第二話:旅の誘い
翌朝の稽古で、私は二度、同じ場所を突かれた。一度目は左の脇。二度目も左の脇だった。剣を止められた位置まで同じだったので、三度目は脇に剣を置いて流れを変える。そうすると今度は逆の脇を突かれた。
「どうだ。血は、戻ってきてるか」
「七分ほど、です」
「そうか。もう一回」
四度目は、さらに流れが変わった。左の脇への攻撃を受け流し、師匠はまた同じように右脇へ剣を振りかざす。そうなることを学んだ私は、体を回転させ、剣を弾き、師匠の体目掛けて剣をやる。
一本取ったと感じた。刹那、私は地面に組み倒されていた。
「まあ、そんなもんだ」
「もう一回お願いします」
「今日はもうやめだ。それに、何度やっても同じことだしな」
「ではまた日を改めてお願いします」
師匠は剣を置いて、庭の端の井戸へ歩いた。水を汲んで顔を洗う。途中で柄杓を取り落として、舌打ちして、拾い直した。そして私が剣を納め終えるのを待って、彼女は言った。
「レイラ。明後日、旅に出る。お前も来い」
「……え?」
「西の国境寄りに、野原がある。六日あれば往復できる」
「敵の動きですか」
「違う」
「では、偵察ですか。物資の調達、人の探索」
「違う、違う。行けば分かる」
「行けば分かる、では、準備の目処が立ちません。荷の量も、天候への備えも」
「とりあえず飯だ。腹が減った」
ヴェラは水滴の垂れる顔のまま、屋敷の方へ歩き出した。減っているのは本当だろう。だが、あの歩き方は、逃げている人の歩き方だった。
朝食の席で、ヴェラは粥を三杯おかわりしていた。旅の話は出なかった。私からも出さなかった。出すと、また逃げられる。代わりに、ノエル様とトムが市の話をしていた。
「出店は今のところ四十軒だ。肉と魚が多すぎるから、ミルカに間を詰めさせよう」
「違いますよ、ノエル様。ミルカは魚屋です。肉はゴータです」
「そうだったか。いや待てよ、ゴータは去年、畑に戻ったんじゃ」
「戻ったのはゴータの弟です」
「弟がいたのか」
「五人兄弟です。上から、ゴータ、ゴータの弟、あとは女ばっかりで」
「下の弟は、名がないのか」
「あるんですけど、皆、ゴータの弟って呼ぶんで。本人もそう名乗ってます」
「……商売的には、間違ってないのかもしれんな」
「ノエル様だって、エステル様って呼ばれてますし」
「それは家の名だ」
「似たようなもんですって」
ノエル様は粥を飲むふりをして、返事をしなかった。 その間に、ヴェラは四杯目を食べていた。シュピが、それをじっと見ている。
「師匠、すごい食べるね」
「戦場では、喰える時に喰う。……それと、師匠って呼ぶな」
「じゃあ、なんて呼べばいいの」
「……ヴェラ、でいい」
「ヴェラ。おかわり、五杯目?」
「……四杯目だ」
「もう五杯目いく?」
「いかん。……いかん、とは言ってない。見てから決める」
「お姉ちゃんも、前はそう言ってたよ。『食事は任務です』って」
「今も、そうです」
「昨日、おかわりしてなかったじゃん」
言い返せなかった。トムが鍋の方を向いて笑っているのが見えたので、私は粥の碗を持って席を立った。口実が欲しかっただけだったのだが、トムが実際に二杯目をよそってしまった。仕方なく食べた。食べきってから、少し後悔した。
午前の見回りのあと、支度の相談に厨房へ行くと、トムが保存食の袋を前に腕を組んでいた。
「レイラさん、旅の食い物、どうしましょう」
「乾燥パンと干し肉、塩。水袋で足ります」
「味気なくないですか」
「味気は、要りません」
「要りますって。五日も野営するんですよ。……ほら、蜂蜜、小瓶があります。パンに塗れば、気分が違います」
「蜂蜜は、重いです」
「瓶、これくらいです」
トムは指で小ささを示した。確かに小さかった。だが、小さいことは、持っていく理由にならない。
「甘いもんが切れると、機嫌が悪くなる人っているんですよ、世の中には」
「ヴェラは、そういう人ではありません」
「レイラさんがそうかもしれないじゃないですか」
「私は違います」
「まだ切れたことないだけかも。……よっと」
トムは勝手に瓶を袋へ入れた。入れられたものを出すのも面倒で、そのままになった。
「あと、これ」
布に包まれた、ずっしりした塊を差し出された。
「何ですか」
「パンっす。……いや、今日のはちゃんと焼けてます。焼けてるやつです」
「分かりました」
「石は、別にあります」
