第三話:音のない街
ここはどこだろうか。私は見知らぬ土地に来てしまったのだろう。着いた瞬間、肩が裂けた。何が裂いたのか見えない。土の剣を横に払ったが、空気しか斬れなかった。遅れて痛みが来て、左肩の寝間着が赤く濡れる。
私がいたのは石畳が敷かれた見知らぬ広場の端。背の高い建物に囲まれて、窓は全部閉まっている。空は夜明け前の灰色で、明かりは四隅の街灯だけ。
街灯の火は燃えていた。燃えている。だが、燃える音がしない——
試しに声を出した。喉は震えた。耳には届かない。世界から音という層が丸ごと抜き取られていた。
色々試していると、二度目は何かが頬を掠めた。
剣を立てると、何かに触れた。感触は掌に来る。噛み合う音は来ない。火は燃えているのに鳴らない。剣は触れているのに鳴らない。
(音が、ない——)
試しに踵で石畳を踏んだ。踏んだ感触はある。音はない。自分の呼吸を早めてみた。肺は動いている。耳には何も入ってこない。世界から音が消えたのではない。音が、届かなくされている。
ならば、これは術だ。術には術者がいる。術者は近くにいる。そして、先ほどから私を裂いている何かは、その術者の手の内だ。
理解した。理解は、恐怖の次に来た。私の知り得ない術がこの世に存在すること、未知との遭遇が私の心を揺さぶってくる。そして恐怖は足に来た。それでも、私は考える。止まらないで済む方法だからだ。
裂かれるのは、肩と頬。深くない。殺す気がない。殺す気がないなら、狙いは別にある。それは今、分からない。分からないものは、あとでいい。
今必要なのは、見えない攻撃を、どう捉えるか。
掌に血を集めて、細い線を引いた。血の糸。周囲へ展開する。音がないなら、振動を確かめる。糸の一本一本が触れたものの動きを指先へ運ぶ網になる。
消費、二滴。まだまだ余裕はある。
糸が壁に、石畳に、街灯の柱に触れた。広場は私の血の糸で蜘蛛の巣のように広がって、その中の一本が揺れた。北東、十五歩、速い。
剣を構えた途端、無音の風が頬を打ち、直後、腕に熱い痛み。裂かれながら剣を繰り出す。今度は深く何かに触れた。切った感触があった。北東の揺れが後退した。当たったのだ。見えなくても、当たれば相手は引く。引く、ということは、当たるのが嫌だということだ。
嫌なら、当てればいい。
「アハハ!」
笑い声が聞こえてきた。奪われたはずの音だ。なのにも関わらず高くて幼い、少女の声。その声だけが、無音の街をまっすぐ届いていた。
いや届けられているのだ。全部消して、自分の声だけ残している。こちらの呼吸も足音も消しておいて、笑い声だけを通す。いたずらみたいなやり方で、やっていることは十分に残酷だった。
「鐘のお姉ちゃん、今の、よけたじゃん!マジで!?」
三度目の攻撃の気配を感じ取り、私は後退して避ける。すると声は広場の中央あたりで響いてきた。網の外から、声だけが聞こえる。
「あーしの音、聞こえないでしょ?聞こえないのに、よけちゃうんだー。すごいねー。ねえ、血ぃ使うんでしょ?今の、糸みたいなやつ。あれ、あーしにも見せて。ねえ、聞いてる?」
返事はしなかった。こちらの声は消されている。それより先に、考えることがあった。
あの声は「糸」を見たと言った。この糸が何であるか、理解していることを示している。音のない空間で、糸の動きが相手に読まれている。つまりあの子にも、音以外の目がある。振動か、気配か。
条件は互角に近い。お互い、相手が見えない。お互い、相手の位置だけが分かる。
なら、こちらから行く。
「ねえ、お返事、ないの?ないなら、あーし、もう一回やるよー」
西側の糸が揺れた。
その揺れを追って、私は逆に東へ踏み込んだ。西は囮だ。声の主が中央にいるなら、本命は中央から来る。読みは当たった。西の揺れが止み、中央の空気が歪むのを、背中の糸が捉えた。
歪みに向かって、血の刃を三筋、放った。
無音の斬撃が闇を走る。二筋は外れた。外れた糸が石畳に浅い筋を刻むのが見えた。一筋は、何かに当たった。
「あっ」
小さな声。街灯の輪の端で、ツインテールの影が横に跳んだ。袖がひらりと翻って、裂けた袖口から細い腕が覗く。
当てた。音が消えた場所で、音を操る相手に。
「アハハ、今の!今の当たった!お姉ちゃん、あーしに当てた人、初めてだよ!」
影は怒っていなかった。嬉しそうだった。その方が、よほど怖かった。
「じゃあ、あーしも、ちょっとだけ本気」
左側の糸が全部、止まった。
切られたのではない。左の空間そのものから振動が死んだ。糸が生きているのに、伝えてこない。あの子の術に入ったものは、震えることさえ許されない。
左は死地だ。右へ跳んだ。着地の寸前、足元の石畳が爆ぜて、破片が頬を叩いた。転がりながら糸を張り直し、起き上がる勢いで剣を上段に構える。
影が近い。十歩——
