第五話:濡れ衣
天幕の匂いで目が覚めた——
干し草と、獣の脂と、かすかな黴。寝床は荷馬車の荷台で、上に掛けられた麻布が夜露で重くなっている。肩の傷は昨夜のうちに縫った。自分で縫った。水で洗って、髪の毛ほどの細さに割いた麻糸で、六針。傷は浅くはないが、血は止まっている。
馬車の主はまだ寝ている。鼾が聞こえる。安心できる鼾だ。寝ている人間の鼾は、起きている人間より正直だ。
私は荷台から音もなく降りる。昨深夜、この街の外郭に紛れ込んで、夜具を見繕える金はなかった。代わりに見つけたのが、荷広場に止められたこの馬車の列だ。行商の溜まり場で、誰かが起きてくるまでは貸してもらう。起きてきたら消える。それだけの約束事だ。
街の名はまだ知らない。
知っているのは、ここがエステル領から南へ、国境を越えた先の国だということ。言葉は通じるが、訛りが強い。硬貨は同じものが使えるが、刻印の王の顔が違う。そして、私はこの国で、国王を殺した下手人として貼り出されている。
『暗殺』『国王』『銀髪』『賞金』。
あの四語は、一晩考えても読み違いようがなかった。
広場の端の水場で顔を洗う。水は冷たかった。冷たい水で顔を洗うのは、師匠と同じやり方だ。師匠は柄杓を取り落とす。私は落とさない。落とさない代わりに、今朝は水の中の自分の顔を、少しの間見ていた。
(銀の髪。赤い瞳)
この髪が、今の私の一番の敵だった。貼り紙の絵は、目元こそ大雑把だったが、髪の色だけは正確だった。正確な特徴を街の全員が知っている。隠すか、変えるか。
隠すのは難しい。頭巾では、動くたびに裾が覗く。変えるなら——切るか、染めるか。
切るのは、少しだけ、ためらわれた。
ためらいの理由を考える。この髪を、誰かが撫でたことがあったか。あった。ノエル様ではない。シュピだ。あの子は、私の髪を「きれい」と言って触る。触るたび、少しだけ強く引っ張る。引っ張られるたびに「痛いです」と言うと、「ごめん」と言って、また触る。
その繰り返しを失うのは、惜しかった。
だが、命の方が惜しい。
「失礼します」
水場の向こうから声がした。見れば、水桶を持った娘が立っている。十四、五か。麦色の肌に、黒い三つ編み。こちらを、畏れと好奇心の半分ずつで見ていた。
「おはようございます」
私が先に頭を下げると、娘は目を丸くした。
「あ、あの、旅の方、ですか」
「はい。昨晩、着きまして」
「どこから」
「多分、北です」
「北……」
娘は私の髪を見た。見て、すぐに目を逸らした。逸らした目の先には、荷広場の入口に貼られた、見覚えのある紙があった。あの紙は、至る所にあるらしい。
「あの、その、髪」
「病気です」
用意していた言い分を述べた。生まれつき色が抜ける病気で、と続けようとして、やめた。説明は短い方がいい。長い言い訳ほど、嘘に見える。
「へえ」
娘は疑った様子もなく、水を汲み始めた。汲みながら、
「姉さん、剣、持ってますね」
「護身用です」
「女の人で剣って、珍しいです。……あ、でも、うちの国、騎士団に女の人いるから。珍しくないか」
この娘は喋るのが好きらしい。喋る相手から情報を取るには、相手に喋らせるのが一番だ。
「この街の名前を、教えていただけますか」
「レウスです。レウスの下町。……姉さん、名前、なんて言うんですか」
名を、聞かれた。
シエルと言うべきか、レイラと言うべきか。どちらも、ここでは知られていない。知られていないが、どちらも私の名だ。知られていない場所で、知られている名を使う。それは、どういうことになるのか。
「——リラ、と申します」
出たのは、どちらでもない名だった。レイラから一文字、削っただけの、浅はかな偽名。だが、口にした瞬間、思ったよりすんなり馴染んだ。削った一文字の分だけ、ここでは別人になれる気がした。
「リラさん。……私、マーヤ。あそこのパン屋の」
娘が指した先には、荷広場の横の小さな店があった。煙突から煙が立っている。焼きたての匂いが、朝の空気に混ざっていた。
