↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦姫メイド  作者: 白彩
空っぽ
PR
56/65

第九話:鐘の鳴る夜

 夕方の支度は、いつもより時間をかけた。傷の具合を確かめる。肩の縫い目は落ち着いている。腕の裂傷は塞がった。内側の痛みは、咳をしても響かなくなった。裏市で買った赤い薬草を干し葡萄と一緒に煎じて飲んでいる。女主人の言う通り、甘いものと一緒だと、苦さが角を失った。


血の残量を数える。七分。薬が効いている。今夜は、今までで一番、血がある。

荷物は少ない。土の剣を背負い、欠けた剣を腰に下げた。二振り。埃まみれの部屋を見回して、置いていくものがないことを確かめる。ほとんど何もなかった。マーヤにもらった頭巾と、空になった薬の瓶くらいだ。瓶は、部屋の窓際に立てておくことにした。転がして捨てるものではない気がした。


階段を降りると、夕食の匂いが街のあちこちから混ざって流れてきた。焼ける肉、煮える豆、パンの焦げる匂い。どこかの子供が母親に叱られている。犬が吠えて、すぐやんだ。戦いに行く日の夕方は、こんなふうに、いつも騒がしい。騒がしいのは、街が何も知らないからだ。知らないことが、街を守っている。

パン屋の前を通ると、店は閉まりかけていた。それでもマーヤは、店の前の樽に腰かけて、何かを待っているような格好だった。私を見ると、跳ねるように立った。


「リラさん!よかった、会えた」

「マーヤ。これから、少し出かけます」

「こんな時間に?……あ、待って。これ」


店の中に駆け戻って、紙包みを持ってきた。焦げ目のついた、あのパンの切れ端だ。


「晩ごはん。……その、何があるか知らないけどさ。帰ってきたら、うちの宿、紹介するからね。約束」

「約束、ですか」

「約束。……あー、なんか。リラさん、今日は雰囲気違うね。剣、二本も持って」


マーヤの目が、背中の剣に止まった。何か言いかけて、やめた。やめて、代わりにこう言った。


「焦げパン、好きでしょ。……だから、また来てよ」

「はい。……必ず、戻ります」

「うん。待ってる」


手を振るマーヤを、私は二度だけ振り返って見た。二度目にはもう、小さくなっていた。


行商人の溜まり場の前では、裏市の女主人が、いつもの場所で傷んだ果物を並べていた。私を認めると、何も言わずに果物を一つ投げてよこした。受け取ると、それだけで商売に戻る。

見知らぬ街だった。一週間前、私はこの街を知らなかった。今は、焦げたパンの味を知っていて、頭巾を貸してくれた娘を知っていて、傷んだ果物を投げてくれる女を知っている。


知ってしまった街を、私は今夜、剣を持って歩いている。

そのことが、少しだけ、可笑しかった。

塔の階段は、上る前から長かった。一段ずつ踏みながら、掌の血の巡りを確かめる。巡りはいい。今夜の血は、いつもより素直に動いた。


上りきった広場に、十番はもういた。広場の中央、街灯の輪の中に座って、足をぶらぶらさせている。ショルダーバッグを膝に乗せていた。私を見ると、にっと笑う。


「おー、来た来た。……ん?剣、二本?」

「はい。今夜は、二本です」

「ふーん。……いいよ、何本でも。じゃ、塔に入ろっか。……あーしね、今日、準備してきたんだ。いっぱい」

「いっぱい?」

「うん。……いっぱい、貯めてきた。この街の、音」


十番の笑顔を見て、私は今夜の戦いの輪郭を、薄く悟った。この子は、本気だ。本気で、私の鐘を鳴らさせる気でいる。



 塔の中は、昨日までとは別の場所だった。窓が、全部、塞がれていた。板か何かで外から打ち付けられたらしい。明かりは、十番が置いていった提灯ひとつ。柱の格子が、揺れる灯りの中に並んでいる。


