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戦姫メイド  作者: 白彩
戦姫
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27/37

第四話:当主の仕事

 朝食の席で、ノエル様は封蝋のついた手紙を、机の端に置いた。私が食器を並べる手を止めると、その視線に気づいたらしく、軽く肩をすくめる。


「隣領の当主からだ。……面倒な話だが、無視するわけにもいかん」

「面倒、というのは」

「取引の話だ。北の街道の通行税を、両家で見直したいと。……夜襲があってから、うちの領内が物騒だっていう噂が、周りにまで広がってる。それを理由に、条件を吊り上げてきそうな匂いがする」


いつもより言葉の端々に、当主としての苛立ちが滲んでいた。ノエル様が仕事の愚痴めいたものを口にするのは、珍しい。それだけ、この件を厄介と見ているのだろう。


「先方が、こちらに来るのですか」

「いや、俺が出向く。街の南、ちょうど中間にある古い宿場町で会う。……はあ、日帰りで済ませたい」

「かしこまりました。留守番の手配は、私が」

「いや」


ノエル様は、手紙を軽く指で叩いた。


「シエル。お前も来い」


一瞬、意味が測りかねた。


「私、ですか」

「ああ。護衛としてじゃなく、当主の連れとしてだ。……見せておきたいものがある。屋敷の中だけじゃ、分からんことも多いだろう」

「メイド服のまま、でよろしいのですか」

「ああ。その格好のままでいい。むしろ、その方がいい」


その理由を、すぐには読み取れなかった。だが、深く聞き返すことはしなかった。ノエル様には、ノエル様の考えがある。それが後で分かることは、これまでの経験で学んでいた。

シュピが、パンをかじる手を止めて、こちらを見ていた。


「お姉ちゃんが、いなくなるの?」

「日帰りだ。夕方には戻る」


ノエル様が代わりに答えた。シュピは少しだけ不安そうな顔をしたが、それでも頷いた。この数日、彼は少しずつ、大人の判断に自分の不安を差し挟まないようになっている。それが健全なことなのかどうか、私にはまだ分からない。ただ、彼が我慢することを覚え始めているのは事実だった。


「シュピは、屋敷でトムと一緒にいてくれ。厨房の手伝いを頼んでもいいか?」

「うん、いいよ。……お姉ちゃん、あの、鳥は?」

「懐に、あります」

「うん。……じゃあ、大丈夫だね」


自分で自分を納得させるような言い方だった。未完成の木彫りの鳥。あれを持っている限り、私が無事に戻るのだと、彼の中でそういう決まりになっているらしい。根拠のない約束だが、その根拠のなさが、彼にとっての心の支えなのだとしたら、私は何も言うべきではない。


「よし。じゃあ、シエル、支度をしろ。半刻後に出る」


ノエル様の指示は、いつも通り迷いがない。私は頷いて、自分の身支度に取りかかった。



 自室で、剣を帯びるかどうか、少しだけ迷った。当主の連れとして剣を差すことは、場によっては不穏に取られる。だが、ノエル様に尋ねるまでもなく、答えは出ていた。出向く以上、護るための手段は持っていく。メイド服の下に、細身の剣を帯びる。外からは分からない。これもまた、屋敷で覚えたやり方だった。


馬車が屋敷の門を出た時、空はまだ朝の色を残していた。護衛は、御者役のトム以外に、雇っている警備の兵が二人、後方の馬に乗って続く。決して大がかりではないが、以前なら考えられない厳重さだ。

門を出る直前、私は一度だけ、森の方角に視線を向けた。あの見張り場所は、今日は誰もいないだろうか。三人は南へ去ったはずだが、確証はない。視線の先の木々は、朝靄の中に静かに佇んでいただけだった。


