第二話:転移
目が覚めたのは、血の疼きが二度目に来た瞬間だった。一度目より、深かった。胸のあたりで小さな鐘が鳴らされて、その反響が骨まで届く。私は起き上がった。枕元の土の剣を掴み、寝間着の上に外套を羽織って、廊下に出た。
廊下は暗い。当直の兵の足音が、遠くで一度だけ聞こえた。血の疼きは、南を指していた。
指す、というのが正しいかは分からない。ただ、南を向いた時だけ、疼きが少し強くなる。庭の南の隅。あのあたりで、何かが起きている。
階段を降りて、玄関から庭へ出た。
夜露が足首を濡らした。月は薄雲の裏で、光は弱い。それでも、庭の南の隅の異変は、目に入った瞬間に分かった。
草の上に、光の円が浮かんでいた。
直径は、人が二人並んで座れるくらい。滲むように青白い光の輪が、地面から数寸浮いて、ゆっくり回っている。輪の内側の草は、白く変色していた。凍りついたのではない。色が、抜けていた。
「……術式」
言葉にした瞬間、輪が一段、明るくなった。
反応した。声にか、私の血にか、どちらかは分からない。分からないうちに、輪の内側の空気が歪んだ。歪みは、遠くの景色を水面越しに見ているようで、その水面が、こちらへ、盛り上がってくる。
私は剣を抜いた。
土の剣。今朝は鳴らなかった剣。掌に血を通そうとした。通らない。血は、剣ではなく、私自身の内側で唸っていた。というより引かれていた。輪の中心へ、内側から、引かれていた。
足が、動かない。
見下ろすと、外套の裾が、輪の光に、微かに吸い寄せられていた。地面は動いていないのに、私の身体が、輪の側へ、ゆっくり傾いている。
「離れろ、シエルさん!」
門の方から、ガルドの声。当直だった。私の姿を庭に見つけて、駆けてきていた。
「近づかないでください」
短く返した。ガルドの足が、五歩の距離で止まった。組み合わせは分かった。この距離なら巻き込まれない。それ以上近づけば、二人まとめて持っていかれる。
輪の中心の水面が、盛り上がって、崩れた。
崩れた瞬間、輪が私を掴んだ。
外套ではない。血が、掴まれた。皮膚の下で、血の流れが強引に向きを変えられ、その流れに引きずられて身体が浮いた。抵抗する足場がない。血が引かれる方向に、私という肉体が、勝手に運ばれていく。
剣を、手放さなかった。
土の剣の柄を、両手で握り込んだ。柄の革が、掌に食い込む。この剣だけは持っていく。理由はない。持っていく。
「シエルさん!」
「ノエル様に、伝えてください」
自分の声が、自分の耳に届かなかった。届いたかは知らない。届いてほしかった。
「北の、静けさと、これは、繋がっています」
輪の光が、視界を白く塗り潰した。
塗り潰されたのは、視界だけではなかった。音も、温度も、庭の匂いも、順番に剥がれ落ちた。剥がれ落ちて、最後に、地面の感触が消えた。
落ちていく感覚。あるいは、引き上げられていく感覚。上下の区別がつかない。方向という概念が、身体から抜けていた。
意識が薄れる直前、遠くで、鐘の音を聞いた。
自分の血が鳴らしている音だった。
ガルドが庭に飛び込んだ時、光は消えていた。
草の上に、黒く焦げた円が残っていた。人が二人並んで座れるくらいの円。中央の草は、灰になって、風に吹かれていた。円の外周のちょうど内側に、外套の切れ端が落ちていた。夜露に湿った、見覚えのある紺の布。
レイラは、いなかった。
ガルドは剣を鞘に納めて、その場に膝を突いた。夜の草の匂いと、焦げた土の匂いが混ざっていた。焦げた円の中心に手を伸ばして、指先を土に押し当てた。土はまだ温かかった。
「……ノエル様を、起こす」
自分に言い聞かせるように、口に出した。そうすることで、ようやく足が動いた。
書斎の灯りは、ノエル様が飛び込んできた時にはもう点いていた。夜半に起こされることに慣れている当主は、寝間着のまま書斎に降りていた。ガルドの報告を、机の端に手を突いたまま聞いた。聞き終わって、しばらく黙った。
「……庭を見る」
外套を掴んで、階段を駆け降りた。ガルドが先導した。ノエル様は焦げた円の縁まで来て、そこで足を止めた。
