エピローグ:灯りの下へ
屋敷の門が見えたのは、日が沈みきる少し前だった。というより灯りが見えた。門の灯り。玄関の灯り。二階の、書斎の灯り。……書斎が灯っているということは、ノエル様がまだ仕事をしている。旅の間も、あの灯りは、ずっと点いていたのだろう。点いていた灯りが、今、私たちを照らしている。
「戻ったか」
師匠が、前を向いたまま言った。
「はい。戻りました」
「早いな」
「早く、ないです。……六日と、半日です」
「半日、遅れたか」
「……兎の分です」
師匠は、それを聞いて、声を出さずに笑った。笑ったまま、馬の足を止めなかった。
門の見張りが、私たちを見つけて、中へ駆け込んだ。駆け込んで、すぐに戻ってきて、今度は走って、門を開けた。開いた門の向こうから、人が出てくる。トムが出てきて、ガルドが出てきて、その後ろから、シュピが、転びそうな速さで駆けてきた。
「お姉ちゃん!」
「ただいまです、シュピ」
「おかえり!……ねえ、お土産!土産は!ちゃんとしたやつだよ!」
「剣です」
「剣!?剣は変なやつだって言ったでしょ!」
「変なのは、こちらです」
私は、袋の底から、石を取り出した。取り出して、トムに渡した。トムは、石を見て、それから、目を見開いた。
「持ってってたんですか」
「はい。持って帰りました。お借りしていましたから」
「借りてた、んですか、それ」
「借りていました。利息は、ありません」
「利息って、いや、いいですよ、利息なんて。そうじゃなくて。おかえりなさい、レイラさん。まず、それが先です」
「はい。ただいま戻りました」
言い直した。言い直した言葉の方が、ずっと、しっくりきた。馬を厩に繋いでいる間に、師匠の姿が、見えなくなった。
見えなくなった、というより、いつの間にかいなくなっていた。探すまでもなかった。師匠は、こういう時、姿を消す。消えるのではない。誰にも気づかれない場所で、ちゃんと立っている。今夜でいえば、たぶん、庭の物見の影か、厨房の裏の、湯気の立つ場所か。そんな心配をしなくても、誰かが見つける。
「シエル」
玄関の石段の上に、ノエル様が立っていた。
「おかえり。六日過ぎたから、土下座の準備をしてたんだがな」
「土下座は、済みましたか」
「済んでない。済まずに済んだ。親がな、お前の帰りを、待ってる」
「はい。参ります」
「その前に」
ノエル様は、石段を二段降りて、私の額に、指をついた。ついた指が、何かを払った。
「泥。旅の泥は、落としてけ。うちの母は、額の泥も数えるから」
「数える、のですか」
「数える。行け。……それと」
「はい」
「おかえり。ちゃんと、帰ってきたな」
「はい。ちゃんと、帰ってきました」
対面は、居間で行われた。案内された部屋には、紫の花が活けてあった。活けてある花を見て、私は、ああ、と思った。この花が、無難な花だ。この部屋のものは全部、数えられて、読まれて、選ばれている。……選ばれている部屋に、私は、剣を下げたまま、通された。
「お入り」
声に従って、頭を下げて、入った。
「はじめまして。レイラ・シエルと申します。このたびは、お世話に——」
「頭を上げなさい」
上げた先にいた人は、驚くほど、ノエル様に似ていなかった。似ていないのに、どこかが同じだった。たぶん、目だった。数える目。数えるのに、怒っていない目。
「あなたが、シエル」
「はい」
「銀の髪の、戦姫」
「戦姫、と呼ばれていることは、存じています。……名乗ったことは、ありません」
「名乗らなくても、名はつくわ。名は、名乗る者のものではなくて、呼ぶ者のものだから。あなたは、どう呼ばれたいの」
問いが、真正面から来た。問いに、私は、少しだけ、間を置いた。置くべき間かどうかは、分からなかったが、あえて置くことにした。
「……シエルもしくはレイラ、と呼ばれたいです。この屋敷では」
「この屋敷では、ね。では、外では」
「外では。外では、まだ、分かりません。……いつか、分かると思います」
