第八話:北の便り
文が届いたのは、みぞれが降り始める、つい昨日のことだった。伝令の兵が、泥だらけの革袋を差し出してきた。前線の野営地に、民間の文が届くこと自体が珍しい。珍しいから、兵は物珍しそうにこちらを見ていた。
「静謐殿に、と。……差出人は、南の貴族だそうです」
女は、黙って受け取った。封蝋の紋を見るまでもなかった。革袋の縫い目の癖で、差出人が分かる。昔、自分で縫い方を教えた屋敷の書記の癖だった。天幕に戻り、蝋燭の灯りで文を開く。
『前略。久しいな、姉貴』
書き出しで、小さく鼻を鳴らした。正式な文でその呼び方をするのは、あの男くらいだ。幼い頃は「ヴェラ」と呼び捨てにされ、当主になってからは人目のある場では「卿」と呼ばれる。文の中だけ、姉貴になる。距離の取り方が、昔から器用な男だった。
文は、要領を得なかった。近頃の領内のこと。襲撃が二度あったこと。銀色の髪の者を尋ねて回る輩がいること。そして、最後に、当たり障りのない筆致でこう続いていた。
『ついては、北での見聞を、一つ伺いたい。国境を越えて人を追う仕組みを持つ者たちの噂を、姉貴の耳に届いたものはないだろうか。金で人を買い、番号で人を呼ぶ。そういう連中の話だ』
女は、文を持つ手を止めた。番号で人を呼ぶ。そこだけが、灯りの中で浮いているように見えた。他の部分は、もう目に入らなかった。
「……来たか」
誰に言うでもなく、声に出していた。天幕の外で、雪の予感のする風が鳴っていた。女は文を畳み、外套の内側にしまい込んだ。指先が、少しだけ震えていた。寒さのせいではないと、自分では分かっていた。
その夜、女は眠らなかった。この数ヶ月、北の戦線で感じていた違和感。揃いすぎた傭兵たち。教えられたように綺麗な連携。敵側に流れるはずのない物資。どれも、単体なら偶然と呼べた。だが、文の一節と重ねた瞬間、偶然では済まなくなった。
金で人を買い、番号で人を呼ぶ。あの子供たちが、どこから来たのか。女は、ずっと考えないようにしてきた。考えると、剣の持ち方が変わってしまうからだ。だが、ノエルの文は、考えることを禁じていなかった。むしろ、考えろと言っていた。
姉貴の耳に届いたものはないだろうか。
——ある、と女は思った。届いている。届きすぎている。
翌朝、女は捕虜の天幕に入った。夜襲で捕えた傭兵が二人、柱に繋がれている。昨日の小競り合いで転がり込んできた連中だ。尋問は、女の役目ではない。だが、今日は、頼み込んで十分だけ時間をもらった。
「名前は、聞かん」
女は、二人の前に立って、そう言った。
「聞きたいのは、一つだけだ。お前たちを揃えたのは、誰だ」
一人は顔を伏せ、もう一人は、虚ろな目で天幕の布を見ていた。
「傭兵が揃うのに、揃える人間が要る。普通は、団長だ。だが、お前たちの動きは団員の癖じゃない。……教えたのは、誰だ」
顔を伏せた方の傭兵が、低く笑った。
「……知らねえ。俺らは、金さえもらえりゃ、誰の教えでも」
「金は、誰から出た」
「仲介人だ。顔も知らねえ。……ただ」
「ただ?」
傭兵は、少し考えるように間を置いた。
「……金の入った袋に、変な印がついてた。線が、何本か、交わってるような。……仲介人が、『この印の差し出す仕事は、断るな』と、うるさくてな」
女は、その場に立ち尽くした。線が、交わる印。
聞いたことがあった。いや、見たことがあった。確かめる術は、今はない。だが、女の中で、もう一つ、点が線に繋がる音がした。
「……それだけか」
「あんた、何者なんだ。……静謐の狂気が、なんで、そんなことを」
「質問は、こちらがする」
女は踵を返した。背後で、もう一人の傭兵が、初めて声を上げた。
「……姉さん」
その呼び方に、女は立ち止まった。姉さん、とこの戦場で女を呼ぶ者はいない。
「……あんたらが追ってるのは、南の、銀髪の女だろ。……仲介人の話を、盗み聞きした。『商品を二つ、南で見つけた』って」
女は、振り返らなかった。振り返ると、顔に出るものを隠せない気がしたからだ。
「……いつ、聞いた」
「二ヶ月ほど、前だ」
二ヶ月前。……文が出るより、ずっと前だ。あの屋敷に夜襲があった頃には、もう、北の末端にまで話が降りていた。……深い。末端の仲介人にまで『商品』の内輪の話が届くということは、連中の伝達系が、戦場の裏にまで張り巡らされているということだ。金の流れの中に、紛れ込んでいる。そういう連中は、見つけにくい。抜くのが、難しい。
