第一話:屋敷の朝
朝の稽古に、相手はいなかった。庭の中央で、私は一人、型をなぞった。剣を振るたび、草の露が足元で散る。師匠が北へ戻ってから、五日が経っていた。五日分の朝稽古は、全部、一人だった。一人の稽古は、静かだった。
型を一通り終えて、剣を納める。
少しだけ、庭の端を見た。井戸のあたり。師匠がよく立っていた場所だった。柄杓を取り落として舌打ちした、あの場所。……いないものを見る癖が、この五日でついてしまった。癖は、直すものだ。直し方は、まだ知らない。
「シエルさん」
振り返ると、ガルドが立っていた。門の見張りの交代時間だった。
「ガルド。おはようございます」
「ああ。手合わせでも、するか」
意外な言葉だった。ガルドが剣の相手を申し出ることは、今まで一度もなかった。
「よろしいのですか」
「朝飯まで、時間がある。剣の師匠が北へ戻って、あんたの剣の相手がいない。置いとくと、剣は鈍る。それは、屋敷にとって損失だと思うがな」
「では、お願いします」
木剣を交えた。
ガルドの剣は、重かった。速くはない。だが、一撃ごとに、傭兵の勘が詰まっていた。変化球は来ない。代わりに、真っ直ぐが、何度来ても同じ重さで来る。迫りくる剣を、同じ強さで受け続けることは、思ったより難しかった。
十合ほどして、ガルドは木剣を下ろした。
「悪くない。だが、あんたの剣は、相手がいて伸びる剣だな。一人では、限りがある」
「理解しているつもりです。明日も、お願いできますか」
「門の番が回ってこなければな」
それは、承諾ということだった。ガルドの言葉は、いつもそうやって、半歩だけ素っ気ない。
朝食の支度は、私の仕事に戻っていた。厨房に入ると、トムが既に火を起こしていた。窓の外は、まだ藍色だ。
「おはようございます、レイラさん」
「おはようございます。……今日のパンは」
「焼けてます。たぶん」
「たぶん、とは」
「いや、焼けたと思うんですけど、思うだけで、まだ窯を開けてなくて。一緒に開けてもらっていいですか。開けるのが、怖い」
「分かりました」
窯を開けた。パンは、焼けていた。焦げてもいない。立派なものだった。
「……焼けてます」
「本当ですか!?」
「はい。綺麗です」
トムは、窯の中のパンを、しばらく眺めていた。眺めてから、
「なんか、逆に、不安になってきました。……次が焦げる気がして」
「次は次です。今日は、今日のパンを食べます」
「そうですね。そうしましょう」
トムはパンを取り出して、籠に並べた。手つきが、旅に出る前より、ほんの少しだけ、丁寧になっていた。私がいない間も、厨房は回っていた。誰かが、その間を、支えていたということだ。そのことを、私はちゃんと見ておこうと思った。
「レイラさん。蜂蜜、詰め直しました」
「ありがとうございます」
「今回は、瓶、二個です。一個は、家用。もう一個は、予備です」
「予備」
「です。予備があると、本番に強いって、誰かが言ってました」
「誰ですか」
「……僕です。今、言いました」
トムは笑っていた。私も、小さく笑った。笑ってから、二個の瓶を、棚の同じ場所に並べた。並んだ瓶が、朝日を受けて、琥珀色に光っていた。
朝食の席は、久しぶりに、四人だけだった。先代夫妻は三日前に発たれた。発つ時、母と呼ばれた人は、私に一言だけ言った。『パンを焦がすな。焦がしても、ちゃんと食べなさい』。あれは、激励だったのだと、あとで解釈した。
「シエル。今日の予定は」
ノエル様が、粥を啜りながら聞いた。粥の中には、干し果実が混ぜてあった。トムの新作だった。
「午前は街の見回り。午後は、屋敷の備品の点検です。……それから」
「それから」
「魔法剣の、確認を。許可をいただければ」
