第七話:墓標の野原
旅の三日目の朝は、快晴だった。夜明けと同時に野営地を畳んで、馬に跨る。師匠は今朝、稽古を仕掛けてこなかった。仕掛けてこない代わりに、朝食の支度を手伝っていた。珍しかった。師匠が鍋を持つのは、旅に出てから初めてのことだった。
「今朝は、稽古は」
「今日はいい。着いてから、やる」
「着いてから」
「ああ。あの場所でやる。……それが、一番いい」
何が一番いいのかは、聞かなかった。聞かなくても、今日は着くのだ。着けば分かる。師匠の言い方を借りるなら、そういう日だった。
街道は、午前のうちに尽きた。尽きる、というのが正しい。舗装の名残がだんだんと草に喰われていき、やがて轍だけの道になり、それも消えた。あとは、草の海だった。風が吹くたび、草が一斉に倒れて、戻る。倒れて、戻る。……麦畑で見た呼吸と同じものが、ここではもっと大きく、もっとゆっくりと続いていた。
人の気配が、なかった。
村も、畑も、羊もない。薪の老人の言葉が正しかった。何もない。畑はない、店はない。あるのは草と、風と。
「ヴェラ」
「ああ」
「もう、見えますか」
「……あの丘を越えたらだ」
師匠は、前を向いたままだった。その背中が、昨日までの背中と少しだけ違って見えた。何が違うのかは、言葉にできなかった。言葉にできないものを、私は目で追うしかなかった。
丘を越えた。野原が、広がっていた——
ただの野原ではなかった。広がる草の中に、ところどころ、白いものが点々と立っていた。近づくにつれて、それが木の標だと分かった。人の背ほどの高さの、削り出された木の杭。何本も、何十本も。風に晒されて、色は抜け、表面は毛羽立っている。それでも、倒れていない。立っている。
墓標だった。
馬を止めた。止めたまま、しばらく見ていた。
「千人」
「ああ。名前の分かった者には、石を。分からなかった者には、木を。……木は、十年しか持たないと言われた。持たないはずだった」
「でも、立っています」
「立ってる。……立たせてきた者がいる。近くの村の者か、流れの傭兵か。分からんが、立っている。それだけだ」
馬を降りた。草が、膝のあたりまであった。
一歩、踏み出す。草を分ける音が、やけに大きく聞こえた。二歩、三歩。墓標の一本に手が届く。触れた。木は乾いていて、温かった。太陽の熱を、蓄えていた。
「ここが」
「ああ。ここだ」
「私を拾うより、前」
「一年、前だ。この戦で、私は剣を一本、ここに置いていった」
師匠は、野原の奥を見ていた。見ていた目が、そのまま奥へ歩き出した。ついていく。墓標の列を、二つ越え、三つ越え。越えるたびに、風が一度ずつ、向きを変えた。
野原の、ほぼ真ん中で、師匠は止まった。そこには、他より少しだけ太い木の標が一本、立っていた。
「これは」
「指揮官の標だ。敵の、な」
「敵の指揮官の墓を、ここに」
「ああ。あの戦の終わり方が、そういう終わり方だった。斬ったのは、私だ。立てたのも、私だ」
師匠は、その標の前に立って、少しの間、黙っていた。黙っている師匠の横顔を、私は初めて、まっすぐに見た。屋敷でも、街道でも、見たことのない横顔だった。
「名前は、分からなかったのですか」
「分からなかった。分かる術はあった。敵の陣営に、名乗りの記録があったはずだ。だが、聞かなかった。聞いてしまうと、その名前を背負うことになる。当時の私には、背負えなかった」
「今は」
「今も、背負えない。だから、標だけだ。標だけ立てて、名は聞かない。それが私の、精一杯の礼儀だ」
それが師匠のやり方なのだと思った。全部を背負おうとはしない。背負える分だけを、背負う。私にも、いつかそういう分け方ができるようになるのだろうか。
「レイラ」
「はい」
「この標の、西へ三歩。……掘れ」
「掘る、のですか」
「ああ。お前の剣が、そこにいる」
言われた通りに、西へ三歩。剣を鞘から抜いて、土を起こす。剣で掘るものではないだろうが、他に道具がなかった。草の根が、思ったより深い。根を切って、土を退けて、また切って。日が高くなっていく。汗が、顎を伝った。