天幕を出て、女は北の空を見上げた。曇っていた。星は見えなかった。
その日の午後、女は指揮官の天幕を訪ねた。太った指揮官は、相変わらず書類の山の前に座っていた。目の下の隈は、前に見た時より深くなっていた。
「……離脱したい」
女は、要件だけを言った。指揮官は、顔も上げずに羽根ペンを動かし続けた。
「却下だ」
「聞け」
「聞くまでもない。今の戦線からお前を抜けば、西の丘が三日で落ちる。……落ちれば、ここにいる新兵が百人死ぬ。百人の死を、私情と天秤にかけるな」
女は、答えなかった。天秤にかけたくて来たのではない。かけなければならなくなったから、来たのだ。
「……期間を決めろ」
しばらくして、指揮官が言った。ペンは、止まっていた。
「用が済み次第、戻る。……だが、期日は約束できん」
「約束できない離脱など、軍務では認められん」
「ならば」
女は、懐から文を取り出し、机の上に置いた。
「これを読め。……これでも私情と言うなら、私は黙って去る」
指揮官は、渋々という顔で文を開いた。読むのに、時間がかかった。女より読むのが遅い男だった。読み終えても、しばらく何も言わなかった。
「……この差出人は」
「南の、エステル家当主だ」
「お前の、かつての」
「ああ」
指揮官は文を畳み、押し戻した。
「……分かった。三日待て。代替の配置を組む。組めたら、お前の首を自由にしてやる。……ただし、一つ条件だ」
「言え」
「戻って来い。……戻って来れないような用件なら、最初から行くな」
女は、文を懐に戻し、一礼した。答えは、しなかった。答えられない約束を、女はしない。
天幕を出ると、外はみぞれになっていた。灰色の空から、白い粒が斜めに落ちてくる。北の冬は、いつも、こうやって突然に始まる。
野営地を歩きながら、女は考えていた。
三日。三日で、この戦線を引き継ぐ準備ができる。できるが、南までは馬で何日かかる。雪が本格化すれば、街道は死ぬ。それでも、行く。行くと、今夜、決めた。
決めた途端、足取りが軽くなる自分に気づいて、女は苦笑した。何年ぶりかの、分かりやすい感情だった。
天幕に戻り、荷造りを始める。剣、外套、乾燥パン、そして、油紙に包んだままの、あの書きかけの手紙。出す宛てのないまま、荷物の底に眠っていた紙束。
女は、それを取り出し、しばらく眺めた。
『レイラへ』
書きかけの一行が、灯りの中に浮かんでいた。あれから、続きは書いていない。書けなかった、が正しい。
今なら、書けるかもしれない。今なら、行き先が分かっている。手紙ではなく、自分が行くのだから。
だが、女は、紙束をそのまま荷物に戻した。
届けられるなら、手紙より先に、自分が届く。届くならば、手紙は要らない。要らないものを、わざわざ書き上げる必要はなかった。……そういう理屈を、女は自分に並べ立てて、それで納得することにした。納得できているのかどうかは、よく分からなかった。
荷造りが終わった頃、天幕の外で足音がした。
「静謐殿。……本当に、行かれるのですか」
若い斥候の声だった。腕の包帯は、もう取れていた。
「ああ」
「……南に、何か」
「私の、畑がある」
女は、そう答えた。答えてから、変な言い方をしたと思った。だが、訂正はしなかった。畑というのは、間違っていない気もした。預けてきた種が、どう育っているか。見に行くのだ。それは、畑と言えなくもない。斥候は、納得したのかしなかったのか、曖昧に頷いて去っていった。
夜、女は火の前に座った。最後の、北での夜になるかもしれない火だった。薪が爆ぜる。遠くで、見張りの交代の笛が鳴る。いつも通りの夜の音だった。いつも通りの夜が、もうすぐ終わる。
女は、南の空を見た。雲が切れて、星が二、三、覗いていた。
文は、ノエルから来た。ノエルが書いたということは、あの屋敷は、まだ、持ちこたえている。持ちこたえているうちに、辿り着く。
辿り着いて、まず、何をするか——剣を握るのか。それとも、頭を下げるのか。あの男に、十年分の無沙汰を、どう詫びるのか。あの子に、名付けた側として、何を言うのか。
考えれば考えるほど、分からなくなった。分からないことは、明日考えればいい。女は、そう思うことにして、外套を被った。みぞれは、いつの間にか雪に変わっている。雪の音は、しない。音のしない白が、野営地の全てを、ゆっくりと覆い始めていた。女が見張りの兵の姿を見失うほどに、白く、静かに。
北の戦線は、今夜から、冬に入った。