「パン屋、ですか」
「うん。……ねえ、リラさん。お腹、空いてる?」
マーヤの家のパンは、固かった。
固いが、焼きたてだった。焦げ目の匂いが強くて、塩が少し多い。トムのパンとは別物だが、別物の旨さがあった。旨い、という判断は、空腹が手伝っているかもしれない。それでも、二つ目に手が伸びたのは、空腹だけのせいではないと思う。
「お代は」
「いいよ。……その代わり、というか。……昨日の夜のこと、聞いていい?」
マーヤは声を落とした。店の奥では、母親らしき女が粉を捏ねている。捏ねる手つきは、娘より荒かった。
「昨夜、王宮の鐘が鳴ったんですよ。あの鐘は、王様が亡くなった時だけ鳴るんです。……私、生まれてから初めて聞きました」
「そうですか」
「それで、今朝、貼り紙が。暗殺だって。銀の髪の女が、剣で——」
マーヤはそこで私の髪を見た。見て、言いかけて、やめた。
「リラさんじゃないですよね。だって、リラさん、昨晩は荷広場にいて。いて、あの、荷台で」
「ええ。荷台で寝ていました」
嘘ではない。荷台で寝たのは事実だ。問題は、その前の二時間だ。王宮の鐘が鳴った時刻、私はこの街の広場で、音の消えた戦いをしていた。
時刻が、合わない。合わないのだ。私が転移させられたのは深夜で、最初の襲撃を受けたのも深夜。鐘が鳴ったのも深夜。つまり、私がこの街に落とされたのと、国王が殺されたのは、ほぼ同時刻。
順番を考える。先に王が死んだ。それから私が落とされた。あるいは同時。どちらにしても、殺したのは私ではない。私は落とされただけだ。だが、銀髪の女が夜の街に現れたという噂と、私の来訪が重なれば——
誰かが、私をこの街に呼んで、殺人者の席に座らせた。
そこまで考えて、朝食の続きに手を伸ばした。考えごとの途中でも、パンは食べる。食べられる時に食べる。戦場の基本だ。
「マーヤ。……質問があります」
「うん」
「街の衛兵は、多いですか」
「今日は多いよ。昨夜のことで、王宮の近くは封鎖されてて。下町にも、午後には見回りが来るって」
「貼り紙の、賞金は、どのくらいです」
「金貨、三百」
息を呑むような額だった。エステル領なら、小さな店が買える。そんな多大な金額が、私の首にかかっている。
「……リラさん」
マーヤが、粉のついた手で、カウンターの下から何かを出した。出したのは、くたびれた頭巾だった。藍色で、裾がほつれている。
「お母さんの、お下がり。色は冴えないけど、深く被れるから」
「いいのですか」
「いいよ。その代わり、今度、北の話、聞かせて。雪、見たことなくて」
頭巾を受け取った。布の匂いは、粉と酵母と、かすかな蜂蜜。この匂いは、厨房の匂いに似ていた。似ている匂いに、少しだけ、気が安らいだ。
「ありがとうございます。恩は、返します」
「恩とかじゃなくて。ねえ、リラさんって、なんか、お辞儀が綺麗だね。……お屋敷の人?」
「……似たようなものです」
「やっぱり。お屋敷の人って、危ない目にあったりするの?」
「時々、あります」
「ふーん。……大変だね、お屋敷も」
マーヤは笑った。笑い方は、あの少女とは違った。違う笑い方を聞いて、私は少しだけ、ほっとした。
頭巾を被ると、世界が少し狭くなった。視界の端が布で遮られる。遮られる分、前だけを見る歩き方になる。剣は荷物に包んで背負い、土の剣だけを頭巾の下の背中に差した。差すと、背筋が伸びる。この剣は、重い。重さが、姿勢を作る。
下町は、午前のうちに活気づいていた。レウスという街は、エステルの街より三回りほど大きい。坂の多い街で、石造りの建物が斜面にへばりつくように並ぶ。坂を上るほど建物が立派になり、頂上には白い城壁が見えた。王宮だ。王宮の前の広場には、今朝も人だかりができている。貼り紙を見る人、鐘楼を指す人、衛兵に詰め寄る人。
私は坂を上らなかった。上らずに、下町を横に歩いた。横に歩くと、街の層が見える。市場の層、職人の層、水場の層、……そして、目つきの悪い男たちの層。