「ね、雰囲気あるでしょ。あーし、今日は、街の音、ぜーんぶ貯めてきたの。……市場の声。馬車。港の波。……あと、王宮の鐘」

「鐘」

「うん。王様が死んだ時の、鐘。……あれ、すごい音だったよ。一発で、街の夜、ぜんぶ上書きできちゃうくらい」


王宮の鐘。あの夜、私がこの街に落ちた時に鳴っていた音だ。その音まで、この子の中にある。


「リラ。今日のあーしは、昨日までと違うよ。……昨日までは、遊び。今日は、仕事。……仕事だから」

「分かっています」

「分かってないと思う。だから、見せる」


十番が指を鳴らす格好をした。音はしない。しない代わりに、塔の中の音が、死んだ。

提灯の火の音。私の呼吸。衣擦れ。石の軋み。全部が、同時に消えた。昨日までの消音と違うのは、明かりさえ心細くなるほどの、空気の重さだった。音がないことが、圧力になる。


私は土の剣を抜かず、欠けた剣を構えた。まだ、この剣で戦う時間があるはずだった。

十番が、両手を広げた。最初の一撃は、床から来た。貯められた馬車の轟きが、石畳を伝って足元から突き上げる。読めなかった。左足を打たれて、体が流れた。流れながら糸を床に落とし、広げる。


揺れが、柱へ伝わる。いや、伝わらない。糸の震えが、途中で死んでいく。消音が、振動まで食い始めていた。


「本気の消音はね、振動も消せるの。……嘘だけど」


嘘。そうか、音の偽装——糸の震えを消しているのではない。糸が伝える振動を、書き換えている。

頼りにしていた網が、敵の道具になった。私は即座に糸を解いた。解いた血は無駄になる。無駄にしてでも、毒された網は切る。


「あ、捨てた。……早いね」


次は、上だ。

頭上で、火の爆ぜる音が詰まった塊が弾けた。傘のように血の膜を張る。膜が震えて、持ちこたえた。持ちこたえた膜の向こうで、二度目、三度目。間断なく来る。

昨日までの、この子は、一発ごとに溜めていた。今日は溜めが要らない。貯蔵庫が、丸ごと街ひとつ分ある。膜の内側で、私は血の残りを数え直した。この調子では、膜の連発は十回が限界だ。十一発目が来る前に、距離を詰める。


膜を張ったまま、前へ出た。十番の声は、提灯のすぐ近く。光の輪郭を、目印にする。

三歩、進んだところで、声が真後ろから来た。


「どこ見てるのー?」


偽装。声の位置も、書き換えられている。


振り返りざまに剣を薙いだ。空。次の瞬間、横腹に衝撃。壁に叩きつけられる。石の角が背中に食い込んで、息が詰まった。詰まった息を、無理に吐く。吐きながら立つ。立って、剣を構え直す。


「リラ、聞こえてる? 今日のあーしは、声も動かせるよ。あーしがどこにいるか、もう分かんないでしょ。……分かんないのに、どうやって戦うの?」


どうやって。


問いの答えを、私は考えた。糸は毒された。声の位置は嘘。目は提灯しか見えない。残るのは——地の魔法だけだ。床に掌をつき、血を石に沈める。血は石の中で、振動だけを拾う耳になる。音の支配は、空気の上。石の中の震えは、彼女の圏外だ。


拾えた。提灯の光から三歩右。柱の根元に、軽い体重。今、そこにいる。

血の刃を、床の中へ放った。刃は石を潜り、柱の根元から跳ね上がる。


「——ひゃっ」


衣の裂ける気配。跳び退く足音——いや、足音は消えている。床を伝う微かな揺れが、逃げる。追う。石の中の刃をもう一度跳ねさせて、今度は浅く、薙ぐ。


「痛っ……!……アハハ、当たった!床ん中から来るの、ずるい!」


ずるい、と言われた。十番の声に、初めて、血の気が混じった。混じった声を聞いて、こちらが一本取ったと分かった。


だが、取れたのは、一本だけだった。


「……ねえ、リラ。あーしね、今、本気の、三割くらい」

「三割」

「うん。……じゃあ、五割、いくよ」


塔の中の、すべての柱が、鳴り始めた。


鳴り始めた、という表現は正しくない。柱が、それぞれ別の音を帯び始めたのだ。剣戟、波、叫び、馬の嘶き、鐘。貯められた街の音が、柱という器から同時に溢れ出して、塔の内側が、音の渦になった。


