第八話:宴と噂
先代夫妻の滞在は、四日目にして、屋敷の中で一番の景色になっていた。朝、父は庭に出る。木を一本ずつ見て回って、シュピに名前を教える。シュピは覚えられない。覚えられないので、木に自分で名前をつけ始めた。「でっかいやつ」「曲がってるやつ」「たぶん柿」。父はそれを聞いて、庭の真ん中で声を出して笑った。
「いいな。……木はな、名前を二つ持っても困らん。本の名と、お前さんの名と。……たぶん柿、か。秋が楽しみだな」
「柿じゃなかったらどうするんです」
「その時は、たぶん柿じゃなかった、に改名だ」
昼、母は街に出る。供は一人も連れない。連れないで、行商人と値段の話をして、魚屋のミルカと魚の話をして、帰りに孤児院へ寄って、菓子を置いてくる。……寄る、という言い方は正確ではない。毎日、必ず寄っていた。
「母上。孤児院へは、何か」
「見ているのよ」
「何を」
「この領の、いちばん正直な場所を。……子供の数は、領の帳面より正確だわ。子供が増えれば、どこかで誰かが路頭に迷っている。減れば、誰かが食えている。……帳面は、あとからついてくる。子供は、先に知っている」
母はそう言って、それ以上は説明しなかった。ノエルは、その言葉を書き留めておいた。書き留めておくと、いつか使える日が来る。そういう種類の言葉だった。
宴は、滞在五日目の夜に開かれた。
宴、と言っても、大げさなものではない。食堂の長いテーブルに、家族と、屋敷の者たちと、あと、街の顔役が二人。宿屋の女将と、商会の頭取が呼ばれた。呼ばれた二人は、来るなり緊張していたが、トムの魚料理が出る頃には、だいぶ楽になっていた。
「それで、お聞きしたいことがあるのですが」
料理がひと段落した頃、商会の頭取が、おずおずと口を開いた。
「街で流れている、噂のことなのですが。この屋敷に、銀の髪の、その、戦姫、と呼ばれる方が」
テーブルの空気が、少しだけ変わった。変わった空気の中で、ノエルは、杯を置いた。置いて、頭取の顔を見た。
「いますよ」
「い、いる、のですね」
「います。今は、旅に出てますが。戻ったら、紹介します。いい子ですよ。料理も上手いし」
「りょ、料理」
「上手いんです。……この魚の下ごしらえ、あの子が教えたんですよ、トムに」
頭取は、魚を見て、ノエルを見て、また魚を見た。見ている顔に、計算が走っているのが分かった。分かったが、計算の答えは出ていないようだった。出ていないところに、母が静かに口を挟んだ。
「噂は、どこまで広がっているの」
「は、はい。隣領の宿場までは、確実に。その先は、行商人の口に乗って、北の街道筋にも」
「北にも」
「……噂というものは、足が速いもので」
「そう。足が速いのは、噂だけではないのよ。噂に乗って動く者も、いる」
母のその一言で、テーブルの温度が少し下がった。下がった温度を、父が、ゆっくりと戻した。
「まあ、まあ。噂というのはな、頭取殿。風と同じだ。止められん。止められんものは、受けて立つしかない。この屋敷は、松の木に守られている。松は、風が吹くほど、根を張る」
「は、はあ」
頭取には、松の話がよく分からなかったようだった。分からなかったが、空気が戻ったのは分かったようで、ほっとした顔で杯を取った。
女将は、宴の終わりまで、あまり喋らなかった。帰り際、玄関でノエルにだけ、小さく言った。
「ノエル様。あの噂、街の者は、悪いようには受け取ってません。襲撃があった夜、うちの宿の者も、見たんです。屋敷の灯りが、朝まで消えなかったのを。守られてる、って、皆、思ってます。……それだけは、伝えておきます」
「ありがとう。そうか、朝まで、見てたのか」
「見てましたとも。あの灯りは、忘れませんよ」
女将は、深々と頭を下げて帰っていった。ノエルは、扉が閉まるまで、少しの間、その場に立っていた。
宴のあと、食堂の片付けは使用人たちがやった。
ノエルと母は、居間に残った。父は、眠いと言って先に引き上げた。引き上げる時、父は母の肩に一度だけ手を置いた。その一度で、父は今夜の自分の仕事を終えたことになる。この家では、そういう連携だった。
「で」
母が、茶を一口飲んで、言った。
「その銀の髪の子。シエル、と言ったわね。あの子は、一体、何者なの」
来た、とノエルは思った。答えは用意してあった。用意してあったが、出す前に、一度だけ間を置いた。置くべき間だった。うちの母は、間の長さも読む人だった。長すぎる間は、隠し事と読まれる。
「拾ったんです。正確には、ヴェラが拾って、預けた。北で、戦災孤児だった」
「北の戦災孤児が、血の魔法を使って、組織の本隊を一人で斬り伏せる」
「はい」
「ノエル。私は、三歳のあなたの字の汚さで、悩み事を読む女よ。その説明で、私が納得すると思う?」
「思いません」
「でしょうね」
