵士たちの笑い声。酒の匂い。鉄の匂い。そして、その全ての裏に微かに香る、血と泥の匂い。
女は、その匂いの中を、静かに歩く。黒い髪。短く切り揃えられたそれは、夜風に揺れても、型を崩さない。がっしりとした肩。分厚い外套の下に、剣が一振り。誰も、女に声をかけなかった。
声をかけられない、のではない。声をかけてはいけない、と、誰もが知っていた。女が通り過ぎると、笑い声がひとつずつ、しぼんでいく。女が遠ざかると、また、ゆっくりと戻っていく。水面を割って進む、石のような歩き方だった。
「——おい。あれ、ほんとに人間かよ」
誰かが、囁いた。
「……静かにしろ。聞かれたら終わりだ。……あれは、静謐の狂気だ。剣しか使わねえ。魔法を一滴も使わずに、戦場を歩いて、全部終わらせる。……昨日も、西の丘の敵陣が、あいつ一人で潰れた」
「一人で……?」
「一人で。……だから、ああ呼ばれる。静かに、全部、壊すから」
女には、その会話が聞こえていた。聞こえていたが、反応はしなかった。静謐の狂気。……悪くない通り名だと、思っていた。思っていたが、名乗るつもりもなかった。女の名前は、今は、どうでもいい。どうでもいいことは、考えない。考えないことが、この女の戦い方だった。
野営地の外れ。指揮官の天幕の前で、女は足を止めた。衛兵が、顔面を蒼白にして、槍を構え——かけて、やめた。構える意味がないことを、知っていた。
「……ど、どうぞ。中へ」
女は、頷きもせず、天幕に入った。中には、太った指揮官がいた。机の上の地図と、書類と、空の酒瓶。……そして、その隅に、小さな包みがひとつ。乾燥パンと、干し肉。誰かの、携行食だ。
「……あんたか」
指揮官は、顔を上げた。目の下の隈が、深い。
「明日の配置だが——」
「その話の前に」
女は静かに言った。低く、よく通る声だった。
「……あの子を、一時的に外す」
指揮官の手が、止まった。
「……外す、だと」
「前線から、離す。……しばらくの間、あの子は戦えない」
「ふざけるな。……あの『戦姫』は、我が軍の切り札だ。あれがいないと、明日の——」
「あの子は、道具じゃない」
女は、それだけ言った。静かな声だった。怒りも、苛立ちも、含まれていない。……含まれていないからこそ、指揮官は、唾を飲んだ。
「……何があった」
「何も」
「なら、なぜ」
女は、少しの間、沈黙を貫く。答えられなかった、のではない。答えを、言葉にする方法を、探していた。
……野生の勘。
そう呼ぶしかないものが、女の中で、鳴っていた。昨日の夜のことだ。あの子——齢十七才で銀髪の、長い髪の子供が、いつものように戦場から戻ってきた。完璧な戦闘と帰還。一滴の狂いもない、任務の遂行。その後で、あの子は自分の血が流れていた腕の傷を、じっと見ていた。
……見ていた、のではない。見つめていた。
いつもとは、違った。いつものあの子は、傷を見ない。傷は確認するもので、見るものではない。だが、あの夜のあの子は、傷を、見つめていた。……何かを探すように。何かが、そこに書かれているかのように。女は、その眼差しを、知っていた。
……過去に、何人もの子供が、同じ眼差しをするのを見てきた。傷を見つめる子供。自分の体に起きていることを、理解しようとする子供。そして——その眼差しが出た子供は、皆、遠からず、壊れた。急に。前触れもなく。ある日、動かなくなる。笑わなくなる。……食べなくなる。
何度も、見てきた。だから、分かる。
「……そろそろ、あの子が壊れる」
女は、そう言った。そして指揮官は、渋い顔をした。
「……壊れる、とは」
「文字通りだ。……戦力としての話をしているんじゃない。……あの子は、子供だ。まだ、何も知らない。自分が何をしているのかも、分かっていない。……そのままここに置けば、あの子は、いつか、戻れないところに行く」
「……だとしても。あんたに、それを決める権限は——私はっ!!」
「権限は、要らない」
女は指揮官の言葉を遮るように、静かに言い切った。
「私が、連れて行く。……あんたは、書類を書け。『戦姫、戦線より離脱』と。……理由は、適当に書けばいい。負傷でも、病気でも」
「……どこへ、連れて行く」
女は、少しだけ、間を置いた。南。……南の、緑の領地。金髪の、不真面目な若造がいる場所。昔、あの子供を、剣で守った場所。
「……知り合いの、屋敷がある。……メイドが、要るそうだ」
指揮官は、呆れたように、笑った。
「……メイド。戦姫を、メイドに、か」
「ああ」
「……あんた、正気か」
「正気だ」
女は、真顔で答える。その真顔が、一番、恐ろしかった。指揮官は、それ以上、何も言わなかった。……この女が真顔で言うことは、変わらない。この女が言うことは、だいたい決まっている。
「……勝手にしろ。……だが、正式な離脱ではないぞ。記録には残る。……いつか、呼び戻されることも、あり得る」
「……分かっている」
女は、頷いて、天幕を出た。夜風が、外套を揺らした。
(……分かっている)
