第七話:小競り合い
翌朝、食堂に集まったのは、ノエル様、私、トム、それに警備を仕切るガルドだった。ガルドは元傭兵で、口が重い。夜襲のあと屋敷に残った数少ない戦える人間だ。歳は四十半ば、剣より先に目で敵の重心を読む男だと、ノエル様がいつか言っていた。
「昨日の連中、どう出ると思う」
ノエル様が、いきなり振った。
「屋敷に来るでしょうな」
ガルドが即答した。
「いや集落をもう一度使うと思う」
トムが割って入った。ガルドが眉を上げる。
「屋敷を狙うなら、昨日で仕掛けているはず。仕掛けなかったのは、屋敷が固いと見たか、まだ材料が揃っていないかのどっちかだと考えるけど」
「屋敷が固いと見ているなら、材料を揃えて必ず来る。それだけの話だと思うが」
「材料が要るなら、それは集落でしょ」
トムは引かなかった。二人を見比べてから、ノエル様は地図の南西、あの集落を指で押さえた。
「トムに賭ける。あそこには昨日、息のかかった者がいる。シエルがもう一度来る状況さえ作れば、向こうは乗る」
「乗せる話を、こちらから流す、と」
「ああ。買い出しの途中で、聞こえるように撒け。『経過を見にメイドが行く』とな」
「……餌、ですか」
ガルドが低く言った。
「囮だ。ただし、囮はシエルじゃない。俺が仕掛ける。お前は最後の防衛線だ。前に出るのは、全部裏目った時だけにしろ」
「屋敷は」
「俺が残ろう。シュピを、一人にしないことが今は大事だ」
「ノエル様に危険が及ぶ可能性は考慮していますか?」
「……まあ、俺に仕掛けてくる可能性はほぼ皆無だと考えるが」
「根拠を示して頂けなければ、納得がいきません」
「シエル……俺たちはもう賭けの船に乗ってる状態だ。根拠を示せと言われても難儀なことだよ。あぁ、それとシュピは屋敷の書斎で俺と警備のものを2人配置するから何かあっても時間ぐらいは稼げるだろ」
「……それでも、私は——」
ノエル様の言っていることは、理解はできるのだが、それでも屋敷の主人を一人置いていくことなど、私は決断できない。そして、シュピの存在も大きい。ノエル様とシュピ。この二人を置いていくなど命令であっても、それこそ難儀である。
「だったらシュピも視察に同行するという種を蒔くのはどうだ?相手の人数は知れている。だからこそ、二人が集落に向かうと聞いたら全力で人員を回すだろ。その噂に信憑性があるかどうかの判断なんて今は不可能だろ」
「確かに、それであれば考えることが減りますね」
——その案に異論はなかった。そして会議のあと、ノエル様は私だけを廊下に残した。
「シエル。……昨日の続きの話だ」
「はい」
「向こうが見たいのは、お前の血だ。剣を抜くのは構わん。抜いた方が向こうも読み違える。だが、血だけは、最後の最後まで、絶対に見せるな」
「かしこまりました」
「万一の時は、逃げろ。……お前の強さは、勝つためのものじゃない」
その先の一言は、言わずに済ませた。私も、聞かなかった。分かっている言葉は、口に出さない方がいい時がある。
午後、出立の前にシュピが玄関まで来た。
「お姉ちゃん。……今日も、持ってる?」
「ええ。懐に」
「うん。……お姉ちゃん、ねえ」
「何ですか」
「……何でもない。いってらっしゃい」
昨日、彼は「気をつけて」と言った。今日は違う言葉を選んだ。その差に、私は立ち止まりそうになった。
「はい。行って参ります」
門を出る時、私は一度だけ振り返った。ノエル様の隣にシュピが立っていて、二人とも、こちらを見送っていた。二人がそこにいる、というただそれだけの光景を、私は目の裏に焼き付けるようにして、門を出た。
街道は昨日と同じ顔をしていた。畑の匂い、風、遠い鳥の声。私たちの歩みだけが遅かった。時間を、向こうに与えるためだ。
同行はガルドと、私服の兵が二人。街道の途中、雑木林の奥には、別動の兵が四人、先に潜ませてある。ノエル様の指示で、彼らは合図があるまで動かない。切り札は、最後まで見せない。それが今日の核だった。
「シエルさん」
しばらく歩いた頃、ガルドが並んで言った。
「昨日、あんたが集落に着いた時、集落の中で妙な動きをした者がいる。門の脇に立っていた男だ。あんたの姿が見えた瞬間、家の裏に走った。……見張りの合図だな」
「そうですか」
「うちの兵の一人が、後ろから見ていた。合図の相手までは追えなかった」
「今日は、その男は」
「たぶん、今も同じ場所にいる。だから、あんたの姿を見せた瞬間、向こうは動く。……集落の手前で仕掛けるはずだ。集落まで入れると、住民が巻き込まれる。それは向こうも避ける」
戦い方を選ぶ相手だ、ということだった。素人ではない。集落の手前、街道が緩く曲がる地点で、ガルドが手を上げた。
雑木林の左右に、気配があった。少なくとも二つ。昨日の三人と数が合わない。屋敷は大丈夫だろうか……
