第四話:屋敷に残された者
朝食は、いつもの時間に、いつもの席数で並べられた。並べたのはトムだった。パンは焦げていない。粥は温かい。席は四つ。座るのは三人だった。誰も、四つ目の席に言及しなかった。言及しないことが、今朝の全員の仕事だった。仕事を果たすように、三人は黙って食べた。黙って食べる朝食は、ひどく長かった。
「……うまい」
先に音を出したのは、ノエル様だった。粥の椀を置いて、言った。
「トム。うまい。……いつも通りだ。それでいい。それがいい」
「はい」
トムはそれだけ答えて、また黙った。答える以上の言葉が、今朝のトムにはなかった。それで充分だった。
そしてシュピは、パンを一口も進めていなかった。進んでいないことに本人が気づいていないふうをしていた。手には持っているが、口に行かない。行かない手を、ノエルは見ていてたが、何も言わなかった。言わない代わりに、自分の皿の林檎の切れ端を、シュピの皿に移した。
「食え。……あいつは、飯を残す奴が一番嫌いだ」
「うん」
シュピは、林檎を齧った。齧って、咀嚼して、飲み込んだ。パンにも戻って、手を見届けて、ノエルは自分の粥に戻った。
食後、庭に出た。焦げた円は、朝日の中で、昨夜より小さく見えた。小さく見えるのは、光のせいだ。夜の光の円は恐ろしかったが、昼間の焦げ跡は、ただの汚れに近かった。近いものは、観察できる。ノエルは円の縁にしゃがみ込んで、土を摘んだ。
「ガルド」
「はい」
「この焦げ方、火事の跡と違うか」
「違います。火事は外から中へ焦げる。これは、内側が一番焦げて、外へ行くほど薄い。……中心で何かが起きて、外へ逃げた跡です」
「逃げた、か」
「逃げた、というより——通った、という方が近いと思います。何かが、ここを通って、どこかへ行った。……あるいは、誰かを連れて」
ノエル様は摘んだ土を、指で揉んだ。揉んで、嗅いだ。嗅いでから、眉を寄せた。
「……匂いがする」
「焦げた匂いですか」
「違う。……甘い。甘いというか——、なんだ、これ。……嗅いだことのない匂いだ」
「薬品の類いでしょうか」
「分からん。……分からんが、覚えておく。おい」
振り返ると、円の少し離れた場所に、シュピが立っていた。立ったまま、円を見ている。朝食のあと、姿が見えないと思ったら、一人でここへ来ていた。
「シュピ。……近づくなよ」
「近づいてない」
「近づいてる。……お前のその距離は、近づいてるって言うんだ」
シュピは、円から一歩、退いた。退いてから、それでも目は円のままだった。
「ノエル様。この匂い」
「匂いが分かるのか」
「分かる。……知ってる」
シュピの声が、一段低くなった。低くなった声は、この子から時々出る。出る時は、温室の話の時だ。
「知ってるって——、どこで」
「あそこ。……僕がいたところ。大きなことがある時、いつも、この匂いがした。……部屋の、空気が、こういう匂いになって。なってから、誰かが、いなくなった」
ノエル様は立ち上がった。立ち上がって、シュピの前に行って、円とシュピの間に入った。円を、見えなくした。
「……分かった。……分かったから、もう見なくていい」
「ううん。見る」
「シュピ」
「見るよ。僕が知ってることは、僕しか知らない。……お姉ちゃんのためになるなら、見る。僕、もう、逃げるのは飽きた」
十一歳の言葉に、返すものがなかった。返すものがない時、ノエル様は書類をめくる癖がある。今は書類がなかった。代わりに、手をシュピの頭に置いた。
「好きにしろ。だが、気分が悪くなったら言え。……言ったら、即座に止める。それが条件だ」
「うん」
シュピは円に近づいて、しゃがみ込んだ。しゃがみ込んで、鼻を近づけて、目を閉じた。閉じた目のまま、しばらく動かなかった。
「これ、迎えの術だ」
「迎え」
「連れてくる術。……逃げる術じゃない。向こうから、こっちへ、来るための門。門を開いて、お姉ちゃんを、向こう側へ吸い込んだ」
「向こう側、というのは」
「分かんない。……分かんないけど、遠い。門は、近くには開かないもん。近くに開いたら、術が、もたない」
「どうして分かる」
「教わった。……教わるというか、聞こえてた。隣の部屋で、いつも、そういう話をしてた。僕らのことは、実験だと思って、隠さなかったから」