「シエル。今日の会談で、お前は基本、喋らなくていい」


馬車の中で、ノエル様が言った。


「ただ、相手をよく見ておいてくれ。……人が本音を隠す時の顔つきを、俺より、お前の方が読める気がする」

「そうでしょうか」

「戦場帰りの目は、そういうものを見逃さない。俺は貴族の顔しか見てこなかったから、逆に分からん時がある」


その言い方に、私は少し驚いた。ノエル様が、自分の弱点をこういう形で口にすることは、あまりない。


「……お役に立てるよう、努めます」

「気負うな。ただ、隣に立っててくれるだけでいい」


軽い言い方だったが、その裏に、確かな信頼のようなものを感じた。連れて行く相手として、私を選んだこと自体が、答えなのかもしれない。以前の私なら、こういう「役割ではない同行」の意味を、うまく理解できなかっただろう。今は、少しだけ、その温度が分かる。


馬車が街道を進む間、ノエル様は書類の束を開いて、目を通していた。私はその横で、窓の外を眺めていた。



 街道は、小さな橋を渡り、緩い丘陵を越えていく。エステル領を出て、隣の領地に入るのは、私にとって初めてのことだった。景色は、大きくは変わらない。だが、道行く人々の服装や、点在する家屋の作りに、少しずつ違いがあった。エステル領の家は、軒先に小さな花を飾る習慣があるが、こちらでは代わりに、風除けの布を掛けている家が多い。土地が変われば、人の暮らしも変わる。当たり前のことのようで、実際に目で見ると、新鮮な発見だった。


畑で働く農夫たちが、馬車の紋章を見て、帽子を取って頭を下げる。その仕草が、エステル領の人々よりも、少しだけ堅い。領主への敬意というより、慣習としての礼という感じがした。領主と民の距離も、土地によって違うものなのだと、また一つ学んだ。


「シエル」


書類から顔を上げず、ノエル様が言った。


「知らない土地を見るのは、初めてか?」

「エステル領以外は、ほとんど。……戦場は、別として」

「戦場は、土地を見る余裕なんてないだろう」

「はい。見るべきものは、敵と、地形だけでした」

「今日は、余裕を持って見ていい。……仕事の合間だが、それも当主の連れの、役得ってやつだ」


そう言って、ノエル様は少しだけ笑った。俺様な物言いの中に、ふと差し込まれる、こういう柔らかさが、この人らしいと思う。


「あの、ノエル様。……今日の会談の相手について、教えていただけますか」

「カイルム家の当主、ベルンだ。先代の頃からの付き合いで、顔自体は、腐るほど見てる。……笑いながら、袖の下を数える男だ。表向きは人がいい。本当に人が悪いわけでもない。ただ、損を絶対にしない男だ」

「損をしない、というのは」

「どんな交渉でも、最終的に自分が得になる結末に持ってくる。……今日も、そういう腹だろう。通行税の話は、たぶん、入り口に過ぎん」

「では、本題は別にある、と」

「おそらくな。……それが何かは、会ってみなければ分からん。だから、お前の目を借りたいんだ」


道中の中ほど、街道沿いの小さな茶屋で、馬を休ませた。護衛の兵たちは交代で周囲を見張り、私とノエル様は、茶屋の簡素な席に座った。


出されたのは、煎った麦の香りがする、素朴なお茶だった。ノエル様はそれを、何の躊躇もなく口にする。


「うまいか?」

「……はい。屋敷のものより、香ばしいです」

「こういう店の茶は、案外いいもんだ。身分を伏せて歩くと、こういう発見がある」

「身分を、伏せて歩くのですか、ノエル様は」

「昔は、よく抜け出したよ。……今は、そうもいかん。当主がふらつくと、家の者が色めき立つからな」


懐かしむような、少し自嘲するような口調だった。茶を飲む手つきも、屋敷の食堂のそれとは、どこか違って見える。ここにいるノエル様は、エステル卿ではなく、少しだけ、年相応の青年の顔をしていた。

