第六話:当主の両親
エステル家の先代夫妻が屋敷に到着したのは、昼少し前だった。
馬車が二台、門をくぐる。先頭は夫妻の乗った漆塗りの馬車で、後ろは荷物の荷馬車だった。荷馬車の荷台には、布で包まれた箱がいくつも積まれていて、門番の若いのが「何だろう、あれ」と隣の年配に聞いているのが、二階の廊下の窓から見えた。年配の門番は、あれは贈り物だ、と教えていた。先代夫人は、訪ねる先へ必ず贈り物を持っていく人だった。たとえ、訪ねる先が実の息子の屋敷でも。
ノエルは、玄関の石段の下で出迎えた。
「ようこそ、父上、母上。道中はお変わりなく」
「ええ、変わりなく。……あなた、少し痩せたんじゃないの」
降り立った母は、挨拶の三秒後にそう言った。見れば分かる人だった。ノエルが領主会議の書類漬けで食事を二度落としたのは、ほんの先週のことだった。
「変わってません。……父上は」
「おお、元気だ」
父は、馬車の踏み台をゆっくり降りてきて、まず玄関ではなく庭の方を見た。庭の、植え込みの方を。
「ノエル。東の松、少し伸びたな」
「見るところが、そこですか」
「いいことだ。松は正直だからな。手入れが行き届いている」
父はそれだけで満足そうだった。この人にとって、屋敷の安否は松に聞けば分かるらしい。ノエルは父のその性質を、嫌いではなかった。嫌いではないのだが、隣に立つ母の目が光っているのを見ると、どうしても姿勢が正しくなってしまう。
「さ、中へ。……あら」
母の目が、石段の脇に控えていたシュピの上で止まった。
「その子は」
「……シュピです。この屋敷で預かっている」
「ふうん」
母はシュピの前に歩み寄って、しゃがむでもなく、見下ろすでもなく、目線の高さまでかがんだ。その仕草だけで、シュピは息を呑んだ。あとでシュピが言うには、「目が、すごかった。怒ってるんじゃなくて、なんか、ぜんぶ見てる感じ」だったそうだ。
「シュピね。何歳」
「じゅ、十一です」
「右腕、怪我してたのね。もう痛くない?」
「……痛くない、です。……あの、どうして」
「包帯の癖よ。隠してる子は、だいたい同じ場所に手を置くの」
母は立ち上がって、それ以上は何も聞かなかった。聞かない方が、よほど聞かれた気分になる人だった。シュピは、昼食の間ずっと、背筋を伸ばしていた。
昼食は、トムが三日がかりで詰めた献立だった。
白身魚の香草蒸し。季節の豆の煮込み。パンは焦がさなかった。焦がさないように、トムは前日の夜、厨房に泊まり込んでいた。母は魚を一口食べて、
「香草は、庭のものね」
「……はい。厨房の裏の畑で」
「ローズマリーが少し強いわ。次は、半分でいい」
「次、ですか」
「滞在中、あと五回は食事をするのだから」
ノエルは、トムと目を合わせなかった。合わせると、たぶん二人とも困った顔をしていたからだ。母の言葉は、批判ではなかった。批判ではなく、記録だった。この人は、食べたものを全部記録している。そして、必要な時に全部を思い出す。
「それで」
食事が終わる頃、母はナプキンを畳んで、言った。
「街の噂を、聞いてきたわ」
ノエルは、心の中で姿勢を正した。
「噂、とは」
「銀の髪のメイドがいる、という噂。……本隊が襲撃に来て、そのメイドが一人で斬り伏せた、という噂。戦姫、と呼ばれているそうね」
「……どこで」
「宿場の茶屋よ。行商人が、誇らしげに話していたわ。……うちの領のメイドは凄いのよ、って。領の者でもないのに」
テーブルの空気が、少しだけ固くなった。父は、豆の煮込みを静かに食べ続けていた。この人は、こういう時、料理に集中することで場を支える。それがこの家の、長年の連携だった。
「そのメイドは、今、屋敷にいるの」
「旅に出ています。……ヴェラと」
「ヴェラと」
母の目が、ほんの少しだけ変わった。懐かしむような、確かめるような変化だった。
「ヴェラが戻ってきていたのね。……知らなかったわ」
「北から、様子を見に。……襲撃のあとでな」
「そう。……あの人が動くということは、そういうことなのね」
母はそれ以上、掘り下げなかった。掘り下げない代わりに、ナプキンを二度、丁寧に畳み直した。母にとって、畳み直しは「この話は保留」という意味だった。ノエルはその癖を、二十七年間、見てきた。
午後、父は庭に出た。案内役は、なぜかシュピになった。なった、というより、父が「その子に案内してもらおう」と指名した。シュピは不安そうにノエルを見たが、ノエルは行ってこい、と顎で合図した。父の指名に、深い意味はない。ただ、若い者と庭を歩きたいだけの人だった。