その層の溜まり場は、賭場の裏だった。裏路地の賭場は、この国にもある。あるものは、どこにでもある。私は賭場には入らず、裏の細道で、壁にもたれている男の一人に近づいた。
「お聞きしたいことが」
「……なんだ、姐さん」
男は三十がらみ。顎髭。剣を持っているが、構えは素人だった。
「昨夜の、王宮の話です。詳しい話を、買いたい」
「買う、ね。いくら出す」
「銀貨、二枚」
「三枚」
「二枚です。……情報が古ければ、一枚に下がります」
男は目を細めて、それから笑った。笑いながら、懐に手を入れるような素振りを見せた。見せた手を、私は見なかった。見るべきは手ではなく、男の後ろの壁際の、もう一人の影だった。影が動く気配がないのを確認してから、銀貨を二枚、指の間に挟んで見せた。
「昨夜の丑三つ前、王宮の西の塔で、衛兵が二人やられた。やられた、というか、気絶させられた。傷一つない。……で、王様の寝室に、誰かが入った」
「誰が、ですか」
「それが分からん。目撃者がいないんだ。いないのに、夜が明けたら、王様が亡くなってて、塔の下に血が滴ってて、……銀髪の女が、塔から飛び降りたって話だけが、一人歩きしてる」
「誰が見たのですか、その女を」
「誰も見てねえよ。……いや、違う。見たって奴が、一人だけいる。王宮の中の、お偉いさんだ。……宰相だかなんだかの、顔の白いじじい。そいつが見たって言ってる。……言ってる、だけだ」
私は銀貨を渡した。
渡してから、もう一枚、出した。
「その宰相の、名前を」
「ヴァルガス。——ヴァルガス宰相。……姐さん、なんの用だ」
「道を、覚える仕事です」
適当なことを言って、その場を離れた。ひとまず名を反芻し、記憶を定着させる。ヴァルガス。顔の白い、老いた男。……見たのは、その男だけ。目撃者が一人しかいない殺人は、目撃者が作った殺人と同じ意味を持つ。
暗殺の下手人は、別にいる。別にいて、その下手人を覆い隠すために、銀髪の女が必要だった。私が来る前から、私は選ばれていたのかもしれない。選ばれていたのだとしたら、転移は偶然ではない。
すべて、誰かの図面の上だ。その図面の端に、音を消す少女もいる。
午後、見回りが下町に下りてきた。革鎧の衛兵が六人、隊列を組んで市場に入ってくる。先頭の男が、貼り紙の複写を掲げて歩いていた。掲げられた絵の女は、私よりずっと悪人の顔をしていた。悪人の顔をした私が、市場を歩くみんなに見せられている。
「銀髪の女を探している!……心当たりのある者は申し出よ!申し出た者には、相当の謝礼を!」
市場の空気が、少しだけ張った。張った空気の中で、みんなの視線が泳ぐ。泳ぐ視線は、お互いの頭を見た。見た先に、銀髪はなかった。なかったので、視線はすぐに飽きて、値段の話に戻っていった。
私は、頭巾を深く被り直して、八百屋の軒先で野菜を物色していた。物色するふりをしながら、隊列の進路を計る。このままでは出くわす。その前に、路地に入るべきだった。入るべき路地を選んで、歩き出した、その時だった。
「そこの、お前」
呼び止められた。
呼び止めたのは衛兵ではなかった。市場の男たちの一人で、荷運びの格好をした大柄な男だった。男は私の背中を見ている。見ている目が、剣の包みに止まっているのが、首筋の感覚で分かった。
「その荷、なんだ」
「布です」
「布にしちゃ、角が立ってるぜ」
「織機の部品です」
「へえ。織機ねえ。……おい、お前ら」
男が呼ぶと、周囲の荷運びが三人、こちらを見た。見た目つきが、商人のものではなかった。賞金稼ぎの目だ。金貨三百は、街の正直者をも、少しだけ不正直にする。
「頭巾、取ってみな」
男が言った。言われて、私は一度だけ、周囲を見た。見た範囲に、逃げ道は二つ。衛兵は五十歩先。荷運びは四人。……頭巾の下で、私は軽く息を吐いた。
吐いてから、手を頭巾にかけ——
「おい、ガトー。その客、うちのだよ」
声が、横から割って入った。
パン屋の店先に立っていた、マーヤの母親だった。粉まみれの腕を組んで、男たちを見据えている。見据えられて、ガトーと呼ばれた男が、舌打ちした。