その時、茶屋の軒先に、行商の荷車が止まった。荷の中に、小さな飴細工が並んでいるのが見えた。私は、それを見ながら、シュピのことを思い出していた。


「買っていくか?」

「いえ……あの、はい」


正直に頷いた自分に、少し驚いた。ノエル様は、くすりと笑った。


「正直でいいな。……ほら、行け」


小さな飴を二つ、買った。一つはシュピに。もう一つは、誰に、とは考えなかった。考えないうちに、二つ買っていた。そういうことが、最近、時々ある。



 昼前、馬車は目的の宿場町に着いた。古い石畳の広場に面した、こぢんまりとした宿の一室が、会談の場所だった。到着してすぐ、隣領の当主とその側近が待っていた。カイルム家の当主、ベルンは、五十ぐらいの様相をした男だった。恰幅がよく、笑顔を絶やさない。だが、その笑顔は、目まで届いていなかった。ノエル様が言っていた「本音を隠す顔」を、私は最初の挨拶の瞬間に見つけた。


「エステル卿、遠路よくお越しくださった。……そちらのお嬢さんは?」

「うちの者です。同席させても、構わないでしょう?」

「もちろん。麗しいお連れですな」


社交辞令の言葉に、私は軽く礼をするだけに留めた。名乗るまでの必要はないという、ノエル様の判断だろう。だが、その瞬間、ベルンの隣に立つ側近の男が、一瞬だけ、目を見開いたのを、私は見逃さなかった。銀髪を見ての反応だろうか。驚きは、すぐに取り繕われたが、最初の一瞬の反応というのは、取り繕うことができない。


会談は、想像通りの展開になった。


ベルンは、北の街道の通行税について、複雑な理由を並べ立てながら、条件の見直しを求めてきた。エステル領の治安への懸念、警備コストの増大、商人からの苦情——どれも、もっともらしい理由だ。話の腰の据え方、数字の並べ方は、さすがに年季が入っていた。ノエル様は、静かに聞いていたが、その表情は、朝食の席で見せた苛立ちとは違い、冷静に凪いでいた。


「……つまり、通行税を、二割上げたい、ですか」

「一時的な措置として、ですな。エステル領の治安が回復すれば、元に戻せばよい」

「治安の懸念、というのは、具体的にどういう根拠ですか?」

「先日の、屋敷への襲撃事件です。あれ以来、北の商人たちの間で、エステル領を通ることへの不安の声が」


ノエル様は、少し間を置いて、答えた。


「不安の声、というのは、どこから聞いたのでしょうか?」

「商人たちから、直接ですよ」

「名前を、教えてもらえますでしょうか」


ベルンの笑顔が、初めて僅かに揺れた。


「それは……多くの者からの、総意でして」

「総意ならば、代表者の名前くらいは、分かるでしょう。……いや、責める気はない。ただ、私も領内の状況を正確に把握したい。誰が、何を懸念しているのか、こちらでも対応したいですから」


言い方は柔らかいが、内容は明らかに、相手の言い分の根拠を崩そうとしていた。私は、ベルンの側近の男の顔を、そっと観察していた。この男の視線が、ノエル様ではなく、時々、私の方に流れているのに気づいた。ただの好奇心ではない。何かを、確かめようとするような目つきだった。値踏みするような、というのが近いかもしれない。宿の女将が、あの学者について使った言葉と、同じ種類の目だった。


「……エステル卿、そう詰められては、こちらも困りますな」

「詰めているつもりは毛頭ありません。ただ、根拠のない噂で領政を動かすのは、俺の流儀じゃないってことだけですよ」


ノエル様の口調は、これまでで一番、当主らしい強さを帯びていた。相手を見下すのではなく、対等な立場で線を引く。そういう強さだった。


「流儀、か。……ふむ」


ベルンは、あごに手を添え、少しの間、黙り込んだ。それから、話題を変えるように、別の議題を持ち出した。秋の市の警備分担。街道沿いの井戸の修繕。どれも、枝葉の話だった。本題は、もう終わったのだと、私には分かった。



