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戦姫メイド  作者: 白彩
墓標の野原
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第五話:拾った夜

 旅の二日目の朝は、霧雨の中の稽古から始まった。野営地の窪地を出る前に、師匠が剣を抜いた。合図はそれだけだった。私も抜く。木剣は持っていない。旅に木剣など積んでいない。だから、打ち合いは刃を峰に倒しての、真剣の形だった。


「来い」


最初の一合は、私から仕掛けた。踏み込んで、袈裟に振る。師匠は受けない。受けずに、紙一重で外して、返す刃が私の喉元に来る。止めた、ではなく、触れた。峰の冷たさが、喉の皮膚に直接伝わった。


「死んだ。次」


二度目は、下段からの突きを見せかけて、面を狙った。昨夜の話の余韻か、師匠の動きがいつもより半拍遅い。そこを突いた。突いたつもりだった。気づいた時には、私の剣が宙を舞っていて、土の上に転がされていた。背中に冷たい土の感触。


「その手は喰わん。次」


三度目。四度目。五度目。全て、同じ結果だった。違うのは倒され方だけだった。引き倒され、払われ、巻き込まれ、二度目は同じ倒れ方をさせないように注意したが、三度目には別の倒れ方を教えられた。


六度目の突きが、師匠の頬の横を掠めた。


掠めただけだった。掠めただけだが、師匠の目が一瞬だけ鋭くなった。鋭くなった次の瞬間、私は両手首を取られて、そのまま地面に縫い付けられていた。師匠の膝が、私の胸のすぐ横の土に、音を立てて落ちる。


「……その目だ。その目を、もっと出せ」

「この、目が、何ですか」

「欲を出せ。勝ちたいという欲を。……お前は、いつもどこかで引いている。相手に、遠慮している」

「遠慮は、していません」

「している。……しているから、掠めるだけで終わる。掠めたあと、お前は少しだけ引いた。それを、見逃す奴はいない。少なくとも、私の敵にはいない」


私は、土の上で息を整えた。整えながら、思った。……そういえば、どうして旅の途中で稽古をしているのだろう。屋敷での朝練なら分かる。日課だからだ。だが、旅の途中の、これから目的地へ向かう途中の朝に、こうして泥だらけになって剣を振る意味は、何なのだろう。


「ヴェラ」

「なんだ」

「どうして、旅の途中で稽古をするのですか」


師匠は、私の手首を離して立ち上がった。立ち上がってから、少し考えるように間を置いた。


「……剣はな、日常の中にあると、鈍る。当たり前のものになる。……だが、旅の途中で抜く剣は、違う。いつもと違う場所で、いつもと同じように抜く。そうすると、お前の剣が、場所に依存していないことが分かる」

「場所に、依存」

「屋敷の庭でしか振れない剣は、屋敷の剣だ。……お前の剣は、お前のものだ。どこへ行っても、お前のものであり続ける。それを、体に教えるためにやってる」

「体に、教える」

「頭で考えるな。体で覚えろ。……覚えるまで、やる」


七度目は、師匠の袖を裂いた。裂けただけだった。裂けただけだが、師匠は初めて、小さく笑った。


「……よし。今日は、それで勘弁してやる」

「勘弁、ではなく」

「勘弁だ。腹が減った」

「……それと、袖を裂きました。あとで縫います」

「要らん。このくらい、敵に見せる余興だ」

「余興ですか」

「袖の裂けた剣士を見て、相手は油断する。……ということにしておく」


朝食は、雨上がりの湿った火で作ったので、いつもより時間がかかった。乾燥パンをふやかしただけのものだったが、稽古の後のそれは、不思議と旨かった。稽古の後の飯が旨いのは、身体が勝手にそう感じるからだと、師匠が言っていた。身体は正直だ、とも。

泥だらけの外套を払って、馬に跨る頃には、霧雨は本降りと言えない程度に細かく残るだけになっていた。



 街道に進むと、人の姿は昨日より少なかった。雨のせいかもしれない。荷馬車一台とすれ違っただけで、あとは狐が横切ったくらいだった。狐はこちらを見て、それから興味を失ったように草むらに消えた。北の狐と同じ仕草だった。狐は、国が変わっても狐なのだろう。


「ヴェラ。拾われた頃の私は、どのくらいの大きさでしたか」

「小さかった。……私の脛の、少し上くらいまでしかなかった」

「そのくらいですか」

「ああ。剣を持たせたら、剣の方が長かった」

「剣を、八歳に」

「木刀だ。……それでも、木刀の方が長かった。お前はそれを、両手で引きずって歩いた。引きずるなと言ったら、今度は肩に担いだ。担ぐなと言ったら、背負った。背負うなと言ったら、翌朝には木刀を布で包んで宝物みたいに抱えて寝ていた」