外套の切れ端を拾い上げた。
「……シエルのだ」
「はい」
「他には」
「これだけです。剣は、持って行かれた気配があります。鞘だけが、部屋の枕元に残っていました」
ノエル様は、切れ端を握り込んだ。握り込んだ手の甲に、血管が浮いた。しばらくそうしていて、それから、手を開いた。
「……起こせ」
「誰を」
「全員だ。トム、シュピも含めて。……いや、シュピは後だ。まず、大人だけ」
ガルドが屋敷へ走った。
一人残されたノエル様は、焦げた円の脇に立ったまま、南の空を見た。南に何があるのか、この時点では誰も知らない。だが、外套の切れ端の焦げ方は、燃えたのではなかった。抜き取られた、という焦げ方だった。焼失ではなく、通過の跡。
「……お前が離れるな、と言ったばかりだぞ」
草に向かって、低く言った。答える者はいなかった。
トムは、寝ぼけた顔で厨房から走ってきた。走りながら前掛けを結んでいた。夜中に呼ばれる意味を、この屋敷では、みんな体で覚えている。
「ノエル様、何が」
「シエルが、いない」
「……は?」
トムの手が、前掛けの紐で止まった。
「庭に、術式の跡がある。……おそらく連れて行かれた」
「連れて」
「連れて行かれた。剣を持って、だ。抵抗する時間があったなら、あいつは抵抗した。……抵抗しても、離れなかった、ということだ」
トムはしばらく、ノエル様の言葉を頭の中で並べ直しているようだった。並べ直して、それから、庭の焦げた円を見た。見て、口を開いて、閉じた。もう一度開いて、
「……朝の、パンは」
「トム」
「あ、いや、違うんです、そうじゃなくて。……レイラさん、今朝、蜂蜜、二個並べたんですよ。棚に、二個。二個目、使う日、まだ、来てなくて」
ノエル様は、トムの肩に手を置いた。置いただけで、何も言わなかった。トムはその手の下で、二度、大きく息を吐いた。
「……何を、すれば」
「厨房を、平常通りに開けろ。使用人の朝食を、いつもの時間に出せ。……騒がせるな。騒がせると、街に伝わる」
「街に伝わると」
「戦姫がいない、という噂が立つ。それだけは絶対ダメだ」
トムは頷いた。頷きながら、前掛けの紐を、もう一度結び直していた。
ガルドが戻ってきた。塀の見張りと当直の兵を集めた、と報告した。
「シュピは」
「まだ起こしていません。あの子の耳がいいのはご存じの通りです。廊下の足音で気配は察していると思いますが」
「そうか」
ノエル様は、書斎に戻る足を止めた。玄関の階段を上がる途中で、ガルドを振り返った。
「ガルド。……お前、庭で、シエルと話したか」
「はい」
「何と言った」
「シエルさんは、私にこう言いました。『ノエル様に、伝えてください。北の静けさと、これは、繋がっています』——と」
ノエル様の足が、また止まった。
「北の、静けさ」
「はい」
「昨夜、俺があいつに話した話だ。……北の戦が、ひと月、動きを止めている、という話」
「聞いていました。書斎の外で、当直の交代の時に、扉の前を通りました」
「そうか」
ノエル様は、階段の途中で、しばらく動かなかった。動かないまま、階段の下のガルドを見下ろした。ガルドは剣の柄に手を置いて、こちらを見上げていた。
「ガルド」
「はい」
「北の、力が、どこかへ向いた——という話をした。どこか、が、今夜、分かった」
「はい」
「……南だ。あいつは、南へ持っていかれた。血の疼きを、あいつは南に感じていたそうだ。庭でそう言いかけた」
「南、というと」
「隣国だ。……国境を越えて、遠く」
ガルドは目を伏せた。伏せた目のまま、しばらく黙って、それから、
「追いますか」
「追えん。転移の術式は、追い方が分からん。分かる人間が、この屋敷には、いない」
「北から、呼び戻しますか。ヴェラ殿を」
ノエル様は、階段の手すりに手を置いたまま、少し目を細めた。
「呼び戻せば、姉貴は来る。だが、来るまでに何日かかる。北から南までだ。……その間に、シエルが、南のどこで、何をされているか、俺は、知らない」
「……」
「呼ぶ。呼ぶが、待たない。姉貴が着くまでの間、俺たちで、こちらから動かせるものを動かす」