庭を歩きながら、父は木の名前を全部知っていた。
「これは、何の木か分かるか」
「分かんないです」
「クスノキだ。……お前さんと同じで、傷がつくと、そこから強い香りを出す。虫を寄せ付けないためにな。傷が、自分を守っているんだ」
「……僕、傷だらけじゃないです」
「そうか。なら、強い香りは要らないな」
父は笑って、先を歩いた。シュピは、あとからついていきながら、
「あの、おじい……さま」
「おじいさま、でいいよ。呼びにくかったら、じいや、でもいい」
「じいや。……僕、変なところから来たんです。変な場所。……それでも、ここにいていいんですか」
父は、立ち止まった。立ち止まって、クスノキの幹に手を置いた。
「この木はな、俺が子供の頃、南の山から運ばれてきた。……ここの土に、最初は合わなかった。二年間、葉が半分しか出なかった。だが、三年目に根が張ってな。今では、この庭で一番大きい」
「…………」
「どこから来たかは、木に聞いても答えんよ。根が、どこに張っているか。……それだけが、答えだ」
シュピは、クスノキを見上げていた。見上げたまま、何かを考えていた。考えている顔は、子供のものだった。
その頃、書斎では、母とノエルが向かい合っていた。
「戸籍の写しを、見せなさい」
「知ってたんですね」
「知らなかったわ。でも、あの子の座り方を見れば分かる。あれは、自分の居場所をようやく得た子の座り方よ。……得た、ということは、誰かが与えた。与えられるのは、当主だけ」
ノエルは、書庫から戸籍の写しを取り出して、渡した。母は、それを三回読んだ。一行の文を、三回。
「シュピ。姓は」
「まだない。……必要になったら、その時に」
「その時、というのは」
「本人が選ぶ時だ。選べるようにしておく」
母は、写しを返しながら、
「あなた、変わったわね」
「変わりましたか」
「昔のあなたは、『どう説明するか』から考える子だった。……今は、『どうあるべきか』から考えている。説明は、そのあと」
「……母上に、手紙が書けませんでした。それだけは」
「知ってるわ」
「知ってるんですか」
「知ってるわよ。……あなたは、悩むと字が汚くなる。三歳の頃から」
ノエルは、返す言葉がなかった。母は椅子から立って、窓の外の庭を見た。庭では、父とシュピが、クスノキの下で何かを話していた。笑っているのが、ここからでも分かった。
「……いい子ね。あの子は」
「はい」
「銀の髪の子も、早く見たいわ。噂では聞いた。だが、噂は噂よ。……見て、聞いて、それから私は考える。それが私のやり方」
「厳しく、いきますか」
「当たり前でしょう。あなたが選んだ人たちなのだから。選んだなら、選ばれた側は、確かめられる覚悟を持つものよ」
母はそう言って、それから、少しだけ声を落とした。
「……でも、ノエル。一つだけ、先に言っておくわ」
「はい」
「あなたが十五で当主になってから、十二年。……あなたは、よくやっている。それは、手紙に書かなくても、私には分かるのよ」
ノエルは、何も言えなかった。言えないまま、母は書斎を出ていった。出ていく背中は、石段を降りる時と同じ速さだった。
夕食は、昼よりも和やかだった。父が庭の話を長くして、母がときどき正確な訂正を入れて、シュピが木の名前を三つ覚えて、トムの菓子が焦げなかった。焦げなかったので、トムは少し誇らしげだった。誇らしげなトムを見て、母は「焼き色、ちょうどいいわ」と言った。トムは、あとでノエルに「あの一言で、三日分の疲れが取れました」と言ったそうだ。
食後、ノエルは一人で書斎に戻った。便箋を取り出して、ペンを取った。取って、少し考えてから、書き始めた。
『母上。お元気ですか。……屋敷に、子供が一人います。名前は、シュピ。戸籍を与えました。会えば、分かります』
書けた。書けたので、そのまま封をした。出す必要は、もうなかった。母は、もう屋敷にいる。……それでも、封をした。書けたという事実が、欲しかったのかもしれない。封をした手紙を、書庫の棚の奥にしまった。いつか、読まれる日が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらでもいい。書けたのだから。
窓の外では、西の空が暗くなっていくところだった。あの方角のどこかで、シエルと姉貴は、今夜も焚き火を囲んでいるのだろう。もう墓標にはついているだろうか。迎える側の準備は、だいたい整った。あとは、帰ってくるのを待つだけだ。




