第九話:帰路の約束
「行って参ります」
今度は、間違えなかった。昨夜のうちに、出立の挨拶を練習しておいたのだ。練習したのは黙っていたが、師匠は馬の背の上で、聞こえていたらしかった。
「上手く言えたな」
「練習しました」
「練習するものなのか、それ」
「します。私は」
師匠は鼻で笑って、手綱を引いた。墓標の群れが、後ろへ流れていく。流れていくそれを、私は一度だけ振り返った。木の標は、朝日を受けて、白く立っていた。また来ることがあるかもしれない。あるいは、もう来ないかもしれない。どちらにしても、あの場所は、もう私の中に入った。入ったものは、持って歩ける。
土の剣は、荷物の底で眠っている。師匠の言葉通り、まだ休ませている。代わりにいつもの剣を腰に下げていたが、荷物の重さが、昨日までと少し違って感じられた。背負っている、という感覚。だが、重さは、確かめられる。
出立の前に、もう一つだけ、やることがあった。
野原の端まで戻って、昨日掘った穴を、埋めた。剣で掘った穴を、剣で埋め戻す。土を入れて、踏み固めて、上に草を被せた。被せ終わると、そこは、ただの野原に戻った。
「綺麗に、消えたな」
「はい。……掘った痕は、残したくなかったので」
「なぜだ」
「ここは、標だけの場所です。私たちの痕は、要らない」
師匠は、少しの間、埋め戻された場所を見ていた。それから、何も言わずに馬に跨った。何も言わなかったが、跨る動作が、いつもより少しだけ、ゆっくりだった気がした。
帰路の一日目は、よく晴れた。来た道を、逆に辿る。同じ道なのに、景色が違って見えた。来る時は西へ向かっていた景色が、今は東を向いている。向きが違うだけで、丘の形も、雲の流れも、別のものに見える。……見る方向で、世界は変わる。それは、当たり前のことだったが、当たり前のことに気づくのが、旅というものなのかもしれない。
午前のうちに、一度だけ、馬を止められる。街道ではなく草の中を進んでいた時のことだった。師匠が、何も言わずに手を上げた。止まれの合図だった。止まって、耳を澄ます。……草の音。風の音。それから、かすかに、金属の音。
「何ですか」
「……罠だ。兎の」
師匠は馬を降りて、草を分けた。草の中に、細い針金の罠が仕掛けられていて、そこに、小さな兎が一羽、掛かっていた。足を捕われて、じっとしている。じっとしているのは、暴れると針金が食い込むことを、もう知っているからだった。
「生きてます」
「ああ。……仕掛けたのは、村の者だろう。回収に来るのは、夕方か」
「……助けますか」
師匠は、私を見た。見て、少しだけ、意地の悪い顔をした。
「お前は、どうしたい」
「助けたい、です。しかし、仕掛けた人の、今日の飯でもある」
「そうだな。……さて。……兎を取るか、飯を取るか」
師匠は、しゃがみ込んで、兎を見た。兎も、師匠を見ていた。見つめ合うこと、三呼吸。師匠は、懐からナイフを出して、……罠の針金を、切った。兎は、一瞬だけ動かず、それから、草の中へ、跳ねて消えた。
「あ」
「代わりに、これを置いていく」
師匠は、罠の脇の土に、銀貨を一枚、押し込んだ。兎一羽の、何倍もの値だった。
「それで、公平ですか」
「公平かどうかは、知らん。私は今日、兎を逃がす気分だった。だから、金で誤魔化す。誤魔化せる時に、誤魔化しておけ」
馬に乗り直した師匠の背中を見ながら、私は思った。泣いて食った九歳の冬。泣かずに食うようになったら人をやめろ。あの話は、こういうことにつながっていたのだ。逃がす気分。逃がせる余裕。逃がしたあとに、金を置いていけるだけの、度量。
昼過ぎ、小さな村に立ち寄った。師匠が約束通り、芋を買う。村の老婆が売ってくれた芋は、小ぶりで、土つきで、五つで銅貨二枚だった。安い、と師匠が言った。老婆は「戦さのあとで、芋だけはよく育つんだよ」と言った。このあたりの人は、あの戦のことを、そういうふうに言葉の端に乗せて暮らしている。忘れているようで、忘れていない。そして日常の中に畳んでいる。
村の広場では、子供たちが三人、木剣で遊んでいた。遊び、というより、戦ごっこだった。一番大きい子が「敵役」で、小さい二人が「領主様の兵」だった。
「そこだー!降伏しろー!」
「うわー!強いー!ねえ!もう降伏したんだから、そろそろご飯にしようぜ!」
「降伏したら、飯はない!」
「ないのかよー!」
子供たちは、倒れながら笑っていた。見ていると、師匠が小さく声を出して笑った。
「戦ごっこは、ああでなくちゃな。降伏したら飯がない、というのは、いい掟だ」
「いい掟、ですか」
「ああ。降伏に見返りを求めるな。戦を、遊びのうちに終わらせろ。それができている村は、長持ちする」