渦の中で、方向が死んだ。上も下も分からない。これは耳の戦いではなく、感覚すべての攪乱だった。


「——この中で、あーしだけが、自由」


自由な敵が、私の背中に、何かを打ち込んだ。



 飛ばされて、柱に背中からぶつかった。柱が、嫌な音を立てた。立てた音は、本物だった。消音が、攪乱の渦に紛れて、ところどころ綻びている。綻びは、まだ、隙にはならない。起き上がる。左手が、少し痺れていた。痺れた指で剣を握り直すと、違和感があった。柄が、濡れている。握った掌が裂けていた。いつの間にか裂けていた。


「リラ、血、出てるよ。……いいの? それ」

「問題ありません」

「ふーん。……じゃあ、あーし、次、六割」

「どうぞ」

「……本気で言ってるの、それ」

「はい。こちらも、残す気はありません」


十番が、少し黙った。黙ったのは、ほんの一拍。


「好き。あーし、リラのこと、好きかも。……好きだから、次は、右手の剣からいくね」


音の渦が、収束し、すべての柱の音が一点に向かう。向かう先は、私の剣。——やっと理解した。あの子の狙いは、私ではない。剣だ。共鳴、という言葉が浮かび、次の瞬間、欠けた剣が、鳴った。


鐘ではない。悲鳴に似た、高い軋み。握っている剣そのものが、固有の震えを掴まれて、内側から揺さぶられている。あっという間に刃が白く濁って——割れた。音は、乾いていた。二本に折れた刃の先が、床に落ちて、転がる。


欠けた剣。本隊の戦いをくぐった剣。欠けを直さないと決めた剣。欠けを覚えて、次に欠ける時の目印にすると決めた剣。——それが、折れた。


折れた柄を、私は、しばらく握っていた。


「……折れた。ごめんね。でも、あーし、今日は仕事だから。リラの全部を、測るから」

「……ええ」

「怒ってないの?」

「怒っては、います。……ですが、あなたに怒っているのでは、ありません」

「じゃあ、誰に」

「自分に、です。この剣に、まだ、やれることがあったかもしれないと思っています」


思いながら、私は、折れた柄を、ゆっくり床に置いた。置いてから、背中の剣に手を回す。土の剣。錆びて、欠けて、まだ一度も意志で鳴らせていない剣。

この剣しか、残っていない。


「やっと出してくれたね。いつも使ってたのに急に使わなくなるんだもん。ここからお互い死力を尽くすんだね。ワクワクしちゃうよー。じゃあそろそろ終わらせよっか……!」


終わらせる、という言葉の温度が、少し下がっていた。下がった温度は、仕事の温度だ。この子の中の、遊びと仕事の境目が、今、はっきり見えた。


見えた境目の前で、私は土の剣を抜いた。抜いた剣は、いつも通り、重くて、錆びていて、静かだった。

静かな剣を、両手で構える。

鳴らせ。鳴らしてほしい。みんなが、そう言う。組織も、この子も、私自身も。


鳴らなければ、ここで終わる。終わるわけには、いかない。


「来てください」

「うん。……じゃ、行くよ。あーしの、八割っ‼︎」


十番の姿が、提灯の光から消えた。消えたのではない。速すぎて、見失った。その先から音の奔流が、押し寄せてきた。



 私は剣で受けた。受ける、というより、受けるしかなかった。奔流は昨日の比ではない。街の一日分の音が煮詰められた塊は、空気ごと私を壁に縫いつけに来る。土の剣を縦に構え、刃の面で受け流す。受け流した音が、後ろの壁を削った。音は聞こえない。消音の中で、ただ壁が崩れていく。


