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戦姫メイド  作者: 白彩
戦姫
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34/46

第十一話:本隊来たる

門の前で、日が完全に沈んだ。


「返して、いただきたい」


眼鏡の男はそう言って、街道の土に膝がつきそうなほど深々と頭を下げた。頭が上がってくるまでの間、門の内側では誰も動かなかった。動けなかった、という方が近いかもしれない。丁寧さというのは、時に剣より面倒な武器になる。ノエル様は男に答えず、代わりに私を見た。


私は一歩前に出て、門扉の隙間ごしに敵の列を数え直す。歩兵二十八。御者が二。見張りの言った通り、三十だった。


「この街に、お渡しするものはありません」

「そうですか」


男は大げさに肩を落として見せた。それから、門の内側に並ぶ兵たちを、値段でも読むようにゆっくり眺め回した。


「エステル家のご当主には賢明なご判断を、と期待していたのですが。遠路はるばる参って、空っぽの手では帰れません。上が、うるさいもので」

「帰る手が空なら、往路より軽くて、ちょうどいいだろう」


男は口を閉ざした。閉ざした唇が、そのまま薄い笑いの形になった。


「強気な当主だ。……そう聞いてはいましたがね」


列へ向かって片手が上がる。私はその手が上がるのを見てから、身を引いた。


「やれ」


男の声と、鐘の音が重なった。鐘楼の大きな鐘が一度、二度、三度と鳴って、鳴り終わる頃には街の灯りが次々と消えていった。家々が窓を閉ざし、戸に杠を掛ける音が闇の底から連なって聞こえる。今夜の街は闇に沈む。そう昼間に決めた。決めたのは正しかったが、実際に街が音を失うのを聞くと、胸の奥が冷えた。


闇の縁を裂いて、敵の第一波が門と塀に雪崩れ込んできた。


「迎え撃て!」


ガルドの号令で兵たちが槍を揃え、塀の上から弓が放たれる。矢は三本しか当たらなかった。走りながら盾を顔の前へ出す角度が、列のどいつも同じだった。歩幅まで同じに見えた。傭兵が揃う時は、もっとばらけて揃う。これは揃えるために整えられた動きだった。


「シエル!」

「行きます」


塀の上に跳びながら、左手の人差し指に巻いた細布の下で小刀の刃を指先へ滑らせる。浅く裂けて、血が滲んだ。戦いの途中で切る手間を、先に済ませておく。いつもの段取りだ。


滲んだ血が細い赤い矢に変わる。放つと、塀を乗り越えようとしていた男の肩に深々と刺さって、男は声を上げて外へ落ちた。隣の男が、仲間の肩に生えた赤いものを見て動きを止めた。人は見たことのないものに刺されると、一瞬だけ考える。その一瞬がこちらの時間になる。二発目は、その男の腿を貫いていた。


手加減など毛頭するつもりはない。私は、あの時の戦場を思い出す。門の前では、横倒しの荷馬車を敵兵たちが押し立てていた。車輪に縄を掛けて十人がかりで引いている。あれが勢いをつけて門に当たれば、エステルの門でも蝶番が持たない。


塀の上から両の掌を下へ向け、切った指から血を滴らせる。二滴、三滴。落ちる途中で血は渦を巻き、細かい赤い粒になって宙に浮いた。粒を風に乗せる。夜気がうねり、粒は荷馬車を囲むように散った。


「燃えろ」


粒が一斉に発火する。爆発はさせなかった。幌(とばり)へ、縄へ、牽(ひく)く者たちの袖口へ、火が点を結ぶように移る。敵兵が袖を払って散り、慌てた馬が嘶いて馬車ごと横転した。門への特攻は、出鼻で終わった。