「石は要りません」
「記念に」
「要りません」
「そうですか……」
トムは石の包みを、惜しそうに引っ込めた。あとで分かったのだが、引っ込めたのではなく、袋の底にこっそり入れ直していたらしい。気づいたのは、出立のあとだった。
書斎で、ノエル様に報告した。報告というより相談で、相談というより……なんだったのかは、今も分からない。
「旅?」
出店のリストが記載された書類から顔を上げた。
「はい。明後日、出るそうです。行き先は、西の国境寄りの、野原だと」
「西の国境。……なんだ、そこ」
「存じません。行けば分かる、とだけ」
「はは。あの人らしいや」
羽根ペンを置いて、頭を掻いた。
「止めはしないよ。ただ、タイミングがな。多分もうすぐ親が来る。お前には同席してもらいたい。それは変わらない。往復六日なら、計算では間に合うけど」
「計算、では」
「計算通りに旅は進まないんだよ。……それとな」
机の隅の書類を指で弾いた。二度弾いて、三度目は弾かなかった。
「両親に、シュピのこと、まだ手紙で書いてないんだ。襲撃のことは書いた。戸籍の話は、書けてない」
「先に、知らせた方がいいのでは」
「分かってる。分かってるんだけど、書き出しが決まらなくてさ。『実は』で始めると白状っぽいし、『ご報告』だと役所の文だし」
「『母上、お元気ですか』では」
「それ、誰の手紙だよ」
「息子の手紙、では」
「……そりゃそうか」
ノエル様は椅子にもたれて、天井を見た。
「うちの母親はな、前置きの行数を数える人なんだよ。前置きが長いほど、本題が重いと読む。だから前置きが書けない。書くと、数えられる」
「それは手紙というより」
「暗号だよ。うちの実家は、そういう家だ」
そこで急に、別の話になった。
「昔、庭の柿を勝手に取って喰ったことがあってさ。黙ってれば分からないはずだったのに」
「見つかったのですか」
「口の周りに、証拠がついてた」
「それは隠し事のうちに」
「入らない。……いや、入るか。入るな、今のは」
ノエル様は自分で訂正して、自分で笑った。
「それ以来、あの人の前じゃ隠し事はしないって決めてたんだけどね。今回、破ってしまった。……破ると、口の周りじゃ済まないんだよ、あの人は」
柿から戸籍までの道筋を、私は組み立てられなかった。組み立てられないまま頷くと、ノエル様も頷き返してきて、話はそこで一段落したことになった。
「で、旅だ。シエル、お前は行きたいのか?」
問いが、真正面から来た。屋敷の警備。市の準備。シュピのこと。考えられるものを、順番に、並べて。
「行きたい、です。今は確かにそう思っています」
「だろうな」
「……分かるのですか」
「お前、行きたい時、やけに丁寧になるんだよ。『報告』じゃなくて『相談』しに来た時点で、もう決まってる」
「違います。判断は、ノエル様に従います」
「じゃあ、行かない方がいいって言ったら?」
「従います」
「嘘だな」
「……従う、ふりをします」
「正直すぎる。まあ行ってこい。六日過ぎたら俺が親に土下座する。慣れてるから」
「土下座に慣れている当主はどうかと」
「それは強い当主だよ。ほら、もういい。書類が止まってる」
書斎を出る時、振り返ると、白紙の便箋に『母上』とだけ書いてあった。私が扉を閉めるまで、その先は進まなかった。
午後、師匠を探した。東の棟の廊下で、ガルドと塀の図面を広げていた。ガルドが図面を畳んで離れていった。畳む向きが逆で、師匠に「そっちが上だ」と言われていた。
「ヴェラ。行き先を、聞かせてください」
「……今更か」
「行けば分かる、ではなく」
柱に背を預けて、しばらく黙っていた。
「西の国境の、丘陵だ。古い戦場跡で、今は、ただの野原だ。墓標が並んでる」
「墓標」
「十一年前の戦で、千人近く死んだ。埋めたのは、生き残りだ。名前の分からない兵には、木の標を立てた。……それきり、行っていない」
「なぜ、今、ですか」
「今である理由は、ない。ないまま十年、置いてきた。置きすぎた。……そういう日が、たまに来る」
「そういう日、とは」
「そういう日だ。名前がないんだよ、そういう日には」
師匠は窓の外を見た。西の方の、曇り空だった。
「そこは、お前を拾った場所でもある。野原の端の、雨の中に、お前は座ってた」
「覚えていません」
「だろうな。なら、見ておけ」
「見て、どうするのですか」