今度はこちらから詰める。無音の間合いで剣を振り下ろす。影がひらりと逸れた。追って、踏み替えて、突き。突きの先が影の輪郭を掠めた。掠めただけで終わらせない。剣を引かず、そのまま横に薙ぐ。
布を裂く感触。影の裾を、斬った。
「わ」
影が、初めて、声を詰まらせた。
詰まらせた影に、もう一度踏み込む。懐だ。あの攻撃は遠距離の術だ。至近距離では、撃つ前に斬れる。剣を振るう間に、二度、影の端を捉えた。捉えるたびに、影の動きが速くなる。遊びの速度から、本気の速度へ。
三度目の踏み込みで、掌の血を柄へ落とした。鳴らない剣でも、血をまとった刃は重くなる。重い一撃を、影の胴へ。
影が、しゃがんだ。しゃがんだ姿勢のまま、影が両手を合わせた。何かが、来る。
直感が先に動いたので、剣を盾のように立てて、全身の血を刃の面へ集める。集めた血が膜になった瞬間、世界が、押し潰された。
音ではない。音が詰まったものだった。
あの子が貯めていた、無数の音。剣戟、悲鳴、火の爆ぜる音、誰かの叫び。街から奪った全部が、一点に圧縮されて、私の血の膜にぶつかった。膜が鳴った。鳴らされている。私の血が、他人の音で。
膜は持った。持ったが、私の体は持たなかった。後ろへ弾かれて、背中から石畳に落ちた。立てていた剣の衝撃で、右手の痺れが肘まで来ている。
「……アハハ、は、は。……今の、防いだ? マジで防いだ?」
影が立っていた。両手を広げて、肩で息をしているように見えた。見えた、というのは、息の音が、微かに聞こえ始めていたからだ。術の綻び。全力を出した揺り戻しで、消音が甘くなっている。
甘いなら、そこを突く。
起き上がると同時に駆けた。十歩を、二呼吸で詰める。影が両手を振り上げるより先に、剣を影の喉元へ。
剣は、止まった。止められたのではない。私の耳の奥が、急に歪んで、平衡が崩れた。内側から掴まれた感覚。体が言うことを聞かず、膝が落ちた。
影がのぞき込んできた——
近くで見ても、小さかった。十歳か、そこらの顔。ツインテールの先に、色とりどりの玉が揺れている。その顔が、目の前で、にっと笑った。何となく雰囲気がシュピに似ている気がする。
「アハハ。……お姉ちゃん、すごいよ。あーし、今の、本気で危なかった」
少女はそう言って、私の剣を、指先でつんと弾いた。それでも剣は、鳴らない。鳴らないはずの剣が、かすかに、低く、ひとつ、鳴った。鐘に似た音。一滴分の、血の鳴り。
少女の目が、見開かれた。
「今の」
「……」
「今の、鳴った!鳴ったよね!?ちっちゃかったけど、鳴った!あーし、聞いた!」
私も聞いていた。掌から柄へ、無意識に流れた一滴が、剣の中で、かすかに鳴った。意図していない。あの夜と同じ、勝手な血の動きだった。
「よし、今日は帰る!」
少女は跳ねるように立ち上がった。
「お姉ちゃん、あーし、あんたの音、聞けた。ちょっとだけだけど。だから今日は、これで、おしまい。……ねえ、次はもっと大きく鳴らしてね。約束だよ。鳴らしてくれたら、あーし、本気で測るから」
「……待ってください」
声が出た。消音が緩んでいた。かすれた、小さな声が、石畳に落ちた。少女は立ち止まって、振り返った。
「おー、声出た。……なに?」
「あなたは、誰ですか」
「あーし?……あーしは、十番」
名乗った。あっさりと、名乗った。そのあっさり具合に、こちらが気抜けするほどだった。
「十番?」
「そうそう。……じゃ、おやすみー」
少女は歩き去った。歩き去る背中には、白い「十」の印があった。闇に溶けるまで、その印だけが見えていた。
見えなくなってから、音が戻った。
戸の開く音。水を汲む音。遠い犬の鳴き声。街が、ひとつずつ、音を取り戻していく。取り戻した音の中で、私は自分の呼吸を確認して、それから、ゆっくり立ち上がった。
傷は三箇所。血の残りは、まだ動ける分だけある。
剣を見た。先ほど鳴った剣を、しばらく見ていた。鳴ったのだ。鳴らせないと思っていた剣が、追い詰められた末に、一滴だけ鳴った。
なら、次は、自分で鳴らす。広場を出て、狭い路地へ入った。壁が風を遮ってくれて、初めて深く息が吸えた。吸った息が胸の奥で軽く痛む。内側の傷も浅くはないが、歩ける。歩けるうちに、隠れる場所を探す。
路地の壁に、一枚の紙が貼られていた。
絵が描いてある。銀の長髪、赤い瞳、剣、メイド服に似た装い。
絵の下の文字は半分しか読めなかった。読める単語が混ざっている。
『暗殺』『国王』『銀髪』『賞金』。
順番に読んで、繋げるまで、少し時間がかかった。繋がってから、しばらくその場に立っていた。
敵は、あの子だけとは限らない。この街そのものが、私を探している。転移の先に待っていたのは、術者の少女と、賞金の首の貼り紙だった。
寒さが、あとから来た。外套もない肩で受け止めながら、私は歩き始める。そして掌の血の残りを、もう一度数えた。
ご拝読頂きありがとうございます。