使ったのは五滴ほど。開戦前の点検では、全力で動けるのは四十滴と見ていた。三十五残る計算になるが、門の外の人数を思えば、安心できる数ではなかった。

塀の上を走りながら剣を振るう。登りかけた敵兵の兜を剣の腹で叩き落とし、縄を伝う次の敵の肩を突いて外へ押し出す。連続の斬撃に腕は疲れなかった。血を巡らせた身体は、本来の私よりずっと力が出る。代わりに、その分だけあとで血が減る。帳尻はいつも後から来る。


「西、持ちこたえろ。槍は下へ、下へ突け」


門の脇でガルドが指揮を飛ばしていた。門扉が二度、大きく揺れた。内側から兵が五人がかりで扉に体を預け、上から槍が覗くたびに掴んで引き抜き、抜いた槍で外を突き返す。奪って、返して、また奪われる。兵の一人が肩を突かれて後ろに転がり、すぐ別の兵がその場所に入った。


「ガルド、敵の様子は」

「悪くない。……いや、悪いな。手を抜いてやがる」


私もそう見えていた。門への当たりは破壊ではなく揺さぶりだ。本気なら門と塀に分かれず、人数を一点に積んでくる。東の塀が揺れた。よじ登る影の数が、西より明らかに多い。


「東、手薄です」

「回せ」


ガルドが兵の半分を東へ振った。それでも足りない。私は靴の底に血を置いた。一滴が革から染み出して塀に張り付き、身体を持ち上げる。夜気の中に短い足場が二つ三つと瞬いては消え、十メートル先の東の塀へ身体を投げた。空を歩いたわけではないが、見た者には見分けがつかない速さだった。


着地の衝撃で、東の塀の上にいた敵兵が二人よろめいた。脛を剣で払い、三人目の肩を柄の石突で突いて外へ落とす。四人目はこちらを見た。宙から降ってきた女を、剣を持って見上げて、それから自分で塀の外へ飛び降りて逃げていった。血で飛ぶ女に剣を向ける気が失せたのだろう。戦意を折れたなら、その方が安上がりで助かる。

門の下でノエル様の声が通っていた。広間の扉を閉めさせ、負傷者を運ぶ順番を決め、水の手配をしている。剣を持たない当主が門から十歩の場所に立ち続け、兵たちは時折その背中を見てから持ち場へ戻った。逃げ場を探す顔は、ひとつも見当たらなかった。


第一波は半刻ほどで退いた。


敵は六、七人を残して闇へ引いていく。引き際の足並みは統制が取れたままだった。こちらの負傷者は二名、骨折と脇腹の裂傷で、命に別状はない。


私は塀の上から退いていく背中を見送りながら、寒気を覚えていた。傭兵の集団は敗走する時、もっと醜い。怒鳴り合い、傷ついた者を置き去りにし、我先に逃げる。今夜の敵は違った。退く時間まで守られている気がした。


「シエル、下がって休め」

「血を温存します。剣だけに戻します」

「分かった。ほら、食え。喰える時に喰え」


投げ上げられた乾燥パンを塀の上で受け取って齧った。味はしなかったが、腹には入った。指先の傷を布で押さえながら、体の内側に残る重さを測る。三十を、少し過ぎたあたりだった。

闇の中の敵は動かない。動かない敵を、こちらは見ているしかなかった。



 静けさが半刻続いた。負傷者が脇部屋へ運ばれ、塀に新しい矢が届けられた。兵たちは交代で濡れ布を顔に当てている。トムが水桶を提げて西の井戸へ向かう背中を見送ってから、私は剣の柄の革を巻き直した。汗で緩んだ革を、指が滑らない程度の締まりに戻す。