「パン屋のおかみかよ。うちの、って、どういう意味だ」
「朝からうちで働いてる、仕込みの娘だよ。布じゃなくて粉を運んでたんだ。粉と剣の区別もつかないのかい、あんた」
「だが、髪が」
「髪?はん。……見せてやりな、リラ」
リラ、と呼ばれた。呼ばれて、私は頭巾を、少しだけ、緩めた。緩めて、生え際だけを見せた。……生え際には、今朝、水場で塗ったものがあった。マーヤが持ってきた、鍋底の煤。煤をすり込んだ生え際は、濡れた鼠色に見える。銀ではない。
男は、生え際を見て、鼻を鳴らした。
「ちっ。……鼠かよ」
「鼠で悪かったね。ほら、行った行った。粉が伸びちまう」
男たちは去った。去っていく背中を、私は頭を下げて見送った。見送ってから、パン屋の女主人に向き直った。
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。マーヤの連れてくる客は、碌なのがいない。でも、今朝のは違った。パンを二つ食べて、お代を払おうとした客は、久しぶりだ」
女主人は、そう言って、店に戻った。戻る背中は、娘よりずっと太かった。太い背中に、私はもう一度、頭を下げた。
夕方、下町の外れの、打ち捨てられた宿に部屋を借りた。借りた、というより、無人の部屋に勝手に居候した。窓のない部屋で、藁の寝床。藁は湿っていたが、屋根はあった。屋根があれば、充分だった。
荷を解いて、傷の手当てを直す。肩の縫い目は保っていた。腕の裂傷は浅い。内側の傷——あの無音の衝撃で受けたやつ——は、咳をするとまだ痛む。痛むが、熱はない。熱がないなら、保つ。
血の残量を数える。
転移前に補充してから、使ったのは糸と刃と膜。……残りは、全力の六分ほど。補給には、食事と睡眠と、できれば造血の薬草。明日、市場の裏で探す。
数え終わって、土の剣を取り出した。取り出した剣を、膝の上に乗せる。乗せて、掌を柄に置いた。置いて、血を、一滴、垂らす。でも剣は、鳴らなかった。
しかし、今朝までとは違う感触があった。温もり。血を垂らした部分に、ほのかな温もりが残る。残る温もりは、拒絶ではなかった。寝ている、という表現が、この剣にはやはり合っていた。寝ている剣は、起こしてはいけない。……起きる時が、ある。
「……もう少し、待っていてください」
剣に言った。剣に話しかける自分に気づいた。訂正はしなかった。師匠も、剣に話しかけることがある。
窓のない部屋の、壁の向こうで、街の音がしていた。夕食の支度の音。子供の呼び声。犬。荷車。……そのどこかに、私を探す音も混ざっているはずだった。混ざっている音の中に、あの笑い声は、なかった。
なかったことに、私は少しだけ、残念を覚えた。
覚えた残念の意味を、少し考えた。……考えて、分かった。あの笑い声が聞こえない街では、私は、ただの賞金首だ。だが、あの笑い声が聞こえる場所では、私は「鐘のお姉ちゃん」でいられる。……敵の呼び名でも、名は名だった。名を持つことは、こんな場所でも、少しだけ心の支えになる。
支えになるものは、ありがたく使う。
「……おやすみなさい」
闇に向かって言った。それから藁の寝床に横になった。横になった途端、疲れが、全部、一度に来た。
夜、二度目の襲撃が来た。
来たのは、藁の寝床に就いて、二刻ほど経った頃だった。就いていた身体が、勝手に跳ねていた。跳ねていたのは、血の糸が切れたからだった。——切れたのではない。張り直した糸の、入口の一本が、優しく、触れられた。
触れられた、という感触。殺気ではない。殺気なら、糸はもっと強く反応する。これは、そっと、確かめるような触り方。触り方に、覚えがあった。
「いるのは、分かってるよー。……お姉ちゃん」
壁の向こうから、声がした。声は、楽しそうだった。楽しそうな声が、夜の宿の静けさに、溶けていた。
私は剣を握って、静かに立った。立ったまま、息を整える。整えて、返事は、しなかった。
