第三話:街道と焚き火
今回は少し短めです。
旅の一日目は、よく晴れた。
街道は西へ向かって緩やかに登り、登りきると畑が広がり、畑を抜けるとまた次の丘が見えた。その繰り返しだった。麦の穂が風で一方向に倒れて、すぐに戻る。戻りきる前に、また倒れる。あれを見ていると、畑全体が呼吸をしているように見える。そんなことを考えながら馬を進めていると、前の師匠が振り向きもせずに言った。
「レイラ。馬が歩調を乱してる」
「失礼しました」
「何を見てた」
「麦を」
「……麦か」
師匠はそれきり何も言わなかった。咎められなかったので、私はまた麦を見た。見ていても、咎められない。そういう時間が、この旅にはあるらしい。
昼は、街道沿いの水場で取った。
乾燥パンに、蜂蜜を塗った。トムの入れた小瓶が、ここで早速役に立った。師匠は自分のパンには塗らず、私のを横目で見ていた。
「一口くれ」
「どうぞ」
「……甘いな」
「蜂蜜ですから」
「そういう意味じゃない。……いや、そういう意味か」
師匠は自分のパンにも蜂蜜を塗っていた。戦場の人間は甘いものを嫌う、という話をどこかで聞いたことがあったが、師匠には当てはまらないらしかった。当てはまらないことを確認できて、少しだけ得をした気分になった。
午後、街道は人家の間隔が広がった。
通りかかった村で、井戸の水を分けてもらう。井戸端の老婆が、私の髪を見て目を見開いた。
「お嬢さん、その髪は……」
「染めております」
「染めた、のかい」
「はい。失敗しました」
「……そうかい。まあ、若いうちは何しても様になるもんだよ」
老婆は納得したのかしていないのか、曖昧に笑って水を汲んでくれた。馬に戻ると、師匠が口元を押さえていた。
「失敗、か」
「咄嗟でした」
「悪くない嘘だ。……次からは、それで通せ」
「通すものなのですか」
「通らない土地では、通るまで言え」
それが師匠の教えだった。正しいのかどうかは、まだ分からない。
日が傾き始めた頃、街道を外れて野営地を探した。
小川のほとりの、風の当たらない窪地。師匠が火を起こし、私は馬の世話と夕食の支度をする。乾燥パンを湯でふやかし、干し肉と干し野菜を刻んで入れた。鍋がぐつぐつと鳴り始める頃には、空は群青色に沈んでいた。
焚き火の火が、落ち着いた。粥ではなく雑炊のようなそれを、二人で分けて食べる。師匠は無言で食べ、私も無言で食べた。戦場では食事中に話すなと教わった。敵は食事の時間を狙う。だが今夜の周囲には、虫の音と、小川のせせらぎしかない。
「師匠。一つ、聞いていいですか」
「聞くかどうかは、内容による」
「師匠は、どうしてエステル家の護衛になったのですか」
師匠は、火に枝を一本足してから答えた。
「それは旅の夜に話す話か」
「はい。旅の夜に話す話だと思います」
「……強気になったな」
師匠は小さく鼻を鳴らして、それから、少しの間、火を見ていた。
「二十歳の頃だ。私は傭兵崩れだった。行く宛てがなくて南へ下りてきて、街道で盗賊に襲われている馬車に出くわした。……斬った。それだけだ」
「それだけ、ですか」
「それだけだ。馬車に乗っていたのが、エステルの先代夫人だった。ノエルの祖母にあたる。……強い女だったよ。盗賊が五人いたんだが、そいつ、馬車の中から杖で一人殴っていた」
「杖で」
「ああ。私が着いた頃には、もう一人仕留めていた。……礼に来いと言われて屋敷へ行ったら、そのまま食客にされた。気づいたら護衛になっていた。剣しか能のない人間は、剣の使い道を与えられると、そこに留まる。簡単な話だ」
鍋の湯気が、夜気の中で白く立っていた。
「ノエル様の護衛は、その頃からですか」
「ノエルが生まれて、すぐだ」
師匠は器を手に取って、一口飲んだ。
「最初の仕事は、湯殿の見張りだった。赤ん坊に剣は要らんだろうと思ったが、先代は違った。『この子には、何かがつきまとう。それが分かる者に守らせたい』……そう言われた」
