第四話:迎える側の準備
これから土日は2話投稿になります。
ノエル・エステルは、朝から機嫌が悪かった。
理由は書斎の机の上にあった。便箋に書かれた文字は、『母上』の二文字だけ。その下は、白い。昨夜も白かった。おとといの夜も、たぶん白かった。インクの瓶だけが、毎晩少しずつ減っている。試し書きの捨て紙が、屑籠の中で丸まっていた。
「……駄目だ」
ノエルは羽根ペンを置いた。前置きが書けない。書くと数えられる。書かないと怒られる。だったら会ってから話せばいい、という考えもある。だが、うちの母親は「先に知らせなかった」という事実を、それ自体を一つの罪として数える人だった。手紙を出す。出さない。どちらも落ち度になる。そういう相手に対して、人はどうすればいいのか。
答えは、出ないまま、来客の日だけが近づいていた。扉を叩く音がした。
「ノエル様。トムです。客室の件で」
「入れ」
トムが入ってきて、手に持った紙を広げた。客室の備品の一覧だった。シーツの枚数、タオルの数、花瓶の有無。
「東の棟の客室、二部屋でいいですか。それとも、奥の間の方を」
「東でいい。奥の間は、母が嫌う。日当たりが良すぎると言ってな」
「……日当たりが、良すぎる」
「ああいう人だ。うちの母は」
トムは「はあ」と言って、一覧に書き込んだ。書き込みながら、
「花瓶は」
「要る。花は、白いのは避けろ。……白い花は弔いを連想するって、昔、隣領の夫人に嫌味を言われて以来だ」
「じゃあ、赤で」
「赤も駄目だ。派手だと言われる」
「…………何色なら」
「紫だ。紫だけは、何も言われない。理由は知らん」
トムは真剣な顔で「紫」と書き込んだ。この屋敷の使用人は皆、こういう時に真剣な顔をする。それがノエルには、少しだけ救いだった。
「あと、食事の献立なんですが。レイラさんがいないと、厨房の段取りが」
「俺が見る。……見る、と言っても、味見くらいしかできんが」
「それで十分です。……あの、ノエル様」
「なんだ」
「ご両親って、どんな方なんですか。皆、ちょっと、緊張してて」
ノエルは少し考えた。考えて、正直に言うことにした。
「父は、穏やかな人だ。庭の木の世話をしているのが一番楽しそうな人でな。当主だった頃も、書類より庭にいた。……怒ったところを、俺は一度しか見たことがない」
「一度しか」
「庭の松を、業者が勝手に切り落とした時だ。……その時の父は、怖かった。穏やかな人が怒ると、ああなるんだと思った」
「は、はあ。お母様は」
「母は」
ノエルは、言葉を探した。見つかった言葉は、あまり優しくなかった。
「母は、何でも覚えている人だ。十年前の宴の席次を覚えている。誰が何を着て、誰が何を言ったかも覚えている。……そして、それを全部、正しい時に思い出す」
「正しい時、とは」
「相手が一番困る時だ」
トムは、一覧を持つ手に少し力を込めた。
「……頑張ります」
「頑張るな。普通でいい。頑張ると、母はそれを見抜く」
「普通に頑張ります」
「それが一番難しいんだよ」
トムが出ていったあと、ノエルはもう一度便箋に向かった。『母上』の下に、『お元気ですか』と書き足した。書いて、ペンが止まった。この前置きは一行目に数えられるのか。数えられるだろう。うちの母は、挨拶も前置きに数える。……消すか。いや、消すと墨の跡が残る。残ると、消したこと自体を読まれる。
ノエルは頭を抱えた。
昼過ぎ、シュピが書斎の前をうろついていた。うろついているのをガルドに見つかって、書斎に突き出された。
「ノエル様。こいつが、様子を見に来たそうです」
「違うよ!様子なんて見てないよ!ただ、廊下を歩いてただけ!」
「三往復してました」
「それは、歩く練習!」
ガルドはシュピの襟を離して、無言で出ていった。取り残されたシュピは、入口の近くで立っていた。
「……なんだ、用か」
「用はないけど。……なんか、大変そうだなって」