「……覚えていません」

「お前が覚えていない話を、私はたくさん知っている。……そのうちのいくつかは、墓まで持っていく」

「気になります」

「気にするな。一つだけ教えておくと、お前は九つの冬に、初めて一人で兎を仕留めた。仕留めたあと、半日泣いていた」

「泣いていたのですか」

「ああ。だが、翌日にはちゃんと食った。……泣いて食った。それでいいんだ。泣かずに食うようになったら、その時は人をやめた方がいい」


その話を聞いて、私は少しだけ安心した。泣いていた八歳や九歳の私が、どこかにいたのだ。覚えていないだけで、いたのだ。


午後、雨は完全に上がった。代わりに風が出てきて、雲が速く流れていく。街道の両脇は雑木林になり、ときどき開けた場所から、西の山並みが近くに見えた。昨日より、ずっと近い。


「ヴェラ。明日の昼には着きますか」

「天気次第だ。……いや、天気が悪くても着く。着くが、野原で雨に打たれるのは、あまりいいものじゃない」

「あの場所で、ですか」

「あの場所は、雨の記憶が多い」


それだけ言って、師匠は前を向いた。多い、とはどういうことか。聞こうとして、やめた。明日行けば分かることだった。


昼は、街道を少し外れた湧き水のそばで取った。昨日の蜂蜜がまだ残っていて、今日は師匠の分にも塗った。塗っていると、師匠がじっと手元を見ていた。


「レイラ。その瓶、半分残ってるな」

「はい」

「……計算して塗ってるな」

「はい。六日分です」

「お前はそういうところだ」

「褒めてますか」

「褒めてる」


昨日は褒めてないと言われたので、今日は進歩だった。蜂蜜の配分で進歩する人生も、悪くないと思った。

湧き水は冷たくて、甘かった。水袋を満たしている間、師匠は水のほとりの石を拾っては眺め、捨て、また拾っていた。何をしているのかと思ったら、


「いい石だ」

「石、ですか」

「砥石に使える。……いや、使えんな。形が悪い」


拾った石は、結局全部捨てられていた。剣の手入れの話かと思ったが、違ったようだった。違うなら何なのか。聞かなかった。旅の師匠には、時々そういう、用途のない時間があった。それは悪いことではないように見えた。


午後も遅くなった頃、追い越していった荷馬車があった。荷台に薪を積んだ、老人の馬車だった。追い越しざまに老人が声をかけてきた。


「お嬢さんがた、西へ行くのかい。あんまり行くと、何もないよ」

「何もない、とは」

「何もないさ。畑はない、店はない。あるのは草と、風と、……まあ、昔の名残ってやつだ」


老人はそれだけ言って、薪を売るために南の村へ曲がっていった。曲がり際に一度だけ、私の髪を振り返って見ていた。銀の髪は、どこへ行っても人の記憶に残る。残ることが、いいことかどうかは、まだ分からない。


「師昔の名残、とは」

「墓標のことだろう」

「このあたりの人は、知っているのですか。あの野原を」

「知っている。……だから近寄らない。ああいう場所は、人の記憶だけで生きている。忘れられたら、ただの野原に戻る」

「忘れられた方が、いいのではないですか」


師匠は少し考えてから、


「……忘れられたら、埋まっている者は二度死ぬ。私はそう思うことにしている。思うことにしているだけだ。正しいかどうかは知らん」



 今日の野営地は、丘の中腹の、岩の張り出した窪地だった。上からの雨を岩が遮ってくれる。師匠が火を起こす間に、私は周囲を歩いて警戒した。人の気配はない。兎の足跡が、新しいものと古いものと、二組あった。兎の足跡を見ていると、九歳の冬の話を思い出した。泣いて食った兎。……あれは、旨かっただろうか。覚えていないので、答えようがなかった。


夕食は、昨日と同じ雑炊だった。


同じ献立でも、二日目の方が上手くできた。湯の量を、昨日より少し減らしたからだ。干し肉は細かく刻んで先に煮て、干し野菜は最後に入れた。そうすると、肉の塩気が粥全体に回って、野菜の歯触りが残る。屋敷の厨房で覚えた手順だった。


