プロローグ:夢を見る子
今日から21時投稿に切り替わります。
土日は変わらず2話投稿で、21時と22時に上がるようにします。
畑の土は、朝のうちだけ冷たい。指先に触れた土は、湿っていて、柔らかかった。顔の半分が土に埋まっていて、残りの半分に、朝の光が当たっていた。目を開けると、土の粒がひとつひとつ見えた。黒い粒。白い粒。小さな石。石の影に、虫がいた。
動こうとすると、指が言うことを聞かなかった。聞かない、というより、指があることを、指が忘れていた。どこまでが自分で、どこからが土なのか、分からなかった。
遠くで、鶏が鳴いた。
その声で、世界が、こちら側に戻ってきた。匂いが戻った。土の匂い。草の匂い。どこかで朝の粥を炊いている匂い。靴の音が近づいてきて、目の前で止まった。擦り切れた、女の人の靴だった。
「……生きてる」
誰に言うでもない声だった。低くて、かすれていて、でも、驚いていない声だった。拾い上げられる時、腕が二度滑った。二度目で掴まれて、背負われた。背中が温かかった。年寄りの背中なのに、温かかった。
運ばれる間、ずっと、夢を見ていた。
夢の中に、声はなかった。足音もなかった。誰かの寝息も、遠くの車輪も、火の爆ぜる気配も、何もなかった。白い場所を歩いていた。白いのに、寒くなかった。懐かしかった。懐かしい、という言葉を、私は知らないはずなのに、そう思った。
目覚めたのは、夜だった。天井が低かった。木の梁が見えた。梁に、干し草の束が吊るしてあって、蝋燭の火に照らされて、影が天井で揺れていた。身体の下は、柔らかい干し草の匂いがした。毛布が、二枚も掛けてあった。重かった。重い、ということが、久しぶりだった。
枕元に、老いた女の人が座っていた。
手の中で、小さな編み物をしていた。指だけが動いていて、目はこちらを見ていなかった。それなのに、私が目を開けたことに、すぐ気づいた。
「目が覚めたかい」
返事は、しなかった。できなかったわけではない。言葉が、どこか遠くにあって、手が届かなかった。
「水は飲めるかね」
頷いた。少しだけ。首が、軋んだ。
木の椀が、唇に当てられた。水はぬるかった。喉を通るのが、痛かった。それでも、半分、飲んだ。残りは、唇からこぼれて、顎を伝った。老女は、それを袖で拭った。何も言わずに。
「ここは、孤児院だよ。街の外れの」
孤児院、という言葉を、私は知らなかった。知らない言葉は、いつもそうだった。知らないまま置いておくと、そのうち意味が、あとから静かに入ってくる。待てばいい。待つことは、得意だった。待つことだけは。
「名前は」
答えなかった。
「……ないのかい」
首を、振らなかった。振ることも、頷くことも、しなかった。名前は、ある。あるにはある。六つめの、空っぽの部屋。呼ばれる時は、いつも、番号だった。それを名前と呼ぶのかどうか、私には分からない。分からないことは、黙っている。そう決まっていた。誰が決めたのかは、覚えていない。そういうものとして、身体の中に入っていた。
老女は、編み物を膝に置いて、部屋の隅を見る。壁に、私の着ていたものが掛けてあった。白かった布は、土と汗で、色が変わっていた。破れかけた裾。内側に、小さく縫い取られた、ひとつの字。
翌朝から、子供たちが、私をそう呼び始めた。
「ろく」
誰が言い出したのかは、分からない。一番小さい子が、あの字を指して、そう言った。それだけだった。理由は、何もなかった。朝の粥の席で、誰かが「ろく、塩とって」と言った。塩が回ってきた。私は、それを受け取って、隣に渡した。
その一連の動作の中で、私は、「ろく」になっていた。
名前をもらう、ということが、こういうことだとは思わなかった。立派な言葉があるわけではなかった。術式も、証明も、なかった。朝の粥と、塩と、「ろく」という、短い声。それだけで、人は、名前をもらえるのだ。
知らなかった——
夜、みんなが眠ったあと、私はまた、夢を見た。
夢の中で、私は歩いていた。空の場所ではなかった。どこか、温かい場所だった。誰かが眠っている場所。その誰かの夢の、入り口に立って、私は、中を見ていた。小さな子供の夢だった。畑があって、走っている誰かがいて、笑っている声が——
声は、聞こえない。私の見る夢には、いつも、声がない。
それでも、その夢は、温かかった。夢の主は、眠りながら、少しだけ笑っていた。それを見ていると、胸の奥の、どこかが、軽くなった。軽くなる、ということが、何なのかは分からない。分からないけれど、悪くないと、思った。
朝、隣で目覚めた小さい子が、眠そうな声で言った。
「ゆうべね、いい夢、見た」
「どんな」
「お花畑。……おねえちゃんも、いたよ」
私は、何も言わなかった。
言えなかった、のかもしれない。あの夢に私がいたのは、きっと、偶然だ。夢なんて、そういうものだ。そう思うことにした。思うことにして、毛布を畳んで、顔を洗って、粥をよそった。
その日の夜も、私は、誰かの夢の入り口に立っていた。
夢を見る、のではない。見に、行っている。そんな気がした。でも、そのことは、誰にも言わなかった。
6章では、夢を操る子どもの話になります。1人称がコロコロ変わって行く予定なので、分かりづらかったらごめんなさい。初の試みなので、温かい目で見守ってくださると幸いです。