足が、少し滑った。滑った足を踏み直す。踏み直して、考えた。鳴らなければならない。だが、鳴らし方が分からない。


——分からないなら、鳴った時を思い出すしかない。鳴った時は、三度ある。


一度目。それは墓標の野原。師匠と鍔迫り合いになって、押し負けそうになった時。あの時、血は勝手に動いた。掌から柄へ、柄から刀身へ。

二度目。それは転移の夜の広場。剣を指先で弾かれた時。あの時は一滴が、無意識に流れた。

三度目。それはこの塔で、剣を床に突き立てて、流し込んだ時。あの時は、低く、確かに鳴った。


三度とも、違う状況だった。だが、共通しているものがある。


私は、どの時も、剣に流し込んでいた。血を、器へ注ぐように。注げば、鳴る。注がなければ、鳴らない。そう考えてきた。それが、違うのかもしれない。

奔流の合間を縫って、床に転がる。転がりながら、剣を握り直した。錆びた柄。冷たい柄。この剣は、十年、土の中にいた。土の中で、誰かに注がれるのを待っていた。


待っていた剣。注ぐ、ではなく——。


「リラ!どこー?」


十番の声が、右から来た。右は嘘だ。床の血が、左の柱の根元を教えている。私は右へ剣を構えたまま、左へ血の刃を潜らせた。潜った刃が、柱の陰で裂ける。


「痛っ。……もー、また床ー?」

「嫌ですか」

「嫌じゃない。……でも、それ、あーしの必殺、防げないよ」


必殺。


言葉が来る前に、気配が来た。塔のすべての柱が、一斉に共鳴し始めた。始まった共鳴は、剣を折ったあの震えと同質のものだ。同質のものが、柱という大きさで、私の全身に向かってくる。


逃げ場は、ない。ないなら、受ける。受ける術は、膜。膜は、持たない。持たないなら——

私は、土の剣を、自分の正面に突き立てた。

突き立てて、掌を柄に置く。置いて、思い出す。墓標の野原。土の中の剣。剣は墓を守っていた。守る剣。守る剣に、私は血を流し込もうとしていた。


違う。


この剣は、注がれる器ではない。この剣は、もともと、鳴るものだった。剣は打ち合えば鳴る。鳴るのが剣だ。私は、血を燃料として燃やしていた。燃やすから、鳴らない。鳴らないから、もっと流そうとしていた。——血は、燃料ではない。


血は、弦だ。


剣という鐘を、鳴らすための、指。


共鳴の奔流が、私に届く、その直前。


私は、血を、剣に通した。流し込むのではなく。通す。掌から柄へ、柄から刀身へ、刀身の中心まで、一直線に。通した血が、剣の中で、震えた。震えた。剣が、私の血と、同じ速さで。


「——鳴って」


剣が、鳴った。



 鐘のような音が、塔の中に、広がった。広がった音は、低くて、長くて、どこまでも伸びていった。伸びていく音の中で、十番の共鳴の奔流が、細切れになった。細切れになった奔流が、あちこちの柱にぶつかって、乱れて、消えていく。


消えていく音の中で、私は、剣を見た。光っているのである。

刀身に流れた血が、いつもと違う輝きを帯びている。帯びた輝きが、錆びた表面を、ゆっくりと舐めていく。舐められた跡から、錆が、粉になって、剥がれ落ちた。剥がれ落ちるたびに、鋼の色が、夕日の残りのような色を取り戻していく。


欠けが、光で補われていく。鋼の刃の輪郭に、血の光が、もう一つの刃を添えた。添えられた刃は、透けていた。透けた刃の内側で、血が、規則正しく、鳴っていた。


鳴っている剣を、私は、持っていた。持っている剣の重さが、いつもと違った。違う重さは、重いのではなく、ちょうどいい、という重さだった。十年の土が、この剣から、落ちていったのだと、分かった。


分かった時、消音が、破れた。

破れた消音の向こうから、塔の本当の音が、戻ってきた。風。夜虫。石の冷える音。……そして、柱の陰から、十番の、荒い呼吸。


「……今の」

「鳴らしました」

「今の、今の、今の!あーし、聞いた。あれ、全部、リラの音?すごい。……すごいよ、それ。あーしの中の音、全部、書き換えられた。書き換えられたの、あーし、初めて‼︎」

「書き換えたのではありません。重ねただけです。あなたの音の上に、私の音を」

「重ねた。それ、どうやるの」

「教えられません。教えられないことが、一つだけ、増えました」


増えた、というのは、師匠への返しだった。返しを聞いた十番は、柱に背を預けて、ずるずると座り込んだ。座り込んだ姿が、小さかった。小さな姿の袖口から、血が、一筋、流れていた。


流れている血を、十番は、不思議そうに見た。


「あれ。血。……あーしの、血」

「術を、使いすぎました。限界を、超えています」

「限界。……そっか。……あーし、限界なんて、初めて。……いつも、終わる前に、誰かが止めてたから。止めてもらわないと、こうなるんだ。……アハハ、なんか、耳が、じんじんする」