「……昨日より、うまい」


師匠が言った。


「改良しました」

「戦場でも、それをやれ。三日目で味が変わると、兵が黙る」

「黙る、のですか」

「うまい飯の前では、誰も喋らん。喋るのは、まずい時だけだ。……北の野営ではな、飯の出来で翌日の士気が分かる。うまい飯を食った夜は、見張りの居眠りが減る。腹が満ちると、人は生きようとする」

「……飯は、武具ですか」

「武具だ。剣より先に、腹を満たせ。剣より先に、眠れ。……それができる奴が、一番長く生きる。強い奴より、長く生きる奴の方が、戦場では価値がある」


師匠は二杯目をよそっていた。戦場の話には、時々こういう、役に立つのか立たないのか分からない知識が混ざっていた。だが今夜のそれは、厨房に立つ日々の私にとって、妙に腹に落ちる話だった。


「師匠は、料理ができますか」

「できん。……いや、できるものが一つある。芋の丸焼きだ」

「芋の」

「焚き火の灰に埋めて、待つ。以上だ」

「それは料理というより」

「料理だ。待つのが料理だ。……お前にいつか作ってやる。美味いぞ。灰の味がする」

「灰の味がするのは」

「それがいいんだ」


よく分からなかった。だが、師匠が「いつか作ってやる」と言ったことだけは、記憶に留めておくことにした。いつか、という言葉は、師匠の口からは珍しかった。



焚き火の火が、落ち着いた。


「ヴェラ。昨日の続きを」

「……ああ」


師匠は枝を一本、火に足した。火が少しだけ勢いを増して、また落ち着くのを待ってから、話し始めた。


「ノエルの護衛を辞めて、北へ渡った。北の戦場は、南とは質が違う。……国と国の戦じゃない。国境の小競り合いが、切れ目なく続いている。終わりがないんだ。終わりがないから、兵はみんな、終わりのことを考えないようになる」

「考えないと、どうなるのですか」

「強くなる。……だが、脆くなる。終わりを考えない人間は、自分の終わりも考えない。今日を生きるのに全力で、明日のことは、明日死んだ奴の分まで、誰かが引き受ける。そういう場所だ」


師匠は火を見たまま、続けた。


「二年ほど、そこで戦った。傭兵として、傭兵崩れとして、……名は、だんだんと知られていった。静謐の狂気という呼び名は、あの頃についた。気づいたらついていた。名乗った覚えはない」

「嫌でしたか、その呼び名は」

「……最初はな。だが、呼び名というのは便利なものでな。敵が怯える。味方が寄ってこない。……寄ってこないのは、助かった。私は、一人で動く方が向いていた」

「今も、ですか」

「今は、違う」


師匠はそこで一度、私を見た。すぐに火に目を戻したので、その意味を問うことはしなかった。


「拾ったのは、その二年後、ですか」

「ああ」


師匠は、器を置いた。置く音が、夜気の中で小さく響いた。


「冬の始まりの頃だった。小さな村の近くで、夜襲があった。傭兵同士の潰し合いだ。終わったあと、私は生き残りの確認に回った。……するべき仕事ではなかった。私の隊の仕事じゃなかった。だが、その夜は、なぜか足がそちらへ向いた」

「なぜか」

「なぜか、だ。今も理由は分からん。分からんが、向いた。向いて、よかったと思っている」


火が、パチリと鳴った。


「村の外れの、潰れた納屋の裏に、お前はいた。雪混じりの土の上に、小さく座っていた。……泣いてなかった。八つかそこらの子供が、血だらけの戦場の真ん中で、泣きもせずに、ただ座っていた」

「私が」

「ああ。銀の髪が、雪に紛れて、近づくまで分からなかった。分かったのは、目が合ったからだ。……闇の中で、お前の目だけが、こっちを見ていた」


私は、器の中の残りを見つめた。覚えていない。本当に、何も覚えていない。覚えていないことが、少しだけ、申し訳なかった。


「声をかけた。名前は、と聞いた。……答えなかった。答えられなかった、のかもしれん。その代わりと言ってはなんだが、お前は私の剣を見て、こう言った。『それで、人を斬ったの』と」

「……初めての言葉が、それですか」

「ああ。八歳の子供の初めての言葉としては、物騒すぎる。……だが私は、その時、変なことを思った。この子は、戦場の子だ、と。生まれた場所がどこであれ、その目は、もう戦場の目だった」


師匠は、一度だけ言葉を切った。火を見て、それから私を見た。


「連れて行くか、置いていくか。迷った。正直に言えば、迷うまでもなく置いていくべきだった。傭兵に子供は連れていけん。連れていけば、子供は死ぬ。……だが、その夜は寒かった。置いていけば、お前は朝まで持たなかった。……だから、朝までだけ連れていくことにした」