革を締め終えても、トムは戻っていなかった。

西の井戸から広間の脇まで、桶一杯の水に半刻も要らない。要らないはずの時間が、過ぎていた。


「ノエル様。西の井戸を見ます」

「一人か」

「足が速いのは私だけです」


ノエル様は渋い顔をして、それから頷いた。頷くのと同時に、塀の下の兵二人へ目で合図を送っている。承諾と保険を同時に出す人だった。


「臭いを嗅げ。敵は外とは限らん」

「心得ています」


東の棟を抜け、西の庭園通路へ入った。通路を半ばほど進んだあたりで、夜気の質が変わった。霜の降りた草の匂いの中に、革と油の匂いが混じっている。うちの兵が使う獣脂の油ではない。精製された、匂いの薄い油だった。敵の装具の手入れは、良い。


井戸の脇でトムが倒れていた。水桶が横倒しになり、水が霜柱の間に染みていく。後頭部に大きな瘤。胸は上下していた。


「本当に、来ましたね」


井戸の向こうの暗がりから、眼鏡の男が歩み出てきた。両手を前で組み、庭を眺めに来た人のような足取りだった。背後から二人、左右の植え込みからもう一人。気配を消す術を心得た四人だった。


「正面が賑やかで助かりましたよ。裏は、案外と手薄で」

「この人には、もう手を出さないでください」

「構いませんとも。要らぬ殺生は流儀ではないのでね」


男は組んだ手の指を、一本ずつ折るようにして続けた。


「欲しいのは、お嬢さんの血だけです。小瓶に二本ほど頂ければ、今夜のうちに退きましょう」

「嘘ですね」

「ええ、嘘です」


あっさり認められて、こちらが言い返す間を失った。男は声に笑みを乗せたまま、値段の話を始めた。南の仲介人が吊り上げ、北の上が乗り、今や私の血は良い馬の三十頭分だという。値段のついたものは奪い合いになり、今夜の彼らが最初の買い手とは限らない。戦い続ける人生を選ぶのか、と。


「組織は悪い場所ではありませんよ。五番にも聞いたことがあるでしょう。食事は出る。寝床は暖かい。研究に協力さえしてもらえれば、厚遇されます。剣を置く。それも立派な選択です」


言葉が耳の奥に沈んでいった。剣を置けば戦わなくていい。シュピと、ノエル様と過ごせる。連中の管理の下で、小瓶に血を分けながら。かつての毎日と、どこが違うのか。

違うところを、私は知っていた。朝にかまどの火を見ること。誰かが私の作ったものを美味いと言うこと。呼ばれたい名前で呼ばれること。男の言う安寧の中に、それらが入っているとは思えなかった。


「お断りします」


剣を握り直すと、男は少しの間、私の顔を見ていた。


「……決裂ですな」


三人が同時に襲いかかってきた。


通路の幅は両腕を広げれば届くほどで、火も風も使えない。使えば倒れているトムを巻き込む。剣を構えたまま、指先の血を床へ垂らした。

血は細い糸になって霜の上を這い、先行する男の足首に絡みついた瞬間、木の枝ほどの硬さになった。男が前のめりに転び、その顔面へ膝を打ち込む。骨の軋む感触が膝頭に返って、男はそのまま動かなくなった。


二人目の剣を剣で受ける。火花が闇に散った。受けた拍子に血の糸をもう一本、相手の剣の柄へ巻き付け、腕ごと引き剥がす。剣が宙を舞い、それを逆手で受け取って、そのまま男の胴へ突き立てた。


三人目は懐に飛び込んできた。細身の男で、両手に短い錐を握っている。突き出し方に殺意がなかった。武器ではなく、人の体から何かを採るための道具だ。


その手にだけは、触れさせない。


血の糸を三本同時に放つ。男は二本を躱した。身のこなしだけなら一流だったが、三本目が肩口を浅く裂き、裂けた傷から糸の先が内側へ潜り込んで右腕の神経を焼く。男は短く呻いて錐を取り落とし、喉元に剣先を添えたところで、四人目も両手を上げた。