昼食を挟んで、会談は午後まで続いた。休憩の間、宿の裏庭で、ノエル様と二人きりになった時、私は聞いた。


「ノエル様。あの側近の男は、私を見ていました」

「ああ。気づいたか」

「はい。……値踏みするような目でした」

「値踏み、ね。……うまい言い方をするようになったな」


ノエル様は、苦笑いを浮かべた。だが、その目は、笑っていなかった。


「うちの屋敷に、銀髪のメイドがいる、という情報は、あの隣領も掴んでいる可能性が高い。今日の会談は、通行税の話が本題じゃなかったかもしれん。……お前を、見に来ていたんだ」


その推測は、私も途中から抱いていたものだった。会談の名目で、私の姿を確認する。もし、それが本当なら、噂の広がりは、私たちが思っているよりも、既に遠くまで届いている。


「ノエル様。私を連れてきたのは、それを確かめるためでもあったのですか」

「半分は、そうだ」


ノエル様は、正直に答えた。


「向こうが見たいなら、こちらから見せてやればいい。隠していても、噂だけが一人歩きする。……実物を一度見せてしまえば、あとは相手が勝手に評価を下す。その評価がどう出るかで、向こうの本気度も測れる」

「……それは、少し、危険な賭けでは」

「ああ。危険だ。だが、何もしないまま囲まれるよりは、ましだ」


その判断の大胆さに、私は一瞬、言葉を失った。ノエル様は、私を、あえて相手の視界に晒していた。それを危険と知りながら、なお、情報を得るための布石として使っていた。


「残りの半分は」

「お前に、外の世界を見せておきたかった。……この先、屋敷の中だけで守り切れる保証は、ない。いざという時、お前が自分で判断できるように、色々なものを見せておきたいんだ」


その言葉には、当主としての計算と、それとは別の、私個人への配慮の両方が、混ざっていた。私は、何と答えればいいのか分からず、ただ、頷いた。



 午後の会談は、拍子抜けするほど穏やかに終わった。通行税の見直しは、両家で改めて調査した上で判断する、という結論に落ち着いた。ノエル様の側が、押し切られなかった、というのが正確な評価だろう。

別れ際、ベルンが、にこやかに付け加えた。


「エステル卿。頼むから、うちの領を抜ける時は、静かに頼みますよ。……あの娘さんが剣を持って歩いていたら、うちの民が腰を抜かす」

「……察して、何事もなかったように見えた振りをするのも、隣人の勤めでしょう」

「はっはっは。それもそうですな」


メイド服の下の剣に、気づかれていた。ノエル様の表情は崩れなかったが、その返しの速さに、私は内心で感嘆した。宿を出て、馬車に戻る途中、ノエル様が小さく息を吐いた。


「……疲れた」

「お疲れさまでした」

「ああいう場は、剣を振るう方がまだ楽だな。……いや、俺は振るえないが」


冗談めかした言い方に、私は少しだけ笑った。笑う、という反応が、こういう場面で自然に出るようになったのは、いつからだろう。自分でも、驚くことがある。



帰りの馬車の中、ノエル様は、来た時よりも口数が少なかった。書類も開かず、腕を組んで、窓の外を見ていた。夕日が、街道を長く照らしている。馬の蹄の音が、規則正しく、石畳に響く。護衛の兵たちの姿が、後方に、小さく見えた。


「……シエル」

「はい」

「お前を、うちに置いておくのは、正しい判断だったと思うか?」


その問いに、私はすぐには答えられなかった。ノエル様が、こういう問いを口にしたのは、初めてだった。当主として、常に迷いなく決断を下してきたこの人が、今日はどこかで、その決断そのものを、揺らがせている。


「……分かりません」


私は、正直に答えた。


「私が、ここにいることで、ノエル様に、多くの負担をかけていることは、事実です。それに私の表に出るというリスクもそこに重なってきます。……でも、私は、ここにいたいと、思っています」

「そうか」

「勝手な答えかもしれませんが」

「いや、それでいい」


ノエル様は、少しだけ笑った。


「勝手な答えを、お前が言ってくれることが、俺には、何よりの答えだ」


言葉の意味を、完全には理解できなかった。だが、その言い方の柔らかさに、何かが胸の奥で、ゆっくりと温かくなるのを感じた。それが何という感情なのか、名前をつけるのは、まだ先でいい。