「朝まで、だけ」

「ああ。……朝になったら、考え直すつもりだった。そして朝になった。お前は起きていて、私が寝不足の顔をしているのを見て、こう言った。『寝ていればいいのに』と」

「……失礼な子供ですね」

「失礼だった。……だが、その一言で、私は思ってしまった。こいつは、置いていけん、と」


師匠は、小さく息を吐いた。笑いとも、ため息ともつかない息だった。


「名前がなかった。だから、つけた。レイラ、と」

「レイラ、という名は」

「北の言葉だ。古い言い方でな。……『夜明けを待つ者』という意味だ。夜しか知らない子供には、夜明けの名をつけたかった。……安易だったかもしれんが。あとは花の名前だな」


夜明けを待つ者。


その意味を、私は初めて聞いた。十年間、名前を名乗られて、呼ばれて、答えてきた。その名前に、意味があったことを、今まで知らなかった。


「……知りませんでした」

「言わなかったからな。言う機会も、なかった」

「なぜ、今」

「今である理由は、ない。……だが、教えなかったままでは、いずれ教えられなくなる。私は戦場の人間だ。いつ死んでもおかしくない。……おかしくない場所に、これからも戻る」


師匠は、火の向こうの闇を見た。闇の先には、北がある。師匠の帰る場所がある。


「南へ下る途中、例の野原に寄った。あそこで、お前に剣を教えるかどうか、決めた」

「墓標の前で」

「ああ。雨の中でな。……教えれば、お前は私と同じ道を歩む。戦場の道だ。それでいいのかと、墓標に聞いた。墓標は何も答えなかった。……答えない墓標に、剣が一本、突き立てられていた。誰かが置いていったんだろう」

「それを見て、決めたと」

「……剣は、人を殺すためのものだ。だが、あの剣は、誰かの墓を守っていた。剣にも、そういう使い道がある。……お前には、そういう剣を教えたいと思った。そう思ったのは、あの時が初めてだ」

「あの剣は、どうなったのですか。墓標に立てられていた、剣は」

「埋めた」

「埋めた?」

「ああ。持っていくには、意味が重すぎた。……だから埋めて、代わりの剣を一本、置いていった。……明日、お前に見せる。見せるというか、掘らせる。……掘るのは、お前だ」

「私が、掘るのですか」

「ああ。お前の剣だからな。……十年前の、あの日から、お前のものだ」


それが、剣を二本持ってこいという言葉の意味だったのだ。ようやく、繋がった。繋がった先のものの重さが、まだ掴めなかった。十年間、土の中にあった剣。……それを、明日、私が掘り出す。


火の番の順番の話になって、師匠はまた「年長者が先だ」と言った。昨日も同じことを言われた。今日は引かなかった。


「師匠。昨日作った決まりを、二日連続で使うのは、ずるいです」

「決まりは、続けることで決まりになる」

「では、明日は私が先です。決まりが決まったので」


師匠は、少しだけ目を見開いて、それから鼻で笑った。


「仕込んだな」

「教わりました」


毛布にくるまって横になっても、しばらく眠れなかった。


夜明けを待つ者。……師匠はあの夜、雪の中の子供に、夜明けの名をつけた。その子供は今、師匠の隣の焚き火で、眠ろうとしている。夜明けは、明日の朝にも来る。それは、当たり前のことのはずだった。当たり前のことが、あの夜の納屋の裏では、当たり前ではなかったのだ。


岩の向こうで、風が草を鳴らしていた。遠くで、夜鳥が一度だけ鳴いた。明日の昼には、墓標の野原に着く。埋まっている剣を、私が掘る。……掘るべきものを掘る、ということは、埋まっていた時間に、終わりを告げるということなのだろうか。それとも、続きを始めるということなのだろうか。


「ヴェラ」

「なんだ」

「……起きてますか」

「起きてる。火の番だ」

「……その名前を、つけてくれて、ありがとうございます」


師匠は、何も言わなかった。言わないまま、火に枝を足す音だけがした。


「寝ろ、レイラ」

「はい」


目を閉じた。閉じると、知らないはずの記憶が、少しだけ近くに感じられた。雪の匂い。闇の中の、剣の形。それが記憶なのか、今夜聞いた話から作られた想像なのかは、分からないまま……私は眠りに落ちていった。

ご拝読ありがとうございました。

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