「来ます」
呟きと、ほぼ同時だった。
林の影から、二人の男が滑り出た。眼鏡の男と、ずんぐりした大男。
「お嬢さん。またお会いしましたな」
街道の中央で、眼鏡の男が慇懃に頭を下げる。声は昨日と同じだった。目だけが違った。もう隠していなかった。
「昨日の手当ては見事でした。ただ、一つ納得がいかなくて。あの腫れが一晩であそこまで引く。薬と手当てだけでは、説明がつかんのですよ」
「道を開けてください」
「どうぞ。その前に、お嬢さんの手を拝見したい。傷一つないか、それだけで」
「お断りします」
「……そうですか。では」
大男が動いた。体格に似合わない踏み込みで、私服の兵に襲いかかる。同時に、背後の林からもう一人が飛び出してきた。合計、四人。昨日の数ではない。
剣の抜ける音が、いくつも重なった。
背後から来た男の腕を袖の下から受け、体の回転に乗せて地面へ流す。男は転がるように起き上がった。素人の受け身ではない。踵の使い方、肩の入れ方、どれも軍で仕込まれた動きだった。
大男は、力で押してくる型だった。ガルドが正面で受け、押し合いになる。片方の兵が横から回り込み、後ろから膝裏を刈ろうとした。大男は片手でその兵の襟首を掴み、そのまま投げた。兵が街道の脇の草地に転がって、動かなくなる。
「兵に手を出したな。……こいつは、俺がやる」
ガルドが、剣の握りを持ち替えた。私の背後の男は、また距離を詰めてくる。今度は短刀だった。刃筋を見て、避ける。左肩を掠める。掠めるだけで、切れてはいない。
眼鏡の男は戦わなかった。離れて立って、こちらを見ている。私の剣を持たない立ち回りを、最初から最後まで。
「なるほど。……だが、まだ見せていないな。本命を」
その声で、分かった。捕えるつもりは、ない。私が追い詰められて、血を使う瞬間を待っている。
——ならば、見せない。今までの戦場でも血を使わない場面はあった。対処は可能だ。
(ただ、戦闘効率は下がりますね。早めに対処しないと)
私は剣を抜いた。メイド服の下の細身の剣が、光を撫でた。
「予定になかったはずだ」
眼鏡の男の目が揺れた。戦況は、そこから数呼吸で傾いた。剣を持った私に、四人では足りない。背後の男の刀を打ち落とし、肩に一太刀入れる。深くはない。だが、それで男の右腕は使えなくなった。男は片膝を突き、そのまま動かなくなった。
大男とガルドの押し合いは、ガルドの片足が滑って崩れかけた。私が横から間合いに入り、大男の脇を突く。大男は呻いて、後ろに下がった。ガルドが息を整え、剣を構え直す。
「撤収だ!」
眼鏡の男が叫び、小さな筒を投げた。地面に落ちて、白い煙が噴き上がる。
目を閉じ、気配だけで追う。足音は東。林の奥へ、ばらばらに散っていく。眼鏡の男の足音は、一番後ろにあった。逃げ方まで用意している。
煙が晴れた時、街道に残ったのは、私たちと、肩を斬られて倒れた男が一人だけだった。草地に転がった兵は、意識を取り戻して、脇腹を押さえていた。骨は折れていない。
「追いますか」
もう一人の兵が聞いた。林の奥を見る。あの先の地形は、向こうが選んでいる。
「深追いはしません」
残った男は息があった。ガルドが縄を掛け、私が傷を塞ぐ。血を使わない、通常の止血だ。手ぬぐいを裂いて、圧をかける。男は歯を食いしばって、こちらを見ていた。
「旦那に置いていかれたか」
ガルドが男の顔を覗き込む。男の目には、恐怖より諦めがあった。置いていかれる立場を、憂いているのだろう。そして逃げる直前、眼鏡の男はこちらを見て、口を小さく動かした。音はなかった。
『また』とだけ、読めた気がした。
帰りの馬の背で、私はあの男の顔を思い返していた。あの男が見ていたのは、私の剣ではない。剣を抜くまでの私だった。血を使わなかったこと。使えるはずなのに、使わなかったこと。
そこまで見られていた。隠す者には、隠す価値がある。それを証明してしまったのは、こちらだ。
「シエルさん」
隣を歩くガルドが、前を向いたまま言った。
「あなたは、正しく戦った。剣を抜いたのも、追わなかったのも、正しい」
「そうでしょうか」
「戦の後で自分の判断を疑うのは、いい兵の癖だ。悪くない癖だが、今日は疑わなくていい」
そう言ったきり、ガルドは黙った。私も、それ以上何も返さなかった。返さなくていい言葉というのが、あるらしかった。集落の入り口では、昨日と同じ老人が待っていた。今朝の騒ぎを、集落まで届く前に感じ取っていたらしい。
「怪我人は」
「うちの兵が一人、腹をやられました。骨は無事です。あなた方の中には」
「今日、私らは無事です。……あの、行商の連中は」
「もう、この集落には近づかないと思います。もし戻ってきたら、すぐに屋敷に知らせてください」
老人は、ゆっくり頷いた。
「昨日、あんたが治した若い男は。……あの、腕を折った」
「……何か」