ノエル様は、粥の椀を止めた。
「あの、燃えるやつか」
「はい。旅の途中で、一度だけ、出ました。その後、自分で出そうとしても難しいので訓練したいと考えています」
「屋敷の中では駄目だぞ」
「分かっています。西の練兵場を、お借りしたく。ガルドに、立ち会いを頼みます」
「わかったわかった。その代わり何かあったら、すぐ止めろ。止める判断は、ガルドに任せていい。……お前は、止められ役だ」
「かしこまりました」
シュピが、パンを齧りながら、ずっとこちらを見ていた。見ている目が、何か言いたそうだった。
「シュピ。何か」
「魔法剣って、あれでしょ。剣が、ぶわっ、ってなるやつ」
「ぶわっ、とは」
「ぶわっ。っていうのは……ほら、燃えたり、光ったり」
「その通りです。まだ、ぶわっ、とは、出ていませんが」
「出したら、見せてよ。僕、見るの、好きだからさ。キレイなの」
「分かりました。そうなったら、一番に見せます」
「ほんと?」
「はい。約束します」
シュピは満足そうにパンに戻った。ノエル様は、そんな二人を見て、粥を啜りながら、小さく笑っていた。
「いいのか。約束は、重いぞ」
「重いから、守ります」
「その返しは、誰に似たんだ」
「……ヴェラです」
「やっぱりな」
街の見回りは、一人。朝の市場は、いつも通りの賑わいだった。魚屋が、今日の仕入れを自慢していた。肉屋の跡地には、新しく八百屋が入っていた。ゴータの弟は畑に戻ったままだったが、畑の野菜が八百屋に並ぶようになったので、商売としては続いているらしかった。名前は、相変わらず、誰も知らなかった。
「メイドのお姉ちゃん」
声をかけられた。見れば、孤児院の子供たちが三人、市場の端で袋を運ぶ手伝いをしていた。先頭の男の子は、確か、祭りの時に会った子だった。
「おはよう。手伝い、ですか」
「うん。運ぶと、銅貨もらえるんだ。ねえ、聞いてよ。孤児院に、すっごいきれいな人が来たんだよ」
「きれいな人」
「なんか、お屋敷の人らしくて。紫の着てる人。みんなに、お菓子くれた」
先代夫人のことだろう。発たれる前日まで、孤児院に通っていた。というより、確認に行っていたのだ。子供の数は、領の帳面より正確だ、とあの人は言っていた。
「お菓子、美味しかったですか」
「うん!あのね、僕、あの人に、名前を聞かれたんだ」
「名前を」
「うん。僕、名前、ないからさ。……ないって言ったら、あの人、『名前は、持っているものよ。見つかってないだけ』って」
「いい言葉、ですね」
「うん。だから僕、探してる。市場で、いろんな人の名前を聞くの。参考にする」
「いい探し方だと思います」
男の子は、にっと笑って、袋を担いで走っていった。走っていく背中を見送りながら、私は思った。名前を探している子供がいる。名前を三つ持っている私がいる。名前というのは、誰かがつけるもので、誰かが呼ぶもので、そして、自分で見つけるものでもあるのかもしれなかった。
市場を抜けて、北門へ回った。
門の見張りは、何事もなかった。何事もないことが、報告だった。報告を聞いて、頷いて、私は屋敷へ戻る足を速めた。
午後、西の練兵場で、魔法剣の確認を行った。立ち会いはガルドで、十歩ほど離れて、腕を組んでいた。組んだ腕の角度が、いつでも止めに入れる位置を示していた。
「始めます」
「ああ。無理はするな」
私は剣を抜いた。いつもの、欠けた剣ではない。今日の剣は、土の剣だった。師匠の三本目。部屋の隅で寝かせていた剣を、今朝、初めて、外へ出した。
剣を構えて、目を閉じる。血を、掌へ。掌から、柄へ。旅の途中で、一度だけ、勝手に流れた道筋を、今度は自分からなぞる。なぞる。しかし剣は、鳴らなかった。