「いつか、とは」
「それこそ難しい話です。分からないことを、分からないと言えるようになったのは、最近です」
母と呼ばれている人は、その答えを聞いて、ほんの少しだけ、目を細めた。細めた目は、笑いではなかった。笑いではない、もう少し手前の、何かだった。
「パンは、焼けるのね」
「はい。焦がすことも、あります」
「焦がしたパンを、どうするの」
「食べます。私が、食べます」
「どうして」
「焦がしたのは、私だからです。焦がした人が食べる。それが、公平だと、教わったのだと思います」
「誰に」
「……誰に、だったでしょう。たぶん、誰からでもありません。この屋敷で、知りました」
その人は、カップを取って、一口、飲んだ。飲んで、置いて、それから、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がって、私の前に来た。そして私の手を、取った。
取られた手を、その人は、両手で包むようにして、少しの間、見ていた。見ている目は、手のひらの、剣の繭の上にあった。
「剣の手ね。それで、パンを焼く手でもある。……いいわ」
「いい、のですか?」
「いいわ。両方ある手は、どちらかしかない手より、ずっと、いい。うちの息子を、よろしく頼むわ」
「は、はい。よろしく、お頼み、……あの、」
「ん?」
「よろしくお願いいたします。言い直しました」
その人は、初めて、声を出して笑った。笑い声は、書斎まで届いたらしく、あとでノエル様に「何があった」と聞かれた。何があったのかは、私にも、よく分からなかった。
その夜遅く、私は自室に戻って、荷物を解いた。土の剣を、荷物の底から出し、部屋の隅に、立てかけた。立てかけた剣は、月光を受けて、静かにしていた。寝かせておけ、と師匠は言った。寝かせる場所は、ここでいい。ここは、私の部屋だ。私の部屋の隅は、この剣の、寝床だ。
そして久しぶりに帰還した部屋の窓の外を見やる。
庭の向こう、門の灯りが、点いている。門の灯りの下を、今、一人の人影が通り過ぎていくのが見えた。師匠だった。師匠は、門の灯りの下で一度だけ立ち止まり、それから、北の方の闇へ、歩いていった。……今夜、発つのだと、分かった。挨拶がないのが、師匠なりの、挨拶だった。
「行ってらっしゃい」
窓ガラスに、そっと言った。言って、閉めた。閉めた窓の向こうで、人影は、もう闇に紛れていた。
明日から、また、日常が始まる。
朝の稽古。パンを焼く。見回り。シュピと、庭を歩く。ノエル様に、旅の報告することがたくさんあった。墓標のこと。剣のこと。兎のこと。芋のこと。魔法剣のことは、どう報告するかは、まだ、考えていなかった——
その頃、はるか北の、石造りの建物の地下で。灯りの外の人物は、新しい報告書を、指先で開いていた。開いた頁には、二つの項目が、並んでいた。
『銀髪の女——エステル領に帰還。戦姫の噂、北の街道筋にまで到達を確認』
『温室——準備、整う』
人物は、頁を閉じた。閉じる音が、窓のない部屋に、小さく響いた。
「……門を、開け」
声に、誰が応えたのかは、分からなかった。分からなかったが、その夜、北のどこかで、古い術式の封が、ひとつ、解かれた。解かれた術式の名を、知る者は、まだ、南にはいなかった。
知らない者たちの屋敷では、書斎の灯りが、いつもより少し遅くまで、点いていた。灯りの下で、ノエルは、旅から戻ったばかりのメイドの顔を思い出していた。……泥を落とした顔は、旅に出る前より、少しだけ、大人びていた。
それが、嬉しいことなのか、寂しいことなのかは、まだ、本人にも分からなかった。
「はぁ、本当にこの先が楽しみで仕方ないよ。姉貴」
ご拝読ありがとうございました。
明日からは5章に入ります。新しいキャラクターも登場し、どんどん賑やかになっていくと思いますが、個人的にはガヤガヤしすぎても大丈かなと不安です。