隠さなかった。子供の前で、仕組みを話していた。……それが、あの施設の空気だったのだろう。空気を想像して、ノエル様は少しだけ寒気を覚えた。覚えた寒気を、顔に出さなかった。
「門は、もう一度開くか」
「開かない。門は、使い捨て。……開いた門は、燃えて終わり」
「帰りの門は」
「向こうで開くしかない。向こうで、誰かが開くか、……お姉ちゃんが、自分で」
自分で、という言葉の先を、シュピは続けなかった。続けなかったが、言わなくても分かった。自分で開ける術を、シエルは持っていない。持っていないなら、向こうで開く誰かが必要だ。……必要な誰かが、敵の中にいるかどうかは、神のみぞ知る。
(いや。違う。違うぞ、俺——)
敵が、門を開けたのだ。開けたということは、閉じる術も、開ける術も、向こうが持っている。持っているということは、交渉の材料がある。材料さえあれば、話はできる。こっちからも関与できる仕事がある。
「……よし」
ノエル様は立ち上がった。
「ガルド。商人を呼べ。……隣国に顔の利くやつを、今日中に」
「手配します」
「シュピ。お前には、もう一つ、聞きたいことがある」
「なに」
「その術に、臭い以外の特徴はあるか。……跡。形。門が開く前の、予兆のようなものは」
シュピは、少し考えた。考えてから、
「音が、する」
「音」
「うん。開く前に、低い音がする。鼻の奥で鳴るみたいな。草の上じゃなくて、空の中で鳴る音。……あれが聞こえたら、門が近い」
「空の中で鳴る音。分かった。ガルド、兵に伝えろ。今夜から、耳の当直を立てる。目より、耳だ」
「了解しました」
午後、ノエル様は書斎に籠もった。机の上には、三通の手紙の控えと、隣国の地図と、商会の取引台帳。そして、昨日から置きっぱなしの、母宛ての書きかけ。
『母上。お元気ですか』
その下に、今日は、続きが書けた。
『シエルが攫われました。組織の転移術によるものです。南の隣国方面と見ています。母上の人脈で、探れる範囲があります。助けてください』
助けてください、と書いた自分に、少しだけ驚いた。だが、消さなかった。消さないで、封をした。この家の手紙は、こういう時のためにある。格好をつける場ではない。……格好をつけないことを、母は、たぶん、嫌わない。
封を終えた頃、扉が叩かれた。
「ノエル様。……孤児院から、使いの者が」
「孤児院?」
入ってきたのはガルドだった。ガルドの顔は、いつも通りだった。いつも通りの顔で、こう言った。
「今朝、孤児院の裏の畑で、子供が一人、倒れていたそうです。怪我はない。だが、目が覚めてから、変なことを言っていると」
「変なこと、とは」
「『音がしない夢を見た』と。『街の音が、全部、誰かに食べられた』と」
書斎の空気が、一度、止まった。
止まった空気の中で、ノエル様は羽根ペンを置いた。置いて、ゆっくり、聞き返した。
「その子供の名は」
「名は、まだありません。保護された時の衣服の内側に『六』の字が縫い取られていたそうで、院では、それを拾って『ろく』と呼んでいると」
ろく。 六、という字。
ノエル様は、椅子から立ち上がった。立ち上がって、窓を開けて、街の方角を見た。……見えるのは、いつもの街だった。いつもの街のどこかに、昨夜とは別の、もう一つの気配。
「ガルド」
「はい」
「守りを、孤児院にも回せ。見せないように、回せ。……見せたら、向こうに読まれる」
「分かりました」
ガルドが出ていったあと、ノエル様は、しばらく、窓の外を見ていた。
攫われた者が一人。現れた者が一人。引いては、寄せる。寄せては、引く。向こうの手は、速い。速い手に、遅れてはいけない。机に戻って、ノエル様は新しい便箋を取った。取った便箋の頭に、走り書きで、こう書いた。
『シエルへ。……お前が読む頃には、きっと、全部終わっているといいんだが』
書いてから、その文の不謹慎さに、自分で少しだけ笑った。笑ってから、破らずに、畳んで、机の引き出しに入れた。届かない手紙を書くのは、姉貴の癖だと思っていた。移ったらしい。これは仕方ない。仕方ないものは、引き出しに入れておく。
窓の外では、夕日が、庭の木々を長く伸ばしていた。伸ばした影の先は、みな、東を向いていた。……帰る方向を、向いていた。
ご拝読ありがとうございました。