「今朝、いなくなっていました。夜のうちに、荷物ごと。……治療のお礼も、置いていかんかった」
そういうことだった。あの怪我人は、罠の道具だった。用が済めば、連れて消える。腕の骨は本物だったが、それでも、置いていかれる側の駒だった。眼鏡の男の周りには、そういう人間しかいないらしい。
屋敷に着いたのは夕刻だった。玄関に、シュピとノエル様が並んでいた。
「お姉ちゃん!」
「帰還しました、シュピ。無事です」
「……うん」
シュピは私の袖を掴んだまま、しばらく離さなかった。無事の確認、というより、無事の受け止め、のような掴み方だった。
「怪我、ないよね」
「ありません」
「よかった」
ノエル様は、シュピの後ろに立って、私と目だけで挨拶を交わした。あとで、と目が言っていた。
夕食の席で、シュピはよく喋った。今日一日、屋敷の中で何をしたか。トムとまたパンを焼いたこと。今度は焦がさなかったこと。庭の柿の木に鳥が来ていたこと。話しながら、時々、私の顔をちらりと見ていた。私がここにいることを、話しながら確認しているようだった。
食後、シュピはノエル様に連れられて、寝室へ向かった。ノエル様が寝かしつけを買って出るのは、珍しい。今夜、私がノエル様と長く話すことを、シュピに悟らせない配慮だった。
書斎に呼ばれたのは、シュピが寝入った頃合いだった。
捕えた男は街の牢へ移し、ガルドが尋問に当たっている。口を割るかは分からない。だが、少なくとも装備と、あの煙幕の筒は、こちらの手元にあった。
「四人、か」
ノエル様は腕を組んだ。
「南で落ち合った灰色の外套の者が、人を回したか。……まあいい。増えたこと自体が答えだ。向こうは本腰を入れてきた」
「はい」
「シエル。剣を抜いた判断は良かった。俺も想定していなかった」
褒められた、のだと思う。だが、素直に受け取れない自分がいた。
「……向こうも、得るものを得て帰りました」
「ああ。それは知ってる」
ノエル様は、それ以上その話を続けなかった。分かっていることを、二度言わせない人だ。代わりに、机の上の一枚の紙を、指先で軽く弾いた。まだインクの乾ききっていない、書きかけの文だった。
「北へ、文を出す。古い知り合いに、頼める筋が一つある」
北。
その方角の名前に、胸の奥で何かが揺れた。北の戦場。静謐の狂気。師匠。
「よろしいのですか。その方は、危険な場所に」
「だから頼むんだ。……この件の全体像、俺たちの手には余る。組織というものが仮に複数国にまたがるなら、南のこの街の情報だけでは足りん。北で耳を張ってきた人間の見立てが要る」
「その方は、応えてくださるでしょうか」
「応えるかどうかは、向こう次第だ。……応えなくても、恨まん。俺の側の勝手な頼みだ」
書きかけの文を、ノエル様は伏せた。私に、宛先は見せなかった。
「文は明朝出す。戻るまで、屋敷は最高の警戒だ。ガルドには、既に伝えてある」
「かしこまりました」
「シエル。……もう一つ、いいか」
「はい」
ノエル様は、少しの間、机の木目を見ていた。それから、言った。
「今日、俺は屋敷に残った。……ここに残っていることが、正しい判断だと分かっていて、それでも、お前を送り出す方が、応えた」
「……」
「これは、当主の言葉じゃない。俺個人の話だ。聞き流していい」
「聞き流しません」
自分でも意外なほど、即答していた。ノエル様は少し驚いた顔をして、それから、口の端だけで笑った。
「そうか」
「はい」
それ以上、何も言わなかった。言葉の続きは、たぶん、二人とも、まだ持っていない。持っていない言葉を無理に作らなくてもいい、というのも、この屋敷で覚えたことの一つだった。
書斎から出て、廊下の窓の外に目をやる。
街の灯りの先、闇の中。あの眼鏡の男は今頃、どこにいるのだろうか。北への道か、それとも別の街道か。どこへ向かっているにせよ、懐に「銀髪のメイドは血を隠している」という確信を入れて、歩いているはずだった。
自室に戻り、寝台の縁に腰を下ろした。
懐から、鳥の木片を取り出す。まだ羽しかない。今日、これを持って行った。持って行けば、無事に帰る。そういう決まりを、シュピは彼の中で立てていた。決まりを立てておかなければ、抱えきれないことがあるのを、あの子はもう知っている。木片を、机の上に置く。
明かりを消す前に、もう一度、窓辺に立った。
北の空に星が出ていた。あの星の下の遠くに、私の名を知っている人がいる。文は、あの人のところへ行くのだろうか。ノエル様は、宛先を見せなかった。見せなかったということは、たぶん、そういうことなのだと思う。会えるとは、思っていない。会って、どうしたいのかも、まだ分からない。
ただ、今夜、あの人が同じ星を見ていたら、それでいい。そう思うのは、我儘だろうか。答えの出ないまま、私は明かりを消した。