「見事」


眼鏡の男が静かに拍手をしていた。仲間が三人潰れた場面で、顔色ひとつ変えていない。


「剣に糸、あの体術。さすがは戦姫、と言うべきか。……ああ、その名はお気に召さんかったか」

「その名を、どこで」

「南にも耳はありますのでね。さて」


懐から、小さな骨の笛を取り出した。


「戦況を整理しましょう。あなたは強い。だが血は無限ではない。あなたは今、自分の残りを数えていますな。数えている人間の顔をしている」


答えなかった。答えれば、相手の見積もりに幅を与える。


「もうひとつ。正面の手勢は退いていません。この笛を吹けば、残り全員が広間へ雪崩れ込みます。あなたがここで私を殺しても同じことです。合図が来なければ、時刻で動く手はずですので」


笛を指の間で回しながら、男は言った。血の小瓶と五番の身柄、引き換えに広間には手を出さない、と。


「お嬢さん。考える時間は、あなたの血の残りと同じだけですよ」


剣は下ろさなかった。男の言う通りなら、広間への突入は防げない。ならば、突入の形を選ばせるしかない。


「ひとつ、教えて差し上げます」

「ほう」

「あの広間の扉は内側からしか開きません。樫の扉に鉄の帯です。そして中には、火を灯せる子がいます」


男の眉が初めて寄った。


「子供が、ですと」

「暗がりへ飛び込めば、あの子の火があなたたちの顔を順番に照らします。照らされた顔は、私が全部覚えます。覚えた顔は、どこまでも追います」

「……それは、脅しですかな」

「いいえ。予告です」


シュピの火は明かりにしかならない。けれど、この男には分からない。値踏みのできないものを、この男は買わない。そこが強さであり、急所でもあった。


笛が指の間で二度、三度と回り、かすかに鳴って、やがて懐に戻った。


「今夜は、これまでにしましょう。お嬢さん、あなたは噂より面白い。……間違えないでいただきたいのは、私が引くのは言葉が通ったからではない、ということです。値踏みの済んでいない場所に、金は出さん。それだけの話です」


男は一歩退き、立ち去り際に振り返った。


「次は、値踏みの済んだ相手を連れてきますよ」


四人の人影は倒れた仲間を肩に担ぎ、西の塀の外へ消えていった。身のこなしの良い男は、霜の中から錐だけは拾い集めて持っていった。道具すら残さない。

すぐには追わず、トムを抱え起こして背負った。息は安定している。瘤(こぶ)は大きいが、頬に温かさが残っていた。


「レイラ、さん……」

「喋らなくていいです。よく水を汲もうとしましたね。連中は井戸で待ち伏せる羽目になりました。おかげで、早く気づけました」

「……それ、褒めて、ます……?」

「褒めています」


トムは痛そうに顔をしかめて、それでも少し笑った。

背負ったまま歩きながら、自分の膝が小刻みに震えていることに気づいた。体内に残る血の重さは、二十を幾らか。数える指先が冷たい。


庭園通路を戻る途中、東の空を見上げた。まだ夜だった。値踏みの済んだ相手。私の知っている顔が、ひとつだけ浮かんだ。夜明け前のいちばん暗い時間に、その予感は正しかった。塀の上の見張りが倒れた。音もなく。

鐘が鳴り始めて、一度で止まった。二度目の代わりに、鐘楼の上から小さな叫びがひとつ落ちて、すぐ途切れた。門の兵の誰かが上げた悲鳴を合図に、塀の外の闇が全部、動き出した。笛は鳴らなかった。鳴らす必要がなかったのだろう。