ノエル様は、階段を上りきった。上りきってから、もう一度、振り返った。
「ガルド」
「はい」
「シエルは、剣を持って行った」
「はい」
「持って行ったなら、生きている。……あいつは、寝間着で剣だけ握ったまま、南のどこかに立っている。……そう思うことにする」
ガルドは頷いた。頷きの角度が、いつもより深かった。
書斎に戻ったノエル様は、机の抽斗から、便箋を取り出した。三通、書いた。一通目は北のヴェラ宛て。二通目は隣国の商会宛て——エステル家が長年取引している、口の堅い商人へ。三通目は、書きかけの手紙のように、途中で止まった。
三通目は、母宛てだった。
書き出しの『母上』の下に、『お元気ですか』と続けて、そこで手が止まった。母に何と伝えるべきか、まだ、決められなかった。決められないまま、その一枚は、机の隅に置いた。
一通目と二通目に封をした時、廊下から、小さな足音が聞こえた。
音の主は、扉の前で立ち止まった。扉を開けなかった。開けずに、外から、声を出した。
「……ノエル様」
シュピの声だった。
「入っていい」
扉が、静かに開いた。シュピは寝間着のまま、廊下の暗がりから顔だけ覗かせて、それから、ゆっくり入ってきた。手には、彫りかけの鳥の木片を握っていた。
「お姉ちゃん、いないの」
問いではなかった。確認だった。この子は、廊下の足音と大人たちの声だけで、もうだいたい理解している。
「いない」
「連れて行かれた?」
「そうだ」
「……温室が、迎えに来た?」
ノエル様は、便箋の上に置いた手を、少しだけ握り込んだ。
「温室か……」
シュピは扉のそばに立ったまま、木片を両手で持ち直した。持ち直した手が、震えているのが、机の側からでも分かった。震えを、この子はいつも、自分の手の中で握り潰す。今夜も、そうしていた。
「……ノエル様」
「なんだ」
「僕、いっしょに、迎えに行っちゃ、だめ?」
「だめだ」
即答したことに、シュピの肩が、一度だけ跳ねた。
「なんで」
「お前を連れて行ったら、シエルが怒る。……あいつが怒るのを、俺は見たくない」
「僕、強いよ。火、出せるよ」
「知ってる。知ってるが、だめだ。お前は、ここにいろ。それで、あいつが帰ってくる場所を守ってろ」
「守るって、何を」
「屋敷。……というか、あいつの部屋。あいつの厨房の担当。あいつの朝の稽古の相手。あいつが帰ってきた時、なくなっていないように、全部、そのまま、置いておけ。それが、お前の仕事だ」
シュピは、木片を強く握って、ゆっくり頷いた。頷いてから、扉のそばに立ったまま、動かなかった。動かないので、ノエル様は椅子から立って、シュピの前に膝を突いた。
「シュピ」
「うん」
「あいつは、剣を持って行った。俺たちに、そう伝えた」
「うん」
「剣を持って行った奴は、帰ってくる。……そういうもんだ。そしてお前もこれから強くなれ」
シュピは、返事をしなかった。返事の代わりに、木片をノエル様の手に押しつけた。
「これ、あずかっといて」
「なんでだ」
「お姉ちゃんが、帰ってきたら、僕、目を彫る。……ノエル様が持ってると、僕、忘れないから」
ノエル様は、木片を受け取った。羽しかできていない、小さな鳥。掌の中で、思ったより、軽かった。
「ああ。預かった」
「うん」
夜が明けかけた頃、庭の焦げた円は、朝露で少し輪郭を鈍らせていた。そして、シュピの目には何か決意のようなものが漲っているような気がした。
ガルドは兵を配置し直して、屋敷の警戒を平時の二倍にした。トムは厨房を開け、いつもの時間にいつもの朝食を作った。シュピは自室に戻って、ベッドの上で膝を抱えていた。ノエル様は書斎で、北への手紙を封じ終えていた。
誰も、大声を出さなかった。大声を出さないことが、この屋敷の、今夜の全員一致の結論。
窓の外は、少しずつ、青くなり始めていた。青くなり始めた空の下で、南の遠くに、雲が長く伸びていた。あの雲の下のどこかに、寝間着で剣を握った銀髪のメイドが、立っているはずだった。
立っているという保証は、まだ、どこにもなかった。
ご拝読ありがとうございました。




