第五話:鏡の中の記憶
その日は、雨だった。朝から降り続く、細い、静かな雨。庭の木々が濡れて、葉の色が一段深く見える。型稽古は、屋根のある東の廊下で済ませた。剣を振るうたび、雨音が、その動きに合わせて静かに揺れた。
「お姉ちゃん、見てて」
昼前、シュピが、いつものように手のひらを上に向けていた。今日は、庭ではなく、食堂のかまどの脇。雨の日は、ここが彼の練習場になる。
「はい」
私は、数える。十秒、二十秒、二十五秒。炎が揺れて、消えた。
「……三十秒」
「段々、安定してきましたね」
「ほんと?」
「はい。記録は、していませんが」
「なら、僕が覚えてる。」
シュピが、得意そうに笑う。あの悪夢の夜から、数日が経っていた。夜の声は、あれ以来、聞こえていない。完全に消えたわけではないのだろうが、少なくとも表面上は、彼は元気を取り戻していた。
午後、私は仕立て直しの服を、シュピに届けた。藍色の上着。街の仕立て屋が、ようやく仕上げてきたものだ。初めて服を仕立ててもらった時、彼は目立たない灰色ばかりを選んだ。藍色を選んだのは、ノエル様の「銀髪に映える」という一言があったからだ。
「着てみますか」
「うん」
シュピは、素直に袖を通した。サイズは、ぴったりだった。彼がこの屋敷に来てから、少しだけ身長が伸びている。それでも、藍色の布は、彼の華奢な肩に、まだ少し大きく見えた。
「鏡、ある?」
「私の部屋に、姿見があります」
「見ていい?」
私は、シュピを自室に案内した。姿見の前に立つと、彼は、じっと鏡の中の自分を見ていた。藍色の服を着た、小さな男の子。しばらく、何も言わなかった。
「……おかしいな」
「何が、ですか」
「僕、前は、鏡が嫌いだった。見たくなかった。……見ると、怖かった」
「怖かった、のですか。鏡が」
シュピは、頷いた。
「あそこでは、顔を見られるのが、怖かった。顔を見られると、何かが始まるから。……だから、鏡を見ると、自分の顔を見られてる気がして。……でも、今日は、大丈夫だった」
「それは、良いことです」
「うん。たぶん」
その夜、私は、あることに気づいていた。シュピが「あそこ」と口にした時、彼の手が、無意識に右腕の古い傷を撫でていたことに。夕食のあと、私は思い切って、シュピを誘った。
「今夜、少し、話せますか」
「……うん」
シュピは、何を話すのか、察しているようだった。抵抗はなかった。私は彼を、自室ではなく、屋敷の奥にある小さな部屋へ連れて行った。かつて書庫として使われていた、今はほとんど使われていない部屋だ。窓が少なく、声が外に漏れにくい。この場所を選んだのは、誰に聞かれるでもなく、彼が話したいだけ話せるように、という私なりの配慮だった。
蝋燭を一本、灯した。
「……あのね」
シュピが、先に口を開いた。
「お姉ちゃんにだけは、話しておきたいなって、思ってた。……でも、言い方が、分からなくて」
「急がなくていいです。……聞きたくない話は、聞きません」
「ううん。聞いてほしいの。……全部は無理だけど、少しずつ」
私は、頷いた。
「あそこには、部屋がいっぱいあった。白い部屋。……部屋の数だけ、子供がいて、みんな、番号だった。僕は、五番。……六番は、隣の部屋だった。女の子。髪が長くて、僕より一つ上」
シュピの声は、低く、しかし、しっかりしていた。話すことに耐えられるだけの準備を、彼自身がしてきたのだと分かった。
「朝は、点呼から始まる。廊下に並ばされて、番号を呼ばれる。返事が遅いと……」
言葉が、一度、途切れた。
「返事が遅いと、その日の食事がなかった。二度遅れると、水だけの日があった。三度目は……白い部屋に、一人で入れられた。何日も。誰とも話せない。声も、聞こえない」
「それが、処罰、だったのですね」
「うん。でも、処罰って、あの人たちは呼ばなかった。『手順の確認』って、呼んでた」
手順の確認。人を人として見ない言葉だ。私は、それを静かに聞いていた。かつて自分が置かれていた場所と、似た匂いがするからだ。