掘り始めて、すぐに気づいた。この作業は、思っていたよりずっと、時間がかかる。
土は、上の方こそ柔らかかったが、剣の半分ほどの深さから、急に固くなった。冬の凍結と夏の乾燥を十年繰り返した土は、石のように締まっていた。剣の先を差し込んでも、弾かれる。差し込む角度を変えて、横に削るようにして、少しずつ崩していく。
「手間取ってるな」
「固いです」
「十年分だ。……それくらい、固くて当然だ」
師匠は座って見ているだけだった。手伝わない。手伝わないことが、これが私の仕事だということだと分かった。指先が痛くなってきた頃、土の中に、色の違う層が出てきた。黒っぽい、湿った層だった。
「ヴェラ。これは」
「……灰だ。あの戦のあと、この野原は一度、燃えた。……燃えた灰が、雨で沈んで、層になった。その下だ。もう少しだ」
灰の層を、指で丁寧に取り除いた。除けている間、少しだけ、手が止まった。この灰は、あの戦の火だ。千人が死んだ日の火だ。その下に、私の剣が眠っている。……眠っていたものを起こすのは、こういう手つきでいいのだろうか。
剣の先に、硬い感触があった。
鋭い感触ではなかった。布越しの、鈍い硬さ。私は剣を置いて、両手で土を掻いた。指の腹で、土の中の輪郭を確かめる。細長い、人の腕ほどの長さの、硬いもの。
土の中から出てきたのは、油紙に包まれた、細長い束だった。
包みは、思ったより重かった。土の水分を吸って、ずっしりと手に残る。包みの端は朽ちかけていたが、巻かれ方は丁寧だった。二度巻きになっていて、外側が土で黒ずんでいても、内側は油の光沢を残していた。
紐を解く。硬く結ばれた紐が、指に食い込んだ。
油紙を、開く。
剣が、出てきた。
錆びていた。だが、折れていなかった。十年の土の中で、刃は細かく欠け、柄の革は溶けていた。それでも、剣の形を保っていた。保っていた、というより、保たされていた。……包んだ者の、丁寧さが、油紙の折り目に残っていた。
「これは」
「私の剣だ。……三本目の剣だ。折れた剣が二本、その前にある。その次が、これだ」
「師匠の剣を、どうしてここに」
「この戦が終わった時、私は思った。この剣は、もう人を斬るな、と。斬りすぎた。一本の剣が斬っていい数を、とっくに超えていた。だから、ここに置いていくことにした。斬る剣の仕事を終えて、守る場所に置く。……剣にも、そういう余生があっていいと思った」
師匠は、私の手の中の剣を見た。
「だが昨夜、話したろう。墓標に立てられていた剣の話。あれは、この剣だ。拾う途中でここへ寄った時、一度掘り出して、標に立て直した。雨の中でな。立てた剣を見て、お前に剣を教えると決めた。教えると決めたから、剣はまた土に戻した。いつか、お前自身が掘り出す日まで、預けておこうと思った」
「それが、今日」
「今日だ。その剣は、お前のものだ。お前が掘った」
私は、剣を両手で持ち直した。
重かった。十年分の土の重さが、刀身に残っている気がした。……残っていたのは、重さではなく、時間だった。この剣が斬った者の時間。この剣を埋めた日の時間。この剣を待たせた、十年の時間。その全部が、今、私の手の中にあった。
「重いです」
「重いだろう。だが、お前の手は、もうその重さに耐える」
師匠は、自分の剣に手をかけた。
「さあ。約束だ。ここでやる」
「ここで」
「ああ。墓標の前で、お前の剣の、最初の稽古をつける。その剣は、人を斬る仕事を終えた剣だ。終えた剣に、次の仕事を教えるのは、お前だ。教わるのは、お前かもしれんがな」
私は、土の剣を構えた。——師匠が、来た。
一合目で、分かった。この場所での師匠は、街道の師匠ではなかった。速い。重い。一撃ごとに、剣の腹に伝わる衝撃が、骨まで届く。……本気、というのとは少し違う。本気以上に、何かが乗っていた。十年分の、何かが。
「その剣は、泣いている」
打ち合いの間に、師匠が言った。
「剣が、ですか」
「ああ。十年、土の中で、持ち主の来るのを待っていた。……待っていた剣は、振る者を試す。……試されているのは、お前の方だ。剣の方じゃない」