血は流れない。流れようとしない。あの時は、勝手に動いた。勝手に動いたものを、今度は自分で動かそうとしている。……動かないものを動かすのは、思ったより、難しかった。
三十回ほど、試した。三十回とも、同じ結果だった。剣は鳴らず、血は流れず、汗だけが流れた。
「シエルさん」
「はい」
「今日は、やめておけ」
「……もう少し」
「あんたの顔を見て言ってる。力の出ない時に、力を出そうとするな。出ないものは出ない。出ない日があるのは、剣も同じだろうが」
私は剣を下ろした。
下ろして、少しだけ、悔しかった。悔しい、という感情を、私はこの剣の前で初めて覚えた。……覚えた悔しさは、悪くなかった。悔しさは、まだ、やることがあるということだ。
「……ガルド。質問があります」
「なんだ」
「ガルドは、剣が出ない日に、何をしますか」
ガルドは、少し考えてから、答えた。
「飯を食う。飯が喰える日は、剣が出ない日だ。剣が出る日は、飯が喉を通らん。……通る日に、通るものを、通しておけ」
「……分かりました」
「分かったか」
「はい。……今夜の夕食は、私が作ります。喉を通す番です」
ガルドは、珍しく、口元を緩めた。
夕食の支度は、いつもより丁寧にやった。鶏肉の香草焼き。季節の豆の煮込み。トムの焼いたパン。……それと、私の作った、林檎の焼き菓子。林檎の菓子は、先代夫人が好んでいたもので、レシピはトムが書き残してくれていた。書き残しには、細かい注意書きがあった。『砂糖は焦げる直前まで』『林檎は厚く切るな』『レイラさんへ。火加減は、強くしすぎないでください』。
「見事です」
トムが、焼き上がりを見て言った。
「教えが、よかったからです」
「いや、僕の注意書き、三箇所、破られてますよ」
「……破りました。そっちの方が合うと思ったので」
「どこを」
「砂糖の量と、切る厚さと、火加減です」
「全部じゃないですか」
「はい。でも、美味しいと思います。食べてみてください」
トムは、一切れをつまんで、口に入れた。入れて、少し考えて、
「美味い。……美味いんだけど、僕のレシピの味じゃない。レイラさんの味だ」
「レイラさんの味、とは」
「知りません。知らないけど、そういう味がする。……蜂蜜、入れました?」
「少し」
「ですよね」
トムは二切れ目をつまんでいた。つまみながら、満足そうだった。レシピは、教えるもので、教わるもので、そして、破られるものなのかもしれない。破られたレシピは、次の誰かのレシピになる。いつかの老婆は言っていた『蜜煮にはその日が乗る』と。料理とは、そうやって、人から人へ渡っていくのだと、その時、思った。
夕食の席で、ノエル様が林檎の菓子を三つも食べた。
「これ、シエルが作ったのか」
「はい。お口に合いましたか」
「合いすぎた。問題だ。……書類の手が、止まる」
「書類は、止めないでください」
「止めないが。もう一切れ」
「三つ目です」
「数えるな。……数えるのは、うちの母の役目だ」
その言葉に、シュピが笑った。シュピは最近、よく笑うようになっていた。笑う回数が増えることは、あの子にとって、いいことだと、私は思っていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「はい」
「鳥、進んだよ。羽が、もう少しで終わる。終わったら、胴体に入る」
「順調ですね」
「うん。……でもね、トムが言うには、鳥には、目があるらしくて。目が、難しいんだって」
「目は、難しいものですか」
「難しいんだって。目を彫ると、鳥が、見てくるんだって。見てくる鳥を彫るのは、ちょっと、怖いって」
「彫った方がいいと思います。見てくる鳥は、ちゃんと、生きている鳥です」
「……そうかな。……そうだよね。……よし、彫る」