「検査もあった。痛いやつ。……腕に、何かを入れられたり、熱い部屋に入れられたり。……六番は、僕より、たくさん入れられてた。僕が五番で、六番が六番だから、って、そういう順番だった」
「順番」
「うん。……番号が若いほど、『出来がいい』って言われてた。出来がいい子ほど、実験が少なかった。……僕は、六番より、楽だった。それが、ずっと、嫌だった」
嫌だった、と彼は言った。楽だったことに対して、嫌だった、と。十一歳の子供が、そういう感情を持てるということに、私は静かな驚きを覚えた。
「……お姉ちゃん」
「はい」
「お姉ちゃんも、そういう場所に、いたの?」
その問いは、いつか来ると、分かっていた。来た時に、どう答えるか。私は、少しだけ、考えた。
「同じではありません。でも、似た場所に、いました」
「番号、あった?」
「……番号ではありませんでした。でも、名前も、ありませんでした。呼ばれる時は、役割の名で呼ばれました」
「役割の名って、何?」
私は、一呼吸置いた。この言葉を口にすること自体が、自分の中の何かを揺らす。それでも、シュピの目を見て、答えた。
「……戦姫、と」
シュピは、その言葉を繰り返すことはしなかった。ただ、じっと私を見ていた。
「お姉ちゃんが、戦姫……?」
「はい。人を、戦わせるための名前です。……今の名前は、違います」
「レイラ、でしょ」
「はい」
「それ、誰がつけたの?」
「……師匠が、つけてくれました。雨の、夜でした」
言いながら、私の中に、その夜のことが静かに浮かんだ。壊れそうな体で、雨の中に座り込んでいた自分。その頭上に、傘の代わりに外套がかかって。「レイラ。花の名前だ」と、あの人が言った声。名とは、夜を越えるための荷物になる。そう、教えられた夜。
「いい名前」
シュピが、ぽつりと言った。
「僕の名前は、お姉ちゃんがくれた。お姉ちゃんの名前は、お姉ちゃんの師匠がくれた。……なんか、似てるね」
「……そうですね」
「僕ら、鏡みたい」
その言葉に、私は、はっとした。シュピという名を、鏡の言葉から取ったのは、私だった。彼が私を映す鏡になるように、という願いを込めて。だが彼は、私が気づくより先に、その意味に、自分から辿り着いていた。
「お姉ちゃんが僕を見ると、お姉ちゃんの昔が見えるんでしょ。僕がお姉ちゃんを見ると、僕のこれからが見える。そういうことだよね、鏡って」
「……その通りです。驚きました。私が名に込めた意味に、あなたの方から、気づいてくれるとは」
「へへ」
シュピは、少しだけ、照れたように笑った。それから、急に真剣な顔になった。
「でもね、お姉ちゃん。……鏡って、時々、怖い」
「怖い、ですか」
「うん。……僕がお姉ちゃんを見るとさ、僕のこれからが見えるって言ったけど。時々、お姉ちゃんの顔が、あの白い部屋の人たちみたいに見える時があるんだ。ほんの一瞬。……それが、怖い」
その告白に、私は息を呑んだ。私が、彼の中で、あの場所の人間に重なる瞬間がある。それは、想像しなかった。
「……いつ、ですか。そう見えるのは」
「お姉ちゃんが、すごく静かに剣のことを考えてる時。……あと、街で変な人たちの話を聞いた時の、目」
「……」
「ごめん。変なこと言って」
「いえ。……謝る必要はありません。言ってくれて、ありがとうございます」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「正直に言います。私の中には、あの場所と同じものが、確かに残っています。剣のことも、血のことも、人をどう止めるかという考え方も。……それは、消えません。ただ、違うのは——」
言葉を選んだ。これは、ごまかしてはいけない場所だった。
「違うのは、私は、それをあなたに向けません。……向けないと、決めている。それだけです」
「……決めてる、の?」
「はい。毎朝、決めています」