広場を離れてからも、子供たちの声が、しばらく背中に聞こえていた。聞こえている声が、だんだん小さくなって、やがて草の音に紛れた。シュピも、いつか、ああいうふうに遊ぶのだろうか。遊べる日が来るのだろうか。来てほしい、と思った。
「あの婆さん、お前の髪を見ても何も言わなかったな」
村を出てから、師匠が言った。
「言いませんでしたね」
「ああいう年寄りはな、若い時にいろいろ見てる。見たものを、いちいち驚かない」
「私も、いつか、驚かない人になれるでしょうか」
「お前はもう、だいたい驚かない」
「そうですか」
「ああ。そして、お前は、驚く前に聞く。そっちの方が、たぶん、もっと強い」
よく分からなかったが、褒められた気がしたので、受け取っておくことにした。
午後、街道に戻る頃には、雲が東へ流れ始めていた。
流れていく雲の先に、屋敷がある。そう考えると、馬の足が少しだけ速くなった。速くなったのを、師匠がすぐに見抜いた。
「急ぐな。馬は、家が近いと分かると、勝手に速くなる。乗り手が抑えろ。抑えられん馬は、転ぶ」
「失礼しました」
「失礼するな。帰りたいのは、私も同じだ」
「ヴェラも、ですか」
「ああ。トムの飯が、恋しい。あいつの飯は、だんだん上手くなっている。……続かないものも、多いからな」
続かないもの、という言葉が、少しだけ胸に残った。深く聞くと、たぶん、師匠は逃げる。逃げる師匠を追いかけるのは、今日の仕事ではなかった。
夕方、見覚えのある地形が増えてきた。増えてきた、というより、帰ってきた。雑木林の並び。小川の渡し場。遠くに見える、エステル領の畑の境界線。境界線を越えた時、私の中で、何かが静かに、音を立てた。
野営地は、二日目の夜と同じ、岩の張り出した窪地だった。
同じ場所に戻ってくると、三日前の自分たちの痕跡が残っていた。焚き火の跡。馬の蹄の跡。……残っていることが、少しだけ嬉しかった。旅というのは、通り過ぎていくものだと思っていた。通り過ぎても、跡は残る。自分で戻ってこれる。それは、帰る場所がある人だけができることだった。
「ヴェラ。芋を」
「ああ。灰が足らん。火を、もう少し強く」
焚き火を強くして、灰を溜めて、芋を埋めた。埋めた芋の上に、さらに熱い灰をかぶせる。……以上だ、と師匠は言った。本当に、以上だった。
「あとは、待つ」
「待つだけ、ですか」
「待つだけだ。それが料理だ」
待っている間、二人とも無言だった。無言の時間が、苦ではなかった。火を見て、芋の匂いが少しずつ立ってくるのを待つ。
待っている間に、荷物の中身を点検する。
点検すると、袋の底から、あの石が出てきた。トムの石だった。持ってきてしまっていた。持ってきてしまった以上、持って帰るしかない。持って帰って、返す。返して、……何と言われるだろう。考えても分からなかったので、考えるのをやめた。
「それは」
「トムの石です。記念に、と入れられていました」
「石を、記念に」
「はい。よく分かりません。が、持って帰ります」
「そうか。持って帰る、か。いいことだ」
師匠は、それ以上、何も聞かなかった。
「レイラ」
「はい」
「明日の夜には、屋敷に着く」
「はい」
「着いたら、私は、北へ戻る」
分かっていた。分かっていたが、言葉にされると、やはり、少しだけ間が必要だった。
「いつ、ですか」
「明後日か、しあさってか。長居はせん。北も、放っておけん」
「分かりました」
「分かった、か」
「はい。分かりました。分かった上で、一つだけ」
「なんだ」
「また、来てください」
師匠は、火を見たまま、少しの間、黙っていた。それから、
「そうだな。そのうち、な」
「そのうち、とは」
「それ以上、聞くな」
聞かない代わりに、私はその言葉を、ちゃんと畳んで、懐にしまった。畳める言葉は畳んでおけば、いつか開ける。書きかけのまま油紙に包まれた、師匠の手紙と、同じだった。
そんな会話を続けていると、芋が焼けた。灰の中から掘り出された芋は、真っ黒だった。黒い皮を割ると、中は黄金色で、湯気が立った。師匠が半分に割り、大きい方を私に渡した。
「喰え」
「いただきます。……熱っ」
「落とすな。……落としたら、灰だらけになる」
「もう灰だらけです」
「それ以上の、灰だ」
齧った。甘かった。灰の匂いが、ほんのりして、それが、確かに、悪くなかった。灰の味がする、というのは、こういうことか。火の味。土の味。待った時間の味。
「美味しい」
「だろう」
「ヴェラの料理は、これ一つだと言っていましたが。一つで、十分だと思います」
「そうか」
師匠は、自分の半分を食べながら、少しだけ目を細めていた。細めた目の先には、焚き火があった。火の向こうには、墓標の野原は、もうない。見えている気がするのは、たぶん、私だけではなかった。
