プロローグ:音のない部屋
部屋には音がなかった。石造りの、窓のない部屋。明かりは壁の燭台に一つだけ。火は燃えているのに、燃える音を立てていない。空気が、指で押さえつけられているような静けさだった。
部屋の中央に、少女が一人、座っている。
床にあぐらをかき、頬杖をついている。淡い色の髪をツインテールに結い上げ、その先が退屈そうに揺れていた。髪を留めているのは、カラフルな玉のついたヘアゴムだった。色とりどりの玉が、無音の部屋で揺れても、鳴らない。鳴らせないのではない。鳴らすことが、許されていないのだ。この部屋では、持ち主の許しなしに、何一つ音を立てられない。
袖には「十」の字が縫い取られていた。縫い目はがたがたで、縫ったのが本人だとすぐ分かる。背中にも、同じ印が大きく入っていた。逃げる背中にも、番が振ってある。そういう作りだった。
「ねえ」
少女が言った。声だけが部屋に響いた。
「これ、いつまで?あーし、暇なんだけど」
壁の向こうから、管を通した男の声が返ってくる。遠くて、湿った声だった。
「終わるまでだ。十番」
「終わるまでって、いつ?」
「お前が終わらせるんだ」
「ふーん」
十番と呼ばれた少女は、指で床を二度叩いた。何の音もしない。彼女が許さない限り、この部屋では火さえ黙る仕組みになっている。仕組みというより、そういうふうに、彼女は作られていた。
「ねえ、今日のやつ、出してよ。朝っぱらから呼び出したんでしょ」
「いいのか。三つ行くぞ」
「いいよいいよ。早くー」
壁の一面が、音もなく開いた。
開いた先の暗がりから、人形が三体、滑り出てきた。鉄の関節を持つ、試験用の傀儡だ。剣を持たせてある。胸の奥には、駆動用の機括が低く脈打っている——はずだった。その脈打ちの音も、今は奪われている。
一体目が、突進してきた。
十番は立ち上がらなかった。座ったまま、顎のあたりで指を一つ、折る。
傀儡の右足が、根元から内側へ潰れた。潰れる音はなかった。倒れ込む巨体が床を打つ音だけが、許可されて、鈍く響く。
「いったーそう」
十番は笑った。倒れた傀儡の顔の前にしゃがみ込んで、覗き込む。ツインテールが揺れて、カラフルな玉が無言でぶつかり合った。
「ねえ、痛い?痛いの?あ、言えないか。声、もらっちゃったし」
「十番。遊ぶな」
「遊んでないよ。確認してるの。ほら」
指をもう一度折る。傀儡の喉のあたりの装甲がへこみ、封じられていた駆動音が、微かに漏れた。きしきしと、虫の鳴くような音。
「ちゃんと生きてる。心臓、まだ動いてる。潰したのは足だけ。えらい?」
「次だ」
二体目と三体目が、左右から同時に来た。
十番は今度こそ立ち上がった。立ち上がる音すら立てないまま、駆けてきた二体の間を、すり抜けるように通り過ぎる。通り過ぎざま、両手で何かを掴む仕草をした。すると二体の傀儡が、同時に止まった。
止まって、互いに向き合う形で、転がった。剣を構えたまま。
「えへん。どう?」
「今のは、何をした」
「音の置き場、変えたの。左のやつの心臓の音を、右のやつの頭ん中に入れてあげた。逆もね。機械ってさ、自分の心臓がどこで鳴ってるか分かんなくなると、立ってられないんだよ。人間と同じ」
管の向こうで、書く音がした。採点の音だった。
「三体目まで含めて、所要、二十秒。合格だ」
「やったー。ご褒美ある?」
「飯が豪華になる」
「えー、それだけ?」
「実戦の話がある」
部屋の空気が、少し変わった。変わったのが分かったのは、燭台の火が、ほんの少しだけ揺れを取り戻したからだ。十番の指が、床の遊びをやめていた。
「実戦……」
「ああ。標的がいる。殺すな。測って、持ち帰れ」
「測るって、なにを?」
「強さを。術を。それから——音を」
管の向こうで、紙のめくれる気配がした。めくる音は、十番の耳にだけ届くように許されている。
「標的は女だ。銀の髪。剣を使う。だが剣だけじゃない。血を使う」
「血ぃ?それって私たちと同じってこと?」
「それは断言はできない。ひとまず血が鳴る、という報告が上がってる。剣に血を通して、刃を鳴らしたそうだ。その音を、お前に聞かせたい」
十番は、しばらく何も言わなかった。
血は静かなものだ。血が鳴るなんて、聞いたことがない。鳴るとしたら、それはどんな——。考えているうちに、胸のあたりが、ぽっと温かくなった。温かいのは、いいことだ。そう教えられて育った。
「え」
小さな声が、漏れた。驚きの色を含んだ、年相応の声だった。それを聞き取ったか、管の向こうは一瞬だけ止まった。
「どうした」
「なんでもない。……なんか、楽しみ。……行く」
「よし。場所は南だ。エステル領という」
「えすてる」
「ただし、お前はそこへは行かない。標的を、こちらから動かす。動いた先で、お前が待つ」
「待つー」
「待って、測って、帰ってこい。いいか十番。殺すなよ」
「殺さない。殺さないで、測る。ねえ、それって、難しいやつ?」
管の向こうで、男が小さく息を吐いた。
「お前に難しい仕事は頼めん。だから、お前のやり方でやれ。遊んでいい。遊んで、測って、帰ってこい」
「アハハ!」
十番は跳ねるように踵を返した。
扉に向かう足取りに合わせて、部屋の音が戻っていく。火がぱちぱちと鳴り、潰れた木箱の残骸が遅れて床に散らばる音を立て、壊れた傀儡の関節がだらしなく軋んだ。取り戻した音で、部屋は急ににぎやかになった。
「じゃ、あーし、遊んでくるね」
扉の前で、十番は一度だけ振り返った。振り返った背中に、白い「十」の印が、火の光を受けていた。
「ねえ。その人、いい音、する?」
男は少し間を置いてから答えた。
「分からん。分からんから、お前が聞いてくるんだ」
「そっか。じゃあ、聞いてくる」
扉が開いて、閉まった。
あとには火の音だけが残った。男は管のそばの書類をめくり、二つの項目を目でなぞった。
『標的——銀髪の女。戦姫。血の鳴る女』
『実施——転移術式、起動準備。十番、投入』
頁を閉じようとして、男は、ふと手を止めた。
さっきから、燭台の火の音が、やけに耳に残っている。消し忘れかと思ったが、違う気がした。あの子は、部屋を出る時、最後の一音をいつも持っていく。今日は、火の音だけを残していった。
置き土産、というには、妙な置き方だった。男は書類の隅に目を落とした。小さな字で、こう書き添えてある。
『※十番へは、標的の肖像画を渡さないこと。「顔を見ると、遊びが長引く」』
その添え書きを、男は二度読んだ。
部屋の中で、火の音だけが、消えずに残っていた——