シュピは、そう言って、林檎の菓子を頬張った。頬張った頬が、小さく膨らんでいた。頬を見ていると、今まで居た場所のことは、嘘みたいに遠く感じられた。いいことだ。そう思うことにした。
食後、書斎に呼ばれ、赴いた。入ると、ノエル様は机の上の書類を、片手で押さえていた。押さえた書類は、地図だった。
「シエル。座れ」
「失礼します」
「北の、報せだ」
私は、椅子に座ったまま、姿勢を正した。
「はい」
「街道筋の、商人からの話だ。北の国境で、ここひと月、動きが止まっている。小競り合いが、減った。傭兵の仕事が、減ったそうだ」
「それは……いいことでは」
「いいことだ。だが、変なんだ」
ノエル様は、地図の北の端を、指で押さえた。
「争いが減る時は、だいたい、理由がある。和平か、講和か、あるいは、どこかへ、力が向いたか。……和平の話は聞かない。なら、力は、どこへ向いた」
「どこへ、ですか」
「分からん。分からんから、聞いている」
ノエル様は、地図から手を離して、椅子にもたれた。
「シエル。お前は、ヴェラから、北の話を聞いたか」
「はい。終わりのない戦だと。終わりがないから、兵は終わりを考えないと」
「その戦が、静かになっている。終わりのない戦が、静かになる理由を、俺は、知らない。それが、気になる」
「調べますか」
「ああ勿論、調べる。商人にも、頼んだ。ただ、時間がかかるな。思ったより北は、遠い」
ノエル様は、窓の外を見た。窓の外には、庭があって、門があって、その先に、北の空があった。師匠がいる場所が、静かになっている。それはいいことのはずだったが、今夜は少しだけ胸に残った。
「一つだけ、言っておく」
「はい」
「何かあっても、お前は、この屋敷を離れるな。ヴェラが戻るまで、屋敷の剣は、お前だ。お前がいなければ、シュピを守れない。分かるな」
「……分かっています。私は、ここにいます。ここにいることを、選びました」
「よし」
ノエル様は、書類に視線を戻した。戻した手で、羽根ペンを取って、それから、ふと、思い出したように言った。
「ああ、そうだ。林檎の菓子」
「はい」
「あれは、母にも教えてやれ。うちの母は、美味いものを知ると、レシピを聞いてくる。聞かれる前に、こちらから送れ」
「分かりました。レシピを書いて送ります」
「字は、丁寧にな。母は、字も数える」
書斎を出る時、振り返ると、ノエル様はもう書類に目をやっていた。
夜、自室に戻って、私は土の剣を眺めた。部屋の隅に立てかけた剣は、月光を受けて、静かにしていた。今日も、鳴らなかった。剣を、私は、責めないことにした。責めても、鳴らない。鳴らない剣は、まだ、寝ているのだ。起きる時が来たら、起きるだろう。
床に就く前に、窓を開けた。
開けた窓から、庭を見た。木々が、夜風に揺れている。木々の向こうで門の灯りが、点いていた。今夜も、消えていない。灯りを見ていると、女将の言葉を思い出した。……『あの灯りは、忘れませんよ』。灯りは、誰かが見ている。見ている誰かがいるから、灯りは、点いている意味がある。
灯りを眺めているうちに、ふと、気づいた。
血が、鳴っていた。鳴っている、というより、微かに、疼いていた。疼き、というのが近い。傷の疼きではない。もっと深い場所の、血そのものが、小さく、震えているような感触。初めての感触だった。
「なんですか、これは」
小さく、声に出した。疼きは、すぐに収まり、あとには、いつも通りの静かな夜が残った。だが、床に就く時、私は、いつもと違うことを試みる。
そして目を閉じる。
瞼の裏で、血の疼きの記憶が、一度だけ、再生された。疼きは、鐘の音に似ていた。
ご拝読ありがとうございました




