第九話:守るための選択
はい。何と今日は二話投稿です。
事前に告知してなくてごめんなさい。
北への文を出して、三日が経った。屋敷の警戒は最高位のままだった。門の見張りは二人から四人に増え、夜の巡回は三度になった。街への買い出しは、ノエル様の許可がなければ誰も出られない。
その朝、私は書斎に呼ばれた。机の上に、革表紙の帳簿と、白い紙が数枚、並んでいた。ノエル様は立ったまま、窓の外を見ていた。
「シエル。シュピのことだ」
「はい」
「あの子は今、この屋敷に『匿われている』だけだ。……匿う、というのは、俺の気まぐれで終わる言い方だ。俺が死ねば、あるいは俺の立場が揺らげば、あの子の居場所は宙に浮く」
振り返って、机の上の紙を指で押さえた。
「だから、正式にする。……シュピを、エステル家の保護下にある者として、領の戸籍に載せる」
「戸籍に」
「ああ。保護者は俺の名だ。……法的には、あの子はもう、誰かの『品物』じゃない。エステル領の民だ。領の民を連れ去ることは、領への攻撃と同じ意味を持つ」
言葉の重さを、私は少しずつ噛み締めていた。名を与えることと、籍に載せることは、違う。名は心の問題だが、籍は制度の問題だ。制度の中に入れるということは、あの子を守る刃が、私の剣だけではなくなるということだった。
「……それは、できますか。出自の分からない子供を」
「できる。当主の権限でな」
ノエル様は、少しだけ口元を緩めた。
「当主には、こういう時のための、胡散臭い権限がいくつかある。……ただし、手続きには証人が要る。領内の長二人の署名だ」
「証人」
「孤児院の院長に、頼むつもりだ。あの子が孤児院の門の前で拾われた経緯は、あの人が一番よく知っている。もう一人は、街の年寄りの誰か。……それで」
そこで、ノエル様は一度、言葉を切った。
「……シエル。お前にも、一つ、決めてもらいたいことがある」
「私に、ですか」
「お前も、だ」
机の上の、もう一枚の紙を、こちらに向けて滑らせてきた。
「シュピの保護者は俺でいい。だが、お前はどうする。……今のお前は、ヴェラから預かった形の、いわば出向のメイドだ。雇い主は形式上、あいつになる。あいつがどこかで死ねば、お前の立場も宙に浮く」
「……」
わかっている。わかっています。
「選択肢は、二つだ。一つ。今のまま。ヴェラが戻るまで、この形のまま待つ。……もう一つ。エステル家の雇いとして、正式に籍を移す。護衛としてじゃない。お前のやりたい形でいい」
帳簿の頁が、風もないのに、微かにめくれた。窓の外では、庭師が枯れ枝を集めている音がしていた。
「……急いで答えなくていい。これは、期限のある話じゃない」
「いえ」
私は、答えていた。
「……今のまま、でお願いします」
ノエル様は、少しだけ目を見開いた。
「そうか。……理由は、聞いてもいいか」
「……エステル家の籍に入ることは、嬉しいです。これが、嬉しい、というものだと思います。でも」
言葉を、ゆっくり選んだ。
「師匠は、まだ、戻ってくる人です。私は、その人のところから来ました。その間に、別の籍に入るということは……あの人が戻ってきた時に、帰る場所が、なくなっているかもしれない、ということです」
「……そうか」
「私は、ここにいたい。ここにいたいからこそ、戻る場所の話は、あの人が戻ってきてからにしたい。それが、私の、勝手です」
ノエル様は、しばらく黙っていた。それから、帳簿を閉じて、こう言った。
「勝手な答えを、お前が言ってくれることは、俺には何よりの答えだと、前にも言ったな」
「はい」
「……今回も、そう受け取る。だが、一つだけ言っておく。ヴェラが戻ってきて、お前があいつと話して、それでもここに残ると言ったら。……その時の籍の話は、今日のこの紙とは、別の形になると思う」
「別の形、とは」
「今は、言わん。言ったら、お前の勝手に、土がつくからな」
その言い方が、この人らしかった。選択肢を与える時、答えの方向まで示さない。
「はい。覚えておきます」
「よし。じゃあ、シュピの件は進める。……院長には、俺が手紙を書く。手続きの日取りが決まったら、お前も立ち会ってくれ」
「承知しました」
書斎を出る廊下で、私は、少しだけ足を止めた。籍の話。保護の話。それはつまり、ノエル様が、この屋敷の今の形を、長く続けるものとして作り直している、ということだった。夜襲があり、調査員がいて、それでも、来年も、再来年も、この場所があると決めている。
決めている人がいる、ということ。それが、どれほど心強いことか。私は、窓の外の庭を見ながら、そう思った。
その日の昼過ぎ、シュピに話をした。食堂のかまどの前で、二人きりだった。ノエル様は街へ証人探しの下準備に出ていて、トムは市場へ行っている。
「シュピ。少し、話があります」