シュピは、それを聞いて、しばらく黙っていた。それから、小さく、だけど、はっきりと頷いた。
「ありがとうお姉ちゃん。……毎朝、決めてくれてるなら、僕は、怖くない」
その言葉が、私の胸の奥の、どこか深い場所に、届いた。信頼という言葉が正しいのか、まだ分からない。だが、彼はそれでも私の隣にいることを選んだ。それは、与えられるのではなく、毎日、作り続けるしかないものなのだと、私は思った。
「……お姉ちゃん」
「はい」
「もう一つだけ、言っていい?」
「どうぞ」
「六番のこと。……僕、時々、夢で、六番の番号を呼ばれる夢を見るんだ。僕の番号じゃないのに、僕が『はい』って言っちゃう夢。……目が覚めると、僕、六番がどこにいるか、知らないままなんだ。知らないまま、ここで、藍色の服を着て、パンを食べてる」
「……」
「それって、ずるいのかなって、思う」
「ずるくはありません」
私は、すぐに答えた。これだけは、迷わなかった。
「生き延びたことが、罪ではありません。……そして、彼女の番号を代わりに受ける夢を見ることは、あなたが、彼女を忘れていないということです。忘れないことは、ずるさではありません」
「……うん」
「いつか、あなたが望むなら。……その子たちのことを、調べる日が来るかもしれません。私には、まだ、約束できません。でも、その日が来たら、あなた一人には、しません」
「……ほんと?」
「はい。……約束ではありませんが、私の覚悟です」
シュピの目に、一瞬、光るものが浮かんだ。泣くかと思ったが、彼は泣かなかった。代わりに、深く、ゆっくりと息を吐いた。
「お姉ちゃん。……いつもありがとう」
「どういたしまして」
蝋燭の火が、静かに揺れていた。外では、雨がまだ降っている。二人とも、しばらく何も話さなかった。話さない時間が、苦しくない。そういう静けさを、私は初めて、こういう形で経験していた。
部屋を出る時、シュピが振り返った。
「ねえ、お姉ちゃん。僕、鏡、もう大丈夫かも」
「そうですか」
「うん。……僕は五番じゃない。シュピだから。鏡の中の僕は、僕だから」
その言葉を聞いた時、私は確かに、胸の奥で何かが温かくなるのを感じた。あれが何か、名前をつけたい気もしたが、今夜は、つけないことにした。名前をつけずに、ただ、この温かさを、確かめておくだけでいい。
その夜、屋敷が静まり返った頃、ノエル様の書斎の灯りが、まだ点いていた。私が明日の見回りの確認に伺うと、彼は机の上の地図を指でなぞっていた。
「シエル。……明日、街に一報が入るかもしれん」
「どういう、一報ですか」
「南の街道を調べさせていた者が、今夜、戻る。……あの三人の足取りを、追わせていた」
「……何か、掴めたのですか」
「まだ分からん。……ただ」
ノエル様は、地図から顔を上げた。その表情は、書類に向かう時のものより、一段、硬かった。
「途中で落ち合ったらしい、相手がいる。……街道沿いの宿で、誰かと、話をしていたそうだ。その相手の風貌が、気になってな。……灰色の外套、だそうだ」
灰色の外套。
その言葉を聞いた瞬間、私の身体の奥で、あの夜の記憶が、はっきりと目を覚ました。五番、という呼び声。血への反応。そして、互角の腕。
「……回収者、ですか」
「分からん。だが、南で待ち合わせをしたということは、向こうは、もう一段階、動いている。……明日、詳しい話が入ったら、お前にも話す」
「はい」
私は廊下を歩いた。窓の外、雨はいつの間にか上がっていた。雲の切れ間から、細い月が見える。今日、シュピは、鏡の中の自分を、自分だと言い切った。私は、戦姫という名を、彼に明かした。二人で、少しだけ、過去に向き合った。だが、屋敷の外では、過去の方から、こちらへ向かってくる者たちがいる。向き合うだけでは、済まない日が、近づいているのかもしれない。
廊下の窓から北の空を見上げながら、私はそう思った。今宵、北の空の下にいるはずの人の顔が、ふと、浮かんだ。




