第一話:戦いの後の朝
翌朝、私はいつもの時間に目を覚ました。藍色の空。窓の外の、誰もいない庭。目覚めの瞬間に何もかもが昨日までと同じで、私は一瞬、あの夜が夢だったのではないかと思った。
鏡の前で身支度を始めた時、左手の指先に白い布が巻かれているのが目に入った。昨夜、戦いが終わったあとで、トムが「これでも貼っといてください」と言って持ってきたものだ。何度も小刀で切った指先は、包むほどの傷ではなかったが、トムは「傷は傷です」と譲らなかった。
布を巻き直しながら、体の内側を確かめる。血の重さは、まだ戻っていない。空っぽの井戸に、底からゆっくり水が湧き始めているような感覚があった。満ちるには、あと数日はかかる。無理に汲めば、体が壊れる。そのくらいの加減は、長い戦場生活で身についていた。
着替えて部屋を出ると、廊下の空気が、いつもと違う匂いを含んでいた。焦げた木。濡れた土。かすかに残る血。換気をしても、一夜では落ちない匂いだった。
庭に出ると、昨夜の跡が朝日の中に広がっていた。砕けた剣の欠片。掘り返された泥。燃えかけの荷馬車の骨組み。使用人たちが、まだ眠そうな顔のまま、箒と荷車でそれらを片づけている。誰かが、砕けた剣の柄を拾い上げて、しばらく見つめていた。あれは、敵の剣だったか、こちらの剣だったか。拾った本人にも、分からなかっただろう。
門の近くでは、ガルドが怪我をした兵たちの容態を確認していた。脇腹を裂かれた兵は、自分の足で歩けるようになっている。骨折の方は、まだ松葉杖をついている。二人とも、昨夜の顔色よりは、ずっと良かった。
「レイラさん」
ガルドが、私に気づいて顔を上げた。
「おはようございます。兵の様子は」
「二人とも、命に別状はありません。……それより、あなたこそ」
ガルドは、私の顔を、仕事のものを見る目で見た。
「血の使いすぎってやつは、平気なんですか」
「平気です。食事と睡眠で戻りますので」
「そうですか。ならいい」
それ以上は、聞かなかった。戦場を知っている人間は、聞かないことの優しさを知っている。
「それと」
去り際に、ガルドが付け足した。
「門の兵が、今朝になって震え出しましてね。夜のうちは気張ってたんでしょう。あなたが門の前に立ってるのを見て、皆、やれると思ったそうです。ああいうのは、あとで効く。……頭に置いといてください」
私は頷いた。頷いたが、返す言葉は持っていなかった。私が立っていたのは、見せるためではなかった。だが、見た者が何かを受け取ったのなら、それはそれで、意味のあることなのだろう。
広間を覗くと、孤児院の子供たちが起き始めていた。
並べられた寝具の間を、ミラが歩いていた。一番小さい子の襟を直し、寝ぐせのひどい子の髪を指で梳いている。私の姿に気づくと、小走りで近づいてきた。
「メイドの、お姉さん。おはようございます」
「おはようございます。よく眠れましたか」
「はい。……あの、皆、怖がってたんですけど、シュピくんが火を灯してくれて。あの火、あったかいんです。魔法の火って、ああいうふうに見えるんですね」
「……そうですか」
「あとで、お礼を言いたいんですけど。……シュピくんは、どこですか」
「まだ眠っていると思います。……昨夜は、ずっと灯していたので」
「あ」
ミラは、小さく息を呑んで、それから声を落とした。
「……じゃあ、起きるまで待ちます。起こしたり、しません」
年下の子たちの世話を焼くこの少女は、年上の子の眠りまで、同じように大事にするらしかった。
厨房に入ると、トムが頭に白い布を巻いたまま、かまどの前に立っていた。
「レイラさん、おはようございます」
「おはようございます。頭は」
「ひどい瘤ですけど、割れてないんで。……それより、ほら」
トムは鍋を指した。粥が、いい匂いで煮えていた。いつもの朝の粥だった。いつもの匂いが、今朝は少しだけ、ありがたかった。
「傷病の兵士さんたちには、柔らかいパンを焼き直しました。あと、孤児院の子供たちの分も、人数分、あります。……昨夜のうちに、仕込んどいたんです」
「……あなたは、頭を打たれていたはずでは」
「打たれてる最中に、ああ、明日の朝のパンが、って思ったんですよ。変ですかね」
「変ではありません。……あなたらしいと、思います」
「それは、光栄です」
トムは、布を巻いた頭で、にやりと笑った。