「お返事、ないのー?……いいけど。……あーし、今日は、遊びに来ただけだから。……戦いに来たんじゃないよ」
「何しに来たのですか」
壁に背をつけて、声を出した。出した声は、小さかったが、届くはずだった。届くはずの声に、向こうは、すぐ答えた。
「お土産。ほら」
何かが、壁の向こうで、ころんと転がる音がした。音の主は、瓶だった。宿の裏の隙間から、小さな瓶が、転がり込んできた。瓶を、私は拾う。拾って、栓を抜いて、匂いを嗅いだ。
「造血の、薬」
「そう。お姉ちゃん、血、使うでしょ。使うなら、補給しなきゃ。補給しないと、面白くないもん」
「……なぜ、それを」
「あーし、お姉ちゃんの血の音、知りたいの。ちゃんと元気な音で、聞きたいの。だから、お土産。……ね、飲んで」
「毒は」
「入ってないよー。……そんなことしても、面白くないもん。あーし、面白くないこと、しない。……しないことにしてるの」
瓶を、持ったまま、しばらく考えた。
考えても、分からなかった。分からなかったが、瓶の中身は、確かに、本物の匂いだった。匂いで分かる。ひとまずは目の前にいる敵を信じることにした。
信じることにしたのは、この少女が、嘘をつく理由を、まだ持っていないように見えたからだ。というのは、根拠ではない。でも戦場では、根拠のない直感が命を救うことがある。救うかどうかは、飲んでから分かる。
一口、飲む。苦かった。苦い薬湯は、本物だった。本物の苦さが、喉を通って、胃に落ちて、それから、ゆっくり、体の芯に温かさが戻った。戻った温かさを、私は、ありがたく受け取った。
「おいしい?」
「苦いです」
「アハハ、そうだよね。お姉ちゃん、正直だね。あーし、正直な人、好きだよ。だから、もう一つ、お土産」
「……もう一つ」
「明日の、夕方。西の、塔の、広場。あーし、そこで待ってる。待ってるから、来て。来たら、本気で、測るから。本気で測ったら、あーし、お姉ちゃんのこと、上に、報告するの」
「報告」
「うん。あーしのお仕事、お姉ちゃんを測ることだもん。測って、報告して、おしまい。……おしまいにしたら、あーし、帰る。帰るから、お姉ちゃんも、帰れるように、なるかも」
「なるかも、とは」
「知らない。……けど、上の人、そう言ってた。『測り終わったら、次の段階だ』って。……次の段階が、なんなのかは、あーし、知らない。知らないけど、悪いことじゃないと、思う。って思うことに、してる」
壁の向こうで、衣擦れの音がした。音は、立ち上がる気配だった。立ち上がる気配のあと、少女の声が、最後に、少しだけ、低くなった。
「……ねえ、お姉ちゃん」
「はい」
「あーしの名前、聞いたっけ」
「十番、と」
「うん。十番。それ、あーしの名前。でも、名前じゃないって、言われたことある。番号だって。番号と名前、違うのかな」
「……」
答えられなかった。答えられないまま、壁の向こうの気配が、遠ざかった。遠ざかった気配は、やがて、夜の街の音に紛れて、聞こえなくなった。
聞こえなくなってから、私は、瓶をもう一度、見た。見た瓶には、まだ、半分ほど、残っていた。瓶を、大事に、鞄の底に、しまった。しまってから、藁の寝床に、戻った。
戻って、横になって、目を閉じた。目の裏で、今夜の会話を、反芻した。反芻して、分かったことが、一つだけあった。あの少女は、敵だ。敵だが、敵の形をしていない。……敵の形をしていない敵は、私の知らない敵だ。知らない敵と、明日の夕方、戦う。戦う場所は、西の塔の広場。待ち合わせを、敵と交わした。交わした約束は、守る。守るのは、約束だからではない。
あの少女が、次に来る時、音を、聞かせてほしいと言ったからだ。
聞かせる音が、まだ、鳴らせていない。鳴らせていないものを、明日までに、鳴らす。……鳴らせるかどうかは、分からない。分からないが、鳴らすために、今夜は、眠る。
眠る前に、もう一度だけ、土の剣に触れた。
触れた柄が、少しだけ、温かかった。私は、気づかないふりをして、目を閉じた。
ご拝読ありがとうございました。