二合目。三合目。土の剣は、私の手に馴染まなかった。馴染まない。重さの中心が、いつもの剣と違う。違う剣を、いつもの剣のように振っている。それでは、十年の時間に失礼だった。
四合目の途中で、私は構えを変えた。
教わった構えではない。剣の重さに、私の方から合わせた。中心が違うなら、違う中心で振ればいい。剣が重いなら、重い剣の振り方がある。
師匠の目が、変わった。
「来い」
来た。風が、草を鳴らした。墓標の木が、軋んだ。剣と剣が鳴らす音が、野原いっぱいに広がって、どこにもぶつからずに消えていく。
七合目の、打ち合いの最中だった。剣と剣が噛み合った、その一瞬、痺れた。師匠の剣の重さが、柄を通して掌に食い込んでくる。押し負ける。そう思った時、私の中の血が、勝手に動いた。
動いた、というより、流れた。
腕から、掌へ。掌から、柄へ。柄から、刀身へ。……血が、剣の中へ、入っていく。
「……っ」
血は一滴。使ったのは、一滴だけだった。だが、その一滴が、剣の中で燃えた。
錆びた刀身に、熱が走る。欠けた刃の線に沿って、薄い炎の筋が、一文字、走った。と思った時には、もう燃えていた。刃全体が、鳴っていた。鐘のような、低い鳴り。
「なっ」
師匠の顔が、初めて、強張った。
噛み合っていた力の釣り合いが、崩れた。崩れたのは、師匠の側だった。熱が、剣越しに伝わる。師匠は剣を離さなかった。離さないまま、体勢を立て直そうとして、……それを、私は逃さなかった。
燃える剣を、押し込んだ。
半歩。師匠が、半歩、後ろに下がった。
「離れろ」
師匠の声で、我に返った。刃から炎が消えて、血の気が引いていく。剣が、ただの錆びた剣に戻った。戻った剣の切っ先は、師匠の喉の、すぐ手前にあった。
二人とも、動かなかった。風だけが、草を鳴らしていた。
「……今のは」
「分かりません。血が、勝手に」
「勝手に、か」
師匠は剣を下ろして、鞘に納めた。それから、私の手の中の剣を、じっと見た。見ている目は、驚きではなかった。確かめるような、目だった。
「レイラ。お前の魔法は、血から形を作るものだったはずだ」
「はい。血で、刃を。血で、鎖をそして魔法を。……それが、今は」
「剣に、乗ったな」
「乗りました。一滴で」
「一滴」
師匠は、少しだけ息を吐いた。
「お前の血の魔法は、血そのものを燃やして力にする。血は、使えば減る。減れば、終わる。……だが、剣に乗せるということは、器があるということだ。器があれば、血は燃えても、剣は残る。……残った剣は、また乗せられる」
「同じ一滴で、二度、使えるということですか」
「そうだ。お前は今、自分の魔法の一番弱いところを、剣で補った。補ったのは、お前だ。私じゃない」
私は、手の中の剣を見下ろした。
錆びて、欠けて、十年土の中にいた剣。その剣が、私の血を受け入れた。受け入れて、燃えた。燃えて、なお、折れなかった。
「ヴェラには、教えられない技ですか、これは」
「教えられん」
師匠は、即答した。
「私は、剣しか使えん。魔法を一滴も使わずに、戦場を歩いてきた。それが私の剣だ。だが、お前は違う。お前には、剣がある。器用に使いこなせる魔法がある。その二つを、今、初めて、同じ手で握った」
師匠は、草の上に、どっかりと座った。
「もう、いい。今日は、ここまでだ」
「まだ、昼にもなっていません」
「いいんだよ、もう。……いい。十分だ」
師匠は、草の上に座ったまま、空を見ていた。見ていたその横顔が、少しだけ、濡れていた。汗のせいかもしれなかった。汗のせいではないかもしれなかった。どちらでも、私は聞かなかった。
「では一つだけ、聞いていいですか」
「なんだ」
「師匠は、私に追いつかれるのが、怖いですか」
師匠は、空を見たまま、少しの間、黙っていた。それから、
「ああ怖いさ。私より強い人間なんてそうそういてたまるか。……怖いが、ただそれより先に、嬉しいものが来た。先に来た方が、勝ちだ」
それだけ言って、師匠は立ち上がって、ズボンの土を払った。
私は剣を、腰に下げた。下げた剣の柄が、ほんの少しだけ、温かった。……血の熱が、まだ残っているのかもしれない。残っている、ということにしておいた。