朝食の席には、ノエル様と、起きてきたばかりのシュピと、孤児院の院長がいた。
「シエル。よく眠れたか」
「はい。ノエル様こそ」
「俺は、まあ」
ノエル様は、目の下の隈を隠すでもなく、粥に口をつけた。隈はいつもより深かった。昨夜、あの人は、広間の扉の前に立っていた。剣を持たない人が、一番薄い壁の内側に立っていた。
シュピは、眠そうに粥をすすっていた。手のひらには、小さな火傷の痕があった。長く灯し続けた火の、名残だった。私が気づくと、彼は手を隠すように引っ込めた。
「隠さなくていいです」
「……だって、お姉ちゃん、心配するでしょ」
「心配はします。ですが、隠される方が、もっと心配です」
「うん。ごめん」
シュピは手を出して、私はその痕に触れた。血の治癒は、今の私には贅沢すぎる。代わりに、軟膏を塗ってやることにした。それでも、痕は数日で消える。
「ところで、今日、一つ報告がある」
粥を半分ほど平らげたところで、ノエル様が言った。
「俺の両親が来る」
「両親、ですか。この間の手紙では一旦待機と指示を出されていましたよね?」
「ああ。一週間後くらいに。例の襲撃のこと、領内で聞いて心配したらしい。様子を見に来る、と」
シュピが、パンをかじる手を止めた。
「ノエル様の、お父さんと、お母さん?」
「そうだ。シュピも、会うことになる。戸籍の話も、せっかくだから、その場でしようと思う」
「戸籍の」
「うん。正式な手続きには、親世代の証人も要るからな。ちょうどいい」
シュピは、パンを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「緊張、する」
「だろうな。俺も、多少は」
「ノエル様も、緊張するの?」
「する。うちの母親は、なかなかに手強い。父親は優しいんだが、優しい分だけ、母親に全部持っていかれる。……当主として迎える息子を、あの二人がどう見るか。考えると、少し胃が痛い」
その言い方に、院長が静かに笑った。
「まあ。エステル卿にも、そういう顔があるのですね」
「院長の前では、繕いませんよ。子供の扱いの手前味噌で、こちらの裸が見えますから」
席が、少し和んだ。シュピも、小さく笑っていた。
「シエル。お前も、同席してくれ。両親は、お前の噂を、知ってる」
「噂、ですか」
「銀髪のメイド、だ。領内じゃ、もう知らない者はいない。両親が耳にしてないはずがない」
「……はい」
「変に構える必要はない。ただ、普通にしててくれれば、それでいい」
普通に、という言葉の意味を、私はまだ完全には分かっていない。分かっていないが、ノエル様の言う「普通」は、たいてい、私が思っているより簡単なことだった。
「あと、これは業務連絡だが」
ノエル様は、粥の器を置いた。
「両親の来訪に合わせて、街の方も、少し華やかにする。襲撃のあとで、みんな疲れてるからな。……市場に、小さな市を立てさせる。出店を集めて、三日ほど。警備の方は俺が詰める」
「市、ですか」
「ああ。……戦いのあとは、腹を満たすのが、一番の薬だ」
それは、ノエル様なりの、領への気遣いだった。街の人々は、昨夜、家に閉じこもって、鐘の音を聞いていた。怖い夜を越えた人たちに、明るい昼を用意する。そういう治し方を、この人は知っていた。
朝食が終わる頃、東の棟の廊下から、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。
ヴェラだった。寝巻の上に外套を羽織っただけの姿で、食堂に入ってきた。髪には寝ぐせがついている。戦場の人間に見えない、朝の顔だった。
「飯の匂いがした」
「姉貴、起きてたのか。座れ。トム、もう一杯」
ヴェラは、シュピの隣に座った。シュピは少しだけ緊張した顔で、粥をすすった。
「お前、シュピだったな」
「う、うん」
「昨日、火を灯してたそうだな」
「……うん。誰に、聞いたの?」
「廊下で、使用人が話してた」
ヴェラは粥に一口つけて、それから、シュピの顔を見た。
「悪くない」
「……え」
「火を灯す役目。悪くない」
それだけ言って、ヴェラは粥に戻った。シュピは戸惑ったように私を見た。私は、微かに頷いた。シュピの顔が、少しだけ綻んだ。院長が、ヴェラを、見覚えのある目で見ていた。
「あなたは……もしかして、以前、この屋敷に」