「何か、とは」
「分からん。分からんが、先代の言うことはだいたい当たった。ノエルは幼い頃から、妙な目に遭う子だった。攫われかけたことが二度ある。屋敷の中でだ」
私は器を持つ手を止めた。ノエル様の幼少期の、誘拐未遂。聞いたことがなかった。
「二度とも、止めた。一度目は、あいつがまだ言葉も喋れない頃。二度目は、五つか六つの頃だった。そのときのノエルは、私の外套の裾を掴んで、泣きもしなかった。ただ、掴んでいた」
火が、パチリと鳴った。
「……攫おうとしたのは、誰だったのですか」
「使用人に紛れ込んだ者だ。二度とも、違う人手だった。口を割らせる前に死んだ。……毒を仕込まれていた」
「組織、ですか」
「分からん。当時は、そういう言葉を知らなかった。今となっては、似ている手口だと思う。……思うだけだ」
師匠は器を置いて、火の向こうの闇を見た。
「それから数年、私はノエルの影だった。剣の稽古相手もした。……あいつは剣の才がなかった。才能がないというより、剣に向いていない。考えすぎるんだ。剣は、考える前に動くものだ」
「ノエル様は、今でも考えすぎです」
「ああ。あれは治らん。……だが、剣で勝てない分、口で立つようになった。領主会議で年寄りどもを言い負かすようになったのは、あの頃の賜物だろう。半分は、私の責任だ」
「責任、ですか」
「稽古で散々打ち負かしたからな。……恨んでるかもしれん」
そうは見えません、とは言わなかった。言うまでもないことだったからだ。
「護衛を辞めたのは、ノエルが十五の頃だ。当主に就いた年だ」
「なぜ、ですか」
「先代が倒れて、ノエルが継いだ。初めての領主会議から帰ってきた夜、あいつは書庫で吐いていた。吐いて、手を洗って、それから書類に戻った。……それを扉の隙間から見て、私は思った。もういい、と」
「もう、いい」
「護衛の仕事はな、いずれ要らなくなるのが正しい終わり方なんだ。守り手が永遠に必要とされるということは、その者が永遠に一人で立てないということだ。……あいつは立った。立たされた、というのが正しいが、どちらにせよ、私の剣の届く範囲の外に行った」
師匠は、火の中の枝を一本、火箸でつついて位置を変えた。火の色が、少しだけ明るくなった。
「それに、私は戦場の人間だ。屋敷の中の護衛は、守りながら少しずつ錆びていく。錆びた剣は、守れない。……そう思った。それが本当の理由だ」
「それで、北へ」
「ああ。北は、いつでも剣を求めていた。向こうの戦は質が違う。……質が、な」
師匠はそこで一度、言葉を切った。続きがあるようで、なかった。
「拾った話は、また明日だ」
「……分かりました」
「分かったら寝ろ。火の番は、先に私がやる」
「いえ、今日は私が」
「旅の初日の火の番は、年長者がやる。戦場の決まりだ」
「その決まりは、聞いたことがありません」
「今、作った」
言い返せなかった。毛布を肩にかけて、焚き火のそばに横になった。土の匂いと、煙の匂いと、遠い草の匂いが混ざっていた。
目を閉じる前に、火の向こうの師匠を見た。師匠は剣を膝の上に置いて、火を見ていた。その横顔は、屋敷で見るよりも、どこか昔の場所にいるように見えた。
攫われかけた幼子の裾を掴まれた護衛。吐きながら書類に戻った十五歳の当主。……私が知らないものが、師匠の中には何年分も積み重なっている。その上に立って、今の師匠は火を見ている。
「ヴェラ」
「なんだ」
「ノエル様を二度、助けてくださって、ありがとうございます」
師匠は、少しだけ驚いたようにこちらを見た。それから、
「……寝ろ」
火が、小さく爆ぜた。
私は目を閉じた。閉じる直前に見た夜空には、屋敷で見るより近い位置に、星が散りばめられていた。明日は、この道のさらに先。明後日は、墓標の野原。……拾った話は、明日の夜だ。待ち遠しいような、少しだけ怖いような、妙な気持ちのまま、私は眠りに落ちていった。
ご拝読ありがとうございました。