笑った顔の、鼻からも、血が流れていた。流れていた血を、十番は、袖で拭った。拭った袖が、赤くなった。赤くなった袖を見て、十番は、少しだけ、困った顔をした。


「……あー。術、出ない。……出ない。あーし、音、出せなくなっちゃった」


出せなくなっちゃった、という言葉を、この子は、驚くほど、あっけらかんと言った。言葉の裏で、この子の中の何かが、静かに、落ちていく音がした。というのは、比喩ではない。私には、聞こえたのだ。剣が鳴ったあとの、静けさの中で、この子の中の、どこかが、緩む音が。


緩む音を聞きながら、私は、剣を納めた。そして十番に、近づく。私を十番は見上げ、目が、少しだけ、揺れていた。その表情は何故だろうか、スッキリしているかのように見える。


「リラ。あーし、負けた」

「はい。……負けました」

「負けちゃった。測れなかった。あーしのお仕事、失敗。失敗した番号は、温室に帰ると、何もない部屋に入れられるんだよ。入れられて、……あーし、それ、やだ。やだよ。……やだ、って言っていい?」

「言っていいです」

「……やだ」


十番は、そう言って、膝を抱えた。抱えた膝に、額をつけた。つけた額の向こうで、小さな声が、聞こえた。


「……帰りたくない」


帰りたくない。その言葉を、私は、前にも聞いた。聞いたのは、別の子供からだった。別の子供も、同じ場所から来た。同じ場所から来た子供が、今は、遠くの屋敷で、鳥を彫っている。


彫っている子供のことを、思い出しながら、私は、十番の前に、膝をついた。


「十番」

「……ん」

「あなたに、聞きたいことがあります。あなたは、番号のままが、いいですか」

「……番号のままって」

「十番のまま。それとも、違う呼び方が、ほしいですか」


十番は、顔を上げた。上げた顔に、血の跡が残っていた。残った血の跡を、私は、自分の袖で、拭った。拭かれて、十番は、目を丸くした。


「……あーしに、名前、つけてくれるの?この前は、敵だから、駄目って言ったじゃん」

「はい。あの時は、敵でした。今は、どうか。……今も、敵ですか」

「……敵、かな。……敵、……かなぁ。……あーし、リラと、もっと遊びたい。遊びたいって思うのは、敵?敵じゃない?」

「敵では、ありません。……少なくとも、私にとっては」

「……じゃあ」

「じゃあ、何ですか」

「……名前。……ほしい。……番号じゃない、名前」


ほしい、と言った顔を、私は、まっすぐ見た。まっすぐ見てから、少しだけ、考えた。考えることは、決まっていた。決まっていたが、言う前に、一つだけ、先に伝えるべきことがあった。


「十番。……名前をつける前に、私の名前の話を、します」

「リラの、名前?」

「はい。……私には、三つの名前があります。リラは、この街の偽名。本当の名は、レイラ。……レイラは、私を拾ってくれた人が、つけてくれた名です。北の古い言葉で、『夜明けを待つ者』という意味です」

「夜明け。いい響きだね」

「もう一つ、あります。……シエル、という名。それは、私が生まれた場所で、つけられた名です。……あなたと同じ、番号の場所で」

「あーしと、同じ」

「はい。シエルという名には、意味があります。……この前まで、知りませんでした。……この街に来て、あなたと会って、……考えて、分かりました。シエルは、『空っぽ』という意味です。何でも注げる、空っぽの器。番号の場所が、実験の子につける、名前です」


空っぽ。


その言葉を、私は、静かに言った。静かに言った言葉が、塔の中に、少しだけ、響いた。響いた言葉を、十番は、じっと聞いていた。


「空っぽ。リラの、昔の名前。空っぽって、さみしいね」

「さみしいですか」

「うん。……だって、空っぽって、何もないってことでしょ。何もないのに、名前だけあるのは、さみしいよ」

「はい。ですが、十番。空っぽは、何もない、という意味だけではありません。……空っぽだから、何でも、入ります。私は、あの名のまま、パンを焼くことを覚えました。剣を覚えました。……夜明けを待つ名を、もらいました。空っぽだった器に、ひとつずつ、入れていきました。……今は、まだ、半分くらいです」