残兵が広間へ向かって雪崩れ込んでくる。西の植え込み、崩れかけた脇門、正面の塀。


「広間!広間を固めろ!」


ガルドの声が裂け、兵たちが回廊へ殺到する。その先頭より速く、ひとつの影が屋敷の屋根から庭の中央へ降り立った。灰色の外套が、夜気に靡いた。

私は広間の階段の途中で足を止めた。


「やはり、あなたでしたか」


男がゆっくり振り返る。あの夜と同じ静かな目だった。剣帯の位置も構えの癖も変わっていない。ただ、外套の襟に薄く霜が乗っていた。


「お前も、報告される、と言ったはずだ」


男はそう切り出した。


「その通りになった。上は大いに興味を持った。今度の命は厳しい。生きて連れて帰れ。連れて帰れなければ、私が帰るな、と」

「あなたの組織は、失敗した者を待たないのでしょう」

「ああ。だから今夜は、私にとっても本番だ」


剣を抜いた。飾り気のない、使い込まれた実戦の剣。抜き身の刃に星の光が乗った。


「シエル!」


門の方からノエル様の声がした。広間へ向かう敵兵と、それを止める兵たちの剣戟が回廊で渦になっている。こちらに残れる者はいない。ノエル様の顔が、広間と私の間で一瞬だけ揺れた。


「行け。お前の戦いだ」


それだけ言って、広間の指揮へ向かった。背中で、任せると言っていた。庭の中央に、私と灰色の男。空の端がほの暗く色づき始めている。回廊の剣戟が、風に乗って時折届いく。


男が踏み込んできた。

初太刀はあの夜と同じ剣筋で、なおかつ速かった。二度目の対峙に読み合いは要らない。お互いの手の内は、もう知っている。


剣で受けながら、左手の指先から血を引いた。一滴目は風へ。男の足元の雪解け泥が跳ね上がって顔を覆う。男は泥ごと剣を振って距離を取り、私はその横へ滑り込んで払いを入れた。


受けられた。だが男の足が泥に半歩沈んだ。


「泥、か」

「昨夜まで、雪が解けかけていましたので」


二滴目は土へ。男の立つ地面がこぶしほどに持ち上がり、体勢が崩れる。打ち込んだ剣を剣の腹で受け流したが、受け流しきれず後ろへ一歩下がった。


あの夜、私はこの男から一本も取れなかった。男は下がったまま剣を中段に置き直した。その目に色が差した。焦りではなく、帳簿の数字が合わないことに気づいた者の目だった。


「あの夜、お前は」

「見せていませんでした」

「今は違う、と」

「見せる理由が、できました」


三滴目。掌の上の血の粒を光に変える。


夜明け前の闇の中で、それは小さな日の出だった。男が腕で目を覆う。その腕の下を抜けて懐へ入り、剣の柄で鳩尾を打ち込んだ。骨に届く手応えがあった。

男の膝が折れた。倒れはしなかった。折れた膝を剣で支えて立ち上がり、口の端から落ちた血を袖で拭いもせず、私を見ていた。敗れかけているのに、妙に静かな目だった。


「ひとつ、聞く」


血の混じる息のまま、男は言った。


「お前は、自分の血がどこから来たか知っているのか。お前は作られた側だ。作られた側が、その力を人のために使っている。滑稽だとは思わんのか」


作られた側。言葉は胸の真ん中に落ちて、そのまま沈んだ。拾うのは、あとでいい。


「知っています」

「ならば」

「だから使います。作られた力でも、誰かを守れるなら。この力の使い道としては、それがいちばん良いと思います」


男は私を見ていた。剣を構え直すまで、少し時間がかかった。口元に、形にならないものが浮かんで消えた。笑いだったかもしれないし、ため息だったかもしれない。


「道が、違ったな」


それが最後の言葉になった。


踏み込みは、あの夜の何倍も速かった。勝てないと分かった上での捨て身だった。剣が来る。右の肩口から、袈裟に。避ける間合いはなく、受ける余力も残っていない。残っているのは血だけだった。


残りのほとんどを、一点に集めた。


土で芯を作り、闇で重くし、風で速くする。編み上がった赤黒い槍を、両手で、男の剣筋のど真ん中へ撃ち込んだ。剣が砕ける——槍は勢いのまま男の胸を貫き、背後の地面へ深々と突き立った。