「知らん。知らんが、連れて行きたいと思った。思ったのは、つい最近だ。街道で、馬に雪を踏まれた日に」
「馬に」
「関係ないか」
関係なくはない気がしたが、聞くのはやめた。師匠の話には、時々、そういう留まり木がある。近づかない方がいい。
「荷は少なめでいい。剣は、二本」
「二本、ですか」
「一本は、お前に渡す。墓標の脇に、埋めてある」
「剣を、埋めて」
「ああ」
「なぜ、ですか」
「その時は、埋めるしかなかった。……持って帰ると、泣かれるからな」
「誰に」
「馬に」
「馬が、泣くのですか」
「泣くように、見えた」
本当かどうかは、分からなかった。それ以上は、尋ねなかった。
夕方、シュピは、もう知っていた。
「お姉ちゃん、旅に出るんだって?」
自室の扉を開けると、ベッドの端に座って、足をぶらぶらさせていた。
「はい。六日ほどで戻ります」
「師匠と、二人で?」
「はい」
「ふうん。西って、何があるの?」
「野原と、墓標だそうです」
「墓標。……お墓か。お墓って、暗い感じだけど。行って、楽しい?」
「分かりません。たぶん、楽しくはないと思います」
「じゃあ、何しに行くの」
「分かりません」
「お姉ちゃん、分かんないこと多いね」
「ええ。今日は、特に多いです」
シュピは足を止めて、それから話題を変えた。
「今日のパン、焦がしちゃった。トムが、お姉ちゃんには内緒って」
「焦がしたのは、いつものことでは」
「今日のは、ひどいよ。石」
「石」
「石。……あれ? でもトム、さっき、石は別にあるって」
「別に、あるのですか」
「あるらしい。何に使うんだろ」
「分かりません」
石の行方について、少し考えた。答えは出なかった。その間、シュピの足はまた動いていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「はい」
「師匠と行くの、楽しみ?」
「……楽しみ、です」
「ふうん」
シュピは頷いて、それきり、その話はしなかった。言い足すべきことを考えたが、見つからないまま時間が過ぎた。
「これ、持ってって」
ベッドから降りて、机の上の鳥の木片を取った。
「まだ、羽しかできていませんが」
「いいの。前も、持ってったら帰ってきたでしょ」
「はい」
「じゃあ、同じ」
「同じ、ですね」
「うん」
木片を私の手に乗せて、それから急に部屋を出ていった。出ていく背中は、いつも通りの速さだった。
出立の朝は、よく晴れた。門の前に馬が二頭。荷は少なめ、剣は二本。背負い袋の底には、知らないうちに入っていた石と、知っていた蜂蜜の小瓶と、羽しかできていない鳥の木片が入っていた。
「六日だからな。過ぎたら、迎えを出すから」
「迎えは要りません」
「要るかどうかは、こっちが決める。……姉貴。レイラを頼むよ」
「ああ」
師匠は馬に跨って、ノエル様を見下ろした。
「お前。手紙、書いたか」
「聞くなよ、そこを」
「書いてないな」
「書く。今夜書く」
「一昨夜も、そう言ってた」
「一昨夜、お前は北にいただろ」
「北にも聞こえる」
師匠は手綱を引いた。ノエル様が、呆れた顔で空を見ている。十年前にも同じようなやり取りがあったらしい。何の手紙だったのかは、二人とも教えてくれなかった。
「お姉ちゃん!」
シュピが門の陰から駆け出してきた。
「いってらっしゃい!」
「はい。行って参ります」
「土産ね! 変なのじゃなくて、ちゃんとしたやつ!」
「変なのとは」
「石とか! 剣とか!」
剣、と言われて師匠を見ると、師匠は空を見ていた。石、と言われて背負い袋を気にした。石は、袋の中にあった。言えば取り出せた。言わなかった。袋が、少しだけ重かった。
門を出て、街道に馬を進める。振り返ると、シュピが門の上で大きく手を振っていて、ノエル様は片手を上げていて、トムは両手を振っていた。
私も手を振り返した。肘が妙な角度に出て、見苦しい振り方になった。それでも、振った。
「楽しみか」
師匠が、前を見たまま言った。
「はい」
「なら、いい」
街道は西へ向かって、ゆるやかに登っていた。登りきった先は畑で、その先は、まだ見えなかった。
昼前の最初の休息で袋を開けると、石のパンが出てきた。師匠は何も聞かず、半分よこせと言った。齧ると、歯が立った。立つのが、やっとだった。
「石だな」
「はい」
「悪くない」
師匠はそう言って、もう一口、齧っていた。
ご拝読ありがとうございました。