「大変だ」
「お姉ちゃんがいないから?」
「それもある。……半分くらいは」
ノエルは椅子にもたれた。シュピは、部屋の中を見回してから、
「ねえ、ノエル様のお母さんって、怖いの?」
「怖い」
「どのくらい」
「……十歳の頃、庭の柿を盗み食いしたら、口の周りの証拠を見て、柿の木の位置、熟れ具合、その日の使用人の配置まで全部言い当てられた。……俺は謝った。謝ったら、『謝る前に拭きなさい』って言われた」
「え、それって結局、怒ってないんじゃ」
「怒ってないんだよ、あの人は。……怖いのは、怒らないのに全部お見通しなところだ」
シュピは「ふうん」と言って、それから、
「僕のこと、言うの?戸籍のやつ」
「……言う。言わなきゃならん。それが、書けないんだよ」
ノエルは机の上の便箋を見せた。『母上、お元気ですか』の七文字を見て、シュピは変な顔をした。
「これだけ?」
「これだけだ」
「三日かけて?」
「三日かけて、八文字だ。……どうだ、参ったか」
「参った」
素直に言われて、ノエルは少し笑った。笑ってから、
「お前から見て、どう書くのがいいと思う」
「僕に聞くの?」
「ああ。お前は当事者だ。意見を聞く権利がある」
シュピは便箋を覗き込んで、少し考えた。
「……『母上。子供ができました』って書くのは」
「意味が全然違うだろ」
「違う?」
「全然違う。……お前は黙ってろ」
「だって、僕が来たって話でしょ? 子供ができた、で合ってるじゃん」
「合ってない!全然合ってない!家督の話みたいになるだろ!」
「なるの?」
「ならない!……ならないが、なるような書き方はするな!」
シュピはくすくす笑っていた。ノエルは頭を抱えたまま、しかし、さっきよりは少しだけ顔が柔らかくなっていた。
夕方、屋敷は少しずつ迎え入れの形になっていった。
東の棟の客室に、紫の花が活けられた。廊下の蠟燭が新しいものに換えられた。厨房では、トムが試作の菓子を焼いていて、焦がした。焦がした菓子は、使用人たちの腹に入った。ガルドは塀の補修を終えて、最後の仕上げに門の金具を磨いていた。
ノエルは書庫で、戸籍の写しを確認していた。シュピの名前が、エステル領の戸籍に、小さな字で一行。……この一行を、母はどう読むだろうか。数えるだろうか。前置きの行数のように、この一行の重さを、図るだろうか。
図られるのなら、それでもいい、とノエルは思った。この一行は、間違っていない。間違っていないものは、どう読まれても構わない。……構わないはずなのに、手紙は書けない。人間とは、そういうものだった。
夜、ノエルは再び書斎に座った。便箋に向かうこと、小一時間。書けたのは、こうだった。
『母上、お元気ですか。先日は襲撃の件でご心配をおかけしました。屋敷は無事です。
実は、屋敷に子供が一人おりまして』
そこまで書いて、ノエルはペンを止めた。
「……子供が一人おりまして、って」
独り言が、書斎に響いた。響いて、消えた。
「……合ってる、よな。子供が、一人、いる。実際、いるんだから」
合っている。合っているはずだ。なぜか、とてつもなく不審な文に読めた。昼間のシュピの言葉が頭をよぎる。『子供ができました』。……違う。違うんだ。これは、そういう話では、ない。
ノエルは、その紙をそっと丸めて、屑籠に入れた。四枚目だった。
「会ってからでいい。会って、口で言う。口で言えば、行数は数えられない」
それが、今夜の結論だった。逃げではない。戦略的撤退だ。ノエルはそう自分に言い聞かせて、蝋燭を消した。窓の外では、西の空の最後の明かりが消えていくところだった。あの方角のどこかを、今頃、シエルと姉貴が馬で進んでいる。……迎えの準備を整えているのは、こっちの方が大変かもしれないな、とノエルは思った。思って、一人で笑った。
ご拝読ありがとうございました。このあと21時にも投稿されます。