分かっていた。この離脱は、終わりではない。戦争は続く。組織は、いなくなったあの子を、いつか探す。……それでも。それでも、今は。——この子は、戦のない世界にいた方がいい。
その勘だけを、信じた。
天幕の外れ、物資置き場の陰。銀髪の少女が、立っていた。長い髪。赤い目。まだ幼さの残る顔。……いや。幼い、のは顔だけかもしれない。その目は、何も見ていないように、静かだった。
「……師匠」
少女は、女を見て、そう呼んだ。女は、その呼び名に、少しだけ、眉を寄せた。
「言ったろ。師匠って呼ぶな。……私は、お前に、剣を教えただけだ」
「では、何と呼べば」
「……ヴェ……。……いや。……呼ばなくていい。名前なんて、必要ない」
女は、そう言いかけて、やめた。……必要ない、は違う。この子には、識別できる名前が要るはずだ。戦場の通り名ではなく、識別番号でもなく。……人の、名前が。
「……レイラ」
女は、自分の名前ではなく彼女を呼んだ。少女は、少しだけ目を見開いた。
「……はい」
「……明日、お前は、ここを出る。……南の領地に、知り合いがいる。そこで、メイドをしろ」
「……メイド、ですか」
「ああ。掃除。洗濯。料理。……できるだろ」
「……洗濯は訓練後に習得しましたが、それ以外は訓練の範囲外です。……ですが、学習します」
少女は、そう答えた。いつも通りの人間味のない返答。迷いのない、機械的な応答。女——ヴェラは、その返答を聞きながら、思っていた。
(……違うんだよ)
学習するんじゃない。……生きるんだ。炊事をして、掃除をして、誰かと話して。……失敗して、笑われて、怒られて。……それを、積み重ねるんだ。
この子は、それを、知らない。
知らないことが、罪なんかじゃない。知らないことは、仕方がない。……教わらなかったんだから。
だから、これからは。
「……レイラ。ひとつだけ、言っておく」
「はい」
「……お前は、これから、失敗する。……たくさん、失敗する。……その時に、焦るな。失敗していい。失敗しても、お前は、そこにいていい」
少女は、少しだけ、首を傾げた。
「理解、できません。失敗は、行動の阻害になります。……修正すべきものです」
「……そうじゃない」
ヴェラは、静かに言い放った。
「失敗は、生きるってことだ。……覚えておけ。……いつか、分かる」
少女は、答えなかった。答えられなかった、のかもしれない。……理解できない言葉を、記録だけは、した。そんな顔をしていた。それで、十分だった。今は、それで。
ヴェラは少女の頭に、手を置いた。……軽く、撫でるつもりだったのかもしれない。だが、手は、置かれただけだった。撫で方を、この女は、知らなかった。それでも、手の重さは、そこにあった。
「……行け。……南だ。……元気でな」
「……はい」
少女は、一礼して、歩き出した。銀色の髪が、夜風に揺れた。その背中は、まっすぐで、小さくて。……まだ、何も知らないままの、背中だった。ヴェラは、その背中を、見送った。
見送りながら、考える。
(……結局剣を教えることしか、できなかった)
この子に、剣を教えた。戦い方を教えた。生き延びる技術を、教えた。でも、教えられなかったことが、ある。泣き方。笑い方。……誰かを、好きになる、ということ。そういうことを、教えられる人間が、あの屋敷にはいる。……剣を持たない、不真面目な、あの若造なら。
(……頼んだぞ、ノエル)
心の中で、呼んだ。昔、守った、金髪の子供。今は、立派に、当主をやっている。……剣の腕は、からっきしだが。……人の守り方は、あいつの方が、上手い。
女は、剣を担ぎ直した。
戦場は、まだ、続く。この女は、ここに残る。……残る理由は、ある。……それは、まだ、語らない。ただ、南に向かって歩いていく小さな背中に、最後に、ひとことだけ。
「……レイラ」
呼んだ。届く距離ではなかった。それでも、呼んだ。
「……花の名前だ。……綺麗に、咲けよ」
その言葉は、夜風に、攫われた。少女の耳には、届かなかった。届かなかったが——
届かなくても、いい言葉というものが、ある。
そういう言葉は、言った者の胸の中に残って、……いつか、遠い場所で、咲くのを、待っている。ヴェラは、踵を返した。北へ。戦場の、深い方へ。静かな足取りで。一滴の血も使わず。ただ、剣だけを持って。
——この夜のことは、誰も、語らない。語らないが、これが、この物語の、始まりだった。一人の女の勘と、一人の少女の、まだ何も知らない歩き出しと。そして、南の屋敷で待つ、一人の若い当主と。
——戦争は、まだ、終わっていない。
それでも、この夜に、小さな、小さな、種が蒔かれた。その種が、何の花を咲かせるのか。
……それを知るのは、まだ、先の話だ。
ご拝読ありがとうございました。
実は以前少しだけ、同じ作品をアップしていたのですが、自分の中で何か違うなと感じ、一旦白紙に戻して再度活動することになりました。
前回描いた作品とは少し違う味がするような内容になっていたら嬉しいです。