「うん」
「あなたを、この屋敷の、正式な保護下に入れる手続きをすることになりました。領の戸籍に、あなたの名前が載ります」
「……戸籍」
「ええ。載ると、あなたは、エステル領の民になります。……もう、誰にも、連れて行かせません。連れて行こうとすることは、この領への攻撃と同じ意味になります」
シュピは、パンをかじる手を止めて、私を見ていた。
「……それって、僕が、ここに、いていいってこと?」
「はい」
「ずっと?」
「……ずっと、です」
しばらく、シュピは何も言わなかった。かまどの火が、ぱちぱちと鳴っていた。
「……前にね」
やがて、彼が言った。
「あそこでは、ずっと、って言葉がなかった。明日があるかも、分からなかったから。……だから、ずっと、って言われると、どうしていいか、分かんない」
「無理に、分かろうとしなくていいです」
「うん。でも、うれしい。分かんないけど、うれしい」
うれしい、と、彼は言った。あの子の口から、その言葉が出るのを、私は初めて聞いた気がした。棚に置いてあった言葉が、一つ、動いた。
「……そうですか。うれしい、ですか」
「うん。……お姉ちゃんも?」
「私も、うれしい、のだと思います」
思います、としか言えなかった。私の中のその言葉は、まだ、確かめる術を持っていない。だが、言ってみると、胸の奥の、あの温かいものが、また少し大きくなった気がした。確かめる術はなくても、感じることは、できるらしかった。
その日の夕方、トムが市場から戻ってきた。
「ノエル様、街の様子ですが」
食堂での夕食の席で、報告が始まった。
「どうだった」
「静かです。……静かすぎるくらいに。あの三人が消えてから、街には不審な者の噂が、まったくありません」
「……ふむ」
「いいこと、じゃないんですか?」
シュピが聞いた。私は、答える前に、ノエル様の顔を見た。ノエル様は、汁物の皿を置いていた。
「いいこと、ではないな。……消えたんじゃない。隠れた、と見るべきだ」
「隠れた」
「ああ。仲間を一人、置いていった。……普通の連中なら、一旦、領の外まで退く。ところが姿が見えないまま、街の噂だけが静かになっている。どこかで、次を待っている」
「次、って」
「分からん。だが、あの眼鏡の男が、あのまま引き下がる種類の人間とは思えん」
私も、同じことを考えていた。あの男は、見切れなかった時ほど、執念を見せる。あの目は、そういう目だった。食後、私は自室に戻る前に、中庭を一回りした。夜の見張りの配置を、自分の目で確かめるためだ。四人の兵が、それぞれの持ち場に立っていた。門の兵、東の棟の兵、庭の兵、屋根裏の兵。
「異常は」
「ありません」
静かな夜だった。月明かりが、庭の石を白く照らしている。柿の木の葉が、もう半分ほど落ちていた。季節は、確かに、冬に向かっている。
見回りを終えて、私は門の前で、少し立ち止まった。
門の外の街道は、何もない。誰もいない。それが当たり前のことなのに、今夜は、その何もなさが、妙に重く感じられた。隠れている相手を待つ夜というのは、こういうものなのかもしれない。戦場でも、こういう夜はあった。静かな夜ほど、何かが来る夜だった。
「レイラさん」
振り返ると、トムが立っていた。巡視の途中らしかった。
「お疲れさまです。……早くお休みになった方が」
「ええ。もう少ししたら。……トム」
「はい」
「あなたは、怖くないのですか。こうして、夜に立っていることが」
トムは、少し考えて、答えた。
「怖いですよ。でも、前に、レイラさんが言ってました。警戒しすぎるくらいで、ちょうどいい、って。それと、俺は、あの鐘を鳴らした夜のことを、まだ覚えてるんで。鐘を鳴らしたら、あなたが来てくれた。……だから、また何かあっても、俺が鳴らせばいい。そう思うと、そんなに怖くないです」
鐘。あの夜の鐘のことを、私はよく覚えている。トムが鳴らしたあの音がなければ、屋敷の被害は、もっと大きくなっていた。
「そうですか」
「おやすみなさい、レイラさん」
「おやすみなさい」
トムの背中を見送って、私は思った。守る、ということは、剣を持つ者だけの仕事ではない。鐘を鳴らす者、火を灯す者、戸籍に名を載せる者、戸籍を作る者。みんなが、それぞれの場所で、この屋敷を守っている。その輪の中に、私はいる。そして、シュピも、いる。
自室に戻り、私は、机の上の鳥の木片を見た。まだ羽しかない。だが、今日、あの子の名は、戸籍に載ることになった。宙に浮いていたものが、地面に根を下ろす。根を下ろすということは、簡単には、引き抜けないということだ。
窓の外、月はまだ高かった。静かな夜が、まだ続いている。続いていることが、今夜は、少しだけ、頼もしく思えた。北への文は、まだ、返っていない。
ご拝読いただきありがとうございました。