二つ目の芋を分け合った時、師匠が、ふと言った。
「お前は、メイドの仕事を、どう思ってる」
「どう、とは」
「剣の腕、そして器用な魔法の持ち主という視点から俯瞰すれば、お前は戦場にいるべきだ。だが、お前は、パンを焼いている。それを、どう思ってるかと、聞いてる」
私は、芋の皮をめくりながら、考えた。考えて、答えた。
「パンは、焼けます。剣も、振れます。どちらか一方を選べと言われたら、私は、選びません。選べと言った人の方を、選び直させます」
「選び直させる、か」
「はい。パンも剣も、人のためです。人のためのものを、二つもらった。二つあるのに、一つにするのは、もったいないです」
師匠は、芋を食べる手を止めて、私を見た。見て、それから、残りの芋を、黙って食べた。食べ終わってから、一言だけ、
「いい答えだ。それでいけ。そう感じ行動にできる奴は、少ない」
食後、師匠は剣の手入れを始めた。
私も、自分の剣を手入れした。隣で、師匠の手の動きを見る。見るだけで、分かることがあった。師匠の手入れは、どこまでも実用だった。余分な動きが一つもない。……私の手入れは、少しだけ、余分があった。剣の腹を拭く指が、時々、止まる。止まるのは、刃の欠けを見ている時だった。
「その剣、ずいぶん、欠けたな」
「はい。あの夜の戦で」
「欠けた剣を、どうする」
「直します。……いえ。直しません」
師匠の手が、止まった。
「直さない、か」
「はい。この欠けは、私のものです。欠けた場所を覚えている。次に欠ける時の、目印になります」
「誰に教わった、それは」
「教わっていないことを、教わるのが、弟子の仕事です」
師匠は、私を見た。見て、それから、声を出さずに笑った。笑って、手入れに戻った。
「お前は、もう、大丈夫だ」
「大丈夫、とは」
「大丈夫だ。それ以上、聞くな。……聞くと、軽くなる。そうなれば私が困る」
聞かないまま、私は剣を鞘に納めた。納める時、鞘の奥で、小さな音がした。……ああ、と思った。音の正体は、羽しかできていない鳥の木片だった。シュピの木片が、剣と一緒に、鞘のそばに入っていた。入っていたことに、今、気づいた。
「お前も、帰るんだな」
木片に、そっと言った。木片は、何も言わなかった。言わないまま、火の光を受けて、少しだけ温かそうに見えた。火の番は、決まり通り、私が先だった。
師匠は、いつもの速さで寝息を立てた。寝息が規則正しくなるのを確認してから、私は火に枝を足した。足した火が、少しだけ明るくなって、また落ち着く。
明日の夜には、屋敷だ。
ノエル様の書斎の灯り。トムの鍋の音。シュピの足音。ガルドの見張り。……そして、今は、先代夫妻がいる。母という人は、どんな人だろう。前置きの行数を数える人。会うのが、少しだけ怖い。これは久しぶりの感覚だった。
怖いものは、怖いまま、持っていく。
それが、今夜の、私の結論だった。火の番の間、やることをやった。
周囲を歩いて警戒した。兎の足跡は、今夜もあった。逃がした兎と、同じ兎かもしれない。違うかもしれない。どちらでもいい。少しずつ、違いが分かるようになってきた。たぶん、旅のおかげだ。
馬の様子を見た。草を食んで、満足そうだった。水袋の残りを確かめた。明朝まで、足りた。
荷物を、一つずつ、確かめた。土の剣。石。木片。蜂蜜の小瓶は、もう空だった。空の瓶は、洗って、畳んで、袋の隅に入れた。……空になったものも、持って帰る。持って帰れば、次に詰めるものがある。詰めるものがある、ということは、帰る場所がある、ということだった。
「師匠」
寝息に向かって、小さく言った。返事はない。返事がないのを承知で、続けた。
「……守ります。……あの屋敷を、あの人たちを。……守る側で、います。……だから、師匠は、北で、師匠の守るものを守ってください。……お互い、守る側で。……それが、次に会う時の、約束です」
返事は、なかった。
約束というのは、聞かれなくても、交わせるものだと、今夜の私は思うことにした。それは師匠のやり方で、今回の旅で教わったのは、剣だけではなかったことに今更気づいた。
火が、静かに燃えている。東の空の下を、屋敷が待っている。待っている場所へ、帰る。帰る場所があるということは、旅をしていいということだ。旅をして、帰って、また、日常に戻る。戻った日常の中で、私は、土の剣を荷物から出す。出して、置く。置いて、眺める。眺めているうちに、きっと、次のことが分かる。
分かるまで、待つ。待つのが、料理だと、師匠は言った。……待つのは、たぶん、生きることでもあった。夜明けは、もうすぐだった。