母は、茶を置いた。置いて、息子を見た。見る目は、責める目ではなかった。責めるより、たぶん、もっと面倒な種類の目だった。確かめる、というより。待っている、という目だった。
「一つだけ、聞くわ。あの子は、危ないの。それとも、危なくないの」
「危ない力を、持っています」
「ふうん」
「でも、母上。あの子は、その力で、パンを焼く時間を覚えました。焦がさないように、三回に一回、窯を見る。力の使い道を、毎日、自分で選んでいる。選んでいる人間を、俺は、危ないとは言いません」
母は、少しの間、黙っていた。黙って、茶をもう一口飲んだ。
「戻ってきたら、会わせなさい」
「はい」
「見て、話して、それから考える。私のやり方は、変わらないわ」
「分かってます」
「ただ」
母は、カップを置く手つきを、少しだけ緩めた。
「今日の話を聞いて、考える材料は、増えたわ。……力の使い道を、毎日選んでいる。いい言葉ね。誰に教わったの」
「教わってません。見て、覚えました」
「そう。なら、いい子に育ってるわね。育てたのは、あなたかしら」
「違います。あの子は、自分で育ってます。俺は、たぶん、見てるだけです」
「見ているだけの人間が、いちばん大事なものを育てている、ということも、あるのよ」
母はそれだけ言って、立ち上がった。立ち上がって、扉のところで一度だけ振り返った。
「ノエル。十二年ぶりに、この屋敷に戻ってきて、一つだけ分かったことがあるわ」
「はい」
「この屋敷は、あなたのものになってる。先代の、あなたの祖母の気配が、もうどこにもない。……いいことよ。祖母は、ああ見えて、引き際が綺麗な人だった。あなたも、そういう当主になりなさい」
扉が、静かに閉まった。
ノエルは、しばらく、空のカップを見ていた。見ていて、気づいた。手紙に書けなかったことが、今、全部、口で言えた。言えたというより、引き出された。……引き出すのが、うちの母のやり方だった。行数を数えるのではなく、言葉の奥を、待つ。
翌朝、シュピは、母に呼ばれていた。
呼ばれた場所は、庭の、たぶん柿の木の下だった。シュピは、行く前にガルドに「何かあったら助けて」と言ったそうだ。ガルドは「無理だ」と即答したそうだ。
「シュピ。座りなさい」
「は、はい」
「怖くないわよ」
「……それが、いちばん怖いです」
母は、少しだけ目を見開いて、それから、声を出して笑った。笑ったのを、シュピは初めて見た。あとでシュピが言うには、「笑うと、全然怖くない人だった」とのことだった。
「あなた、変な場所から来たそうね」
「はい。変な場所です。詳しくは、言えません。……言ったら、危ないから」
「危ない。誰が」
「たぶん、みんな。僕も、お姉ちゃんも、ノエル様も。この領の人も、みんな」
母は、その答えを聞いて、少しの間、柿の木を見上げていた。
「いい答えね。詳しく言えないことを、詳しく言えないと言える子は、信用できるわ。詳しく言えないのに、べらべら喋る大人は、大嫌いよ」
「おばさまは、僕のこと、調べないんですか」
「調べないわ」
「どうして」
「調べると、分かってしまうから。分かってしまうと、知らなかったことに、もう戻れない。私は、知る前に、まず会うことにしているの。会って、話して、それから、知る。順番を間違えると、人は、人に会えなくなる」
シュピは、その言葉を、少しの間、噛んでいた。噛んで、それから、
「よく、分かんないです。でも、なんか、いい言葉な気がします」
「分からなくていいのよ。分からない言葉を、いい言葉だと感じる。その感じが、一番大事なの」
母は立ち上がって、シュピの頭に、そっと手を置いた。置かれた手は、思っていたより、温かったそうだ。
「あなたの名前、戸籍に、ちゃんと載ってるのよ。あれは、消えないわ。どこへ行っても、消えない。……それだけは、覚えていなさい」
「はい」
シュピは、それだけ答えた。答えて、少しの間、目を瞬きしていた。瞬きの回数が、いつもより多かったのは、風のせいだったらしい。
その日の夕方、西の街道の見張りから、報せが入った。
「馬が二頭、街道をこちらへ。旅装の女剣士と、銀の髪の、メイド姿の方です」
ノエルは、書斎の窓から、西の空を見た。
見えるのは、夕日だけだった。夕日の下の街道を、今、二頭が進んでいる。帰ってくる。帰ってくる、ということは、あとは迎えるだけだ。
「母上。明日、紹介します」
「ええ。楽しみにしてるわ」
母は、書斎のソファで、刺繍をしていた。いつ屋敷に持ち込んだのか、ノエルは知らなかった。知らなかったが、母というのは、そういう人だった。知らないところで、ちゃんと、自分の時間を持っている。
窓の外では、松の木が、夕風に鳴っていた。鳴っている松の音を聞きながら、ノエルは思った。帰ってくる者を、待っている者がいる。待っている者がいる場所に、帰ってくる。それは、この屋敷が、ようやく手に入れた、一番新しい形だった。