「随分と前に、世話になった。……覚えていてくれたか」
「ええ。小さなノエル様を、剣の稽古で泣かせていらした方、でしょう」
「泣かせてはいない。泣いたのは、向こうの勝手だ」
ノエル様が、咳払いをした。
「院長。……その手の話は、後でゆっくり」
「あら。楽しみにしております」
その朝は、久しぶりに、食堂の空気が柔らかかった。戦いの翌日の朝に、こういう空気がありうることを、私は知らなかった。
朝食のあと、私はヴェラと庭に出た。戦いの跡は昨日より片づいていたが、庭の中央の泥だけは、まだ黒く荒れたままだった。あの男が倒れた場所は、特に深く掘れている。私の槍が、地面を貫いた跡だった。
「ここで、戦ったのか」
ヴェラが、庭の中央を見て言った。
「はい」
「血は使ったか?」
「使いました。許容量は自分なりに見えているので、体調などには問題ありません」
ヴェラは、それを聞いて、少しの間、黙っていた。それから、泥の跡の縁を、靴の先で軽くなぞった。
「力が抜けてるな」
「え?」
「お前の身体。昔は、もっと張り詰めてた。今は、抜けてる。それが、力を全部使えるということだ」
「そう、なのですか」
「張り詰めた身体は、力を溜め込む。抜けた身体は、力を通す。お前は、通す方を覚えた。それは、剣より先に覚えることだ」
ヴェラの言葉は、いつもそうだった。説明ではなく、確認。答えではなく、気づき。
「あの男は」
ヴェラが、泥の跡から目を上げた。
「どんな、やつだった」
「……強かったです。一度目は、互角でした。二度目は」
「二度目は」
「力を御すことなく、惜しみなく使い、倒すことができました」
「そうか」
ヴェラは、短く頷いた。それだけだった。追い打ちの言葉も、労いの言葉も、なかった。だが、あの人の「そうか」には、いつも、行間があった。それは悪くないものに感じられた。
「師匠」
「なんだ」
「ありがとうございます。来て、くださって」
ヴェラは、私の顔を見ずに、庭の先を見たまま答えた。
「来るのが、遅れた」
「いえ。間に合いました」
「間に合ってない。お前たちだけで、終わらせていた」
「それでも、来てくださった。それが、今の私には、大事です」
ヴェラは、何も言わなかった。言わなかったが、その肩の力が少しだけ抜けたのを、私は見た。
「それと」
私は、思い切って、尋ねた。
「……この先、北へは、戻られるのですか」
ヴェラは、しばらく、空を見ていた。朝の雲が、ゆっくりと南へ流れている。
「……指揮官には、戻ると言った」
「では」
「ただし、期日は、約束してない。……約束できない約束は、私はしない」
それは、答えているようで、答えていない言葉だった。だが、今の私には、それで十分だった。自分でも少し意外だった。昔の私なら、白黒のつかない答えを、不安に思っただろう。今は、その灰色の中に、あの人の正直さを見ることができた。
午後、孤児院の子供たちが、院長と共に帰っていった。門の前で、ミラがシュピに何か耳打ちをしていた。シュピが少しだけ赤くなって、頷いていた。何を言われたのか、私は聞かなかった。聞かなくていいことも、ある。
馬車が動き出すと、一番小さい子が、窓から身を乗り出して手を振った。シュピも、振り返していた。手を振る、という動作を、あの子はこの屋敷で覚えたのだと思うと、胸の奥が、少し温かくなった。
ふと窓の外に目をやると、庭の向こうでヴェラとガルドが何か話していた。たぶん、警備のことだろう。あの人は、来て一日で、もう屋敷のことを気にかけている。ガルドの指が、塀の修繕箇所を指し、師匠の目が、見張りの位置を示す。
気にかける、ということが、どういうことか。私は最近、少しずつ分かるようになってきた。それは、剣を持つこととは違う。剣を持たない人が、剣を持つ人のことを考えることだ。そして、剣を持つ人が、剣を持たない人のために、剣を置いて座ることでもある。
夜、私は手帳を開かなかった。開かないまま、床に就いた。今日のことを、頭の中に、順番に置いていく。トムの粥の匂い。ガルドの「あとで効く」。ミラの「起こしたり、しません」。ヴェラの「悪くない」。ノエル様の、市の話。シュピの赤くなった顔。
順番に、置いていく。置き終わる頃には、眠りが来ていた。明日も、同じように、置いていけばいい。
そう思うのは、もう、難しくなかった——