男は立ったまま、しばらく動かなかった。夜明けの光が塀の上から差し込み始め、灰色の外套の肩に白い輪郭を置いていく。男の唇が、一度だけ動いた。


「上は、もっと、上だ」


倒れる音は、思っていたより静かだった。貫いていた槍は血の色を失い、崩れて土へ還った。

息の絶えたことを確かめて剣を納める。納める手が、二度目でやっと柄を離れた。膝が小刻みに揺れている。体内に残る血は、指先に滲むか滲まないか。数える必要もないほどだった。


広間の方の音が、いつしか止んでいた。


回廊に倒れた敵兵と、立っている兵たち。ガルドが剣を下ろしたままこちらを見ていて、返り血で顔の半分が汚れていた。ノエル様は広間の扉の前に立っている。扉は破られても、開けられてもいなかった。


その扉の陰から、小さな人影が走り出てきた。


「お姉ちゃん!」


シュピだった。手のひらの上に小さな火が灯っていた。三十秒ではない。練習の時間をとっくに越えて、灯り続けていた。


「無事?」

「ええ。無事です」


抱きついてきたシュピの頭を、血の付いた右手を避けて左手で撫でた。


「ずっと灯してたんだ。みんな、暗いの、怖がってたから」

「……そうですか」

「僕、役に立った?」

「立ちました。あなたの火がなければ、広間はもっと怖い場所でした」


シュピは火を消さないまま、私の服に顔を埋める。消さないのは、消すと暗くなるからかもしれなかった。暗くなると、みんなが色々なことを思い出すから。

庭の向こうで、生き残った敵兵が総崩れに逃げていくのが見えた。追う者はいない。追う力が、誰にも残っていなかった。それでも今夜は、これで足りる。

ノエル様が庭のこちらへ歩いてきて、途中、倒れた灰色の外套の男を見下ろして足を止めた。


「こいつが」

「はい。もう、戻ってきません」

「そうか」


もう一度だけ男を見て、ノエル様は顔を上げた。


「シエル。よく、守った」


その言葉をまっすぐ受け取ると、身体の奥の力が抜けて、抜けた分だけ夜明けの空気が肌に沁みた。


夜が明けていく。傷だらけの庭に朝日が射し、砕けた剣の欠片や、泥の足跡、燃えかけの荷馬車が照らし出された。戦いのあとは、いつも見苦しい。それでも広間の扉が開き、人々が恐る恐る外へ出てくる。孤児院の子供たちの顔があり、院長の崩れそうな顔があった。


門の見張り台から、兵の声が降ってきた。


「レイラさん!北の街道に馬が一騎!こちらへ、全速です!」


シュピの頭に乗せていた手が止まった。


朝靄の向こう、街道の果てに小さく動く影がひとつ。馬上の影は泥に脚を取られながらも速度を落とさなかった。落とせない、という疾り方だった。


ノエル様が隣へ来て、同じ方を見た。


「来たか」


誰に言うでもない言葉に、私は何も返せなかった。喉の奥に何かが詰まっていて、それが何なのかは分からなかった。分からなかったが、目を逸らすことだけはできなかった。


「迎えに、行くか」

「いえ」


街道の果ての影を見ながら答えた。


「ここで待ちます。迎えに行くと、すれ違うかもしれませんから。今日は、待っている側でいたいんです」

「そうか。じゃあ、俺も待つ」


ノエル様が門の内側に立ち、シュピが私の袖を掴んだ。ガルドが兵たちへ、門を開けよと手を上げる。

重い門扉が、軋みながら内側へ開いていく。朝靄の中の影は少しずつ大きくなっていった。黒い髪。切り揃えられた短い髪が、風にも型を崩さない。そんなことまで、霞んだ朝日の中に見えた気がした。


私は門の内側に立ったまま、その影がこちらへ来るのを、ただ見ていた。

ご拝読ありがとうございました・

この章もこれで一時完結です。エピローグまでお楽しみください。


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