「今日は、助かった。お前がいてくれて、よかった」

「……それは、メイドとしての評価、ですか」

「違う。……シエル個人として、だ」


その言葉に、私は答えられなかった。答えの仕方が、分からなかった。ただ、頬が少し熱くなったような気がして、窓の外に目を逸らした。夕日のせいだと、自分に言い聞かせる。そういう言い訳ができるようになったこと自体が、以前の自分からすれば、信じられない変化だった。


夕暮れ、馬車が屋敷の門に到着した時、シュピが玄関の前に立って待っていた。私たちの姿を見つけると、走り寄ってくる。


「お姉ちゃん!ノエル様!おかえりなさい!」

「ただいま、シュピ」

「ノエル様、お仕事、大変だった?」

「まあな。……お前は、いい子にしてたか?」

「うん!トムと、パン、焼いた!焦げたのはトムのせい!」


シュピの元気な声を聞いて、ノエル様の表情が、朝からずっと張り詰めていたものから、少しだけ緩むのが分かった。私は懐から、小さな飴を取り出して、シュピに渡した。


「帰りの街道で、買ってきました」

「……!お姉ちゃん、ありがとう!」


シュピの顔が、ぱっと明るくなった。その笑顔を見て、買ってきてよかったと、素直に思った。こういう素直さも、以前の自分にはなかったものだ。


「もう一つは?」


シュピが、私の手元を見て尋ねた。


「……それは、内緒です」

「ええー、なに、誰の?」


答えずに、私は食堂へ向かった。もう一つの飴は、今夜、ノエル様の書斎に、そっと置いておこうと思っていた。疲れた時に、甘いものは効く。トムが、そう言っていたからだ。そういう気遣いのことを、なんと呼ぶのか、私はまだ知らない。知らないまま、やってしまっている。


屋敷に入ると、トムが、慌てた様子で書斎から出てきた。


「ノエル様、お帰りなさいませ。……ご不在の間に、一つ、報告が」

「何だ」

「街の自警団から、連絡がありました。……例の、学者と連れの三人、今朝から、街を離れたとのことです。行き先は、南の街道方面と」


南。私たちが今日、向かった方角だった。会談の場所とは違うが、経路の一部は重なっている可能性がある。


「……時間は、いつ頃だ」

「明け方に近い頃だそうです。自分たちより、ずっと早い」

「つまり、今日の会談の場所は、向こうも知っていた可能性がある、か」


ノエル様の声が、低くなった。もしそうなら、今日の道中、私たちも見られていたことになる。茶屋での休憩も、飴を買ったことも、全て。

私は、無意識に、懐の中の鳥の木片に触れていた。無事に戻ってきた。約束は、果たされた。だが、その帰路のどこかに、見ている目があったのだとしたら。


「シエル」


ノエル様が、こちらを見た。


「明日から、もう少し、話し合うことが増えそうだ」


その一言に、私は頷いた。今日の会談の意味も、隣領の側近の視線も、そして街を離れた調査員の行き先も——全てが、まだ形にならないまま、確かにこちらへ近づいてきている予感があった。


シュピが、私の手を引いて、厨房の方へ連れて行こうとする。


「お姉ちゃん、パン、味見して!僕が焼いたの!焦げてないやつ!」

「はい、いただきます」


引かれるままに廊下を歩きながら、私は、背後で書斎に向かうノエル様の後ろ姿を、ちらりと振り返った。あの背中が、これから背負うものの重さを、私はまだ、完全には想像できずにいた。



 夜、自室で、私は今日の出来事を頭の中に並べた。手帳には、書かない。忘れないからだ。忘れたくないから、覚えている。ベルンの揺れた笑顔。側近の値踏みする目。南へ向かった三人。ノエル様の、勝手な答えを喜ぶ顔。そして、シュピの、焦げてないパン。考えているうちに、窓の外で、夜の鳥が一度だけ鳴いた。その声が止んだあとの静けさの中、私は、明日のことを、少しだけ考えた。

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