「半分」

「はい。半分で、十分です。半分あれば、残りの半分は、明日から、入れられます」


十番は、膝を抱えたまま、私の話を聞いていた。聞いていた目が、ゆっくりと、濡れていくのが、提灯の光で分かった。濡れていく目を、十番は、笑いながら、ごしごしと拭った。


「……アハハ。なんか、変。あーし、泣いてる。泣いてるのに、笑ってる。……変なの。……こういうの、なんて言うの」

「分かりません。が、そういう時が、あります。ありますから、今は、そのままで」

「そのままで」

「はい」

「ねえ、リラ。あーしの名前。……考えてくれた?」

「はい。……つけるなら、こう思います。……十番。あなたの中には、街の音が、たくさん入っている。王宮の鐘も、市場の声も、港の波も。……あなたは、空っぽではありません。最初から、いっぱいだった。……いっぱいのあなたに、私がつけられる名は、一つしかないと、思いました」

「……なに」

「——でも、その名は、今夜は、言いません」

「えー!?なんで!?」

「名前は、拾った人がつけるものです。私は、あなたを拾いました。拾いましたが、あなたの名は、あなたが、自分で選ぶ日が来るかもしれない。その日まで、私の考えた名は、預けておきます。……預けておくのは、保管です。それは得意です」

「保管……。ずるいよ、それ。気になるよ、ずっと」

「気になってください。……気になることは、生きる理由になります」

「……うー。じゃあ、あーし、生きる。気になるから、生きる。……生きて、その名前、聞く。……聞いたら、あーしが、決める。番号じゃなくて、あーしが」

「はい。あなたが、決めてください」


私は、立ち上がって、十番に手を差し出した。差し出した手を、十番は、少しの間、見ていた。見ていた手が、ゆっくりと、伸びてきた。手は、小さくて、冷たかった。冷たい手を、私は、両手で包んだ。手を引いて、十番を、立たせた。立たせた十番は、よろめいて、私の腕に掴まった。掴まった腕の重さが、軽かった。軽い、ということは、まだ、子供だ。子供の重さを、私は、ちゃんと、受け止めた。


「……リラ」

「はい」

「あーし、これから、どうなるの」

「分かりません。……分かりませんが、何もない場所には、行かせません。行かせないために、まず、この街のことを、終わらせます。……あなたの上の人と、話を」

「話、できるの」

「できます。話すのは、私の、主の仕事です。私は、その、手伝いをします。手伝いに来たと思えば、今夜のことも、仕事です」

「……リラの仕事って、なに」

「メイドです」

「メイド」

「はい。……掃除と、料理と、あとは、少しだけ、剣を」

「アハハ。……少しじゃないよ、それ」


十番の笑い声が、塔の中に響いた。笑い声は、いつもの調子だった。いつもの調子のまま、十番は、私の腕に、少しだけ、体重を預けた。重さを感じながら、私は、塔の窓の外を見る。塞がれていたはずの窓の、板の隙間から、夜が明けかけているのが見えた。明けかけている空の色は、藍色だった。藍色の空の下に、この街がある。街の向こうに、海がある。海の向こうに、北がある。北の、ずっと向こうに、あの屋敷がある。


帰る場所。帰る場所を思いながら、私は、小さな手を引いて、塔の階段を、降り始めた。

降り始めた階段の途中で、十番が、ぽつりと言った。


「ねえ、リラ。あーしの中の音、リラの鐘と、混ざっちゃった。混ざった音が、まだ、残ってる。聞いてみるとね。……なんか、いい音なの。……あーしの音と、リラの音と、……混ざって、……なんか」

「なんか、何ですか」

「……なんか、あたたかい気がする!」


あたたかい、という言葉を、この子は、自分で見つけた。見つけた言葉を、私は、奪わなかった。奪わずに、階段を、一段、降りた。夜明けの街が、少しずつ、音を立て始めていた。立て始めた音の中に、私たちの足音が、二人分、混ざっていた。足音は、静かだった。


静かな足音が、夜明けの街へ、降りていった——

ご拝読いただきありがとうございました。

次回はこの章を締めくくるエピローグになります。いつも読んでくださる方、本当に励みになっております。これからも『戦姫メイド』を手に取って頂けるのであれば、幸せです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。