第三話:調査員
夜明け前の屋敷は、いつもより静かだった。型稽古を終えた私は、朝靄の残る庭で、剣を鞘に納めた。昨日の報告を聞いて以来、剣筋の動きが、いつもより速い。焦り、というものかもしれない。敵が形を見せ始めた以上、こちらも無意識のうちに、身構えているのだろう。
朝食の席で、ノエル様は昨夜の報告について、いつもより硬い声で切り出した。
「昨日トムから聞いたと思うが、旅人の連れが二人、森で見られたらしい。……なら、放っておく理由はない」
「はい」
「シエル。今日はお前とトムで、その森を見てきてくれ。俺は街の方の手配をする。今日中に、状況を把握したい」
以前のノエル様なら、「見てきてくれるか」というような、柔らかい言い方をしていただろう。今日は違う。判断も、指示も、迷いなく言い切る。夜襲の後、この人は少しずつ、こういう物言いをするようになっていた。
「かしこまりました」
「トム。地図は用意させた。森の東側、教会堂に近い場所だ。危ないと思ったら、すぐ引け。……無理はさせない」
「はい、ノエル様」
「その前に、一つだけ言っておく」
ノエル様は、羽根ペンを置き、私をまっすぐ見た。
「昨日の夜、自警団長のところに、俺から連絡を入れた。街の巡りも、昼間は増やさせる。……今回の件、俺は、もう『様子見』の段階じゃないと判断した。お前も、トムも、それを頭に置いて動け」
「……承知しました」
様子見ではない。つまりこの人は、あの三人を、ほぼ敵と断定している。根拠を詰められれば、まだ弱い立場かもしれない。それでも決断を先にする。それが、今のノエル様のやり方だった。
シュピが、朝食のパンを手に持ったまま、心配そうにこちらを見ていた。
「お姉ちゃん、気をつけてね」
「大丈夫です。トムもいますし、すぐに戻ります」
「……うん」
完全に安心した顔ではなかったが、それ以上は言わずに頷いた。この数日で、彼が抱えているものの一端を知ったせいか、その表情の裏にある感情を、以前より少しだけ読み取れるようになっていた。
「シュピは、今日は屋敷の中で。俺が見ておく」
ノエル様がそう言うと、シュピは少しだけ表情を緩めた。ノエル様の言葉には、いつも、有無を言わせない安心感がある。それが、当主としての立場からくるものなのか、生来の性質なのか、私にはまだ判断がつかない。
「お姉ちゃん、行く前に、これ」
シュピが、懐から小さな木彫りの飾りを取り出した。先日、街で買った木片を、彼が夜な夜な削っていたものだ。鳥の形をしているらしかったが、まだ羽の部分しかできていない。
「まだ途中だけど。……帰ってきたら、続き、見せるから」
「……分かりました。預かります」
無事に帰ってくる約束の形代だ。シュピなりの、気遣いだろう。私はそれを丁寧に受け取り、懐に収めた。剣より軽いものが、妙に、重く感じられた。朝食を終え、私はトムと共に、街の外れの森へ向かった。
街道を歩く間、トムは何度か口を開きかけては、黙った。会話が苦手な人間ではないはずだが、今朝はどこか落ち着きがない。
「トム。何か、気になることが」
「……いえ。すみません。ただ、昨夜、厨房の者たちの間でも、少し話になっていまして」
「どんな話を」
「宿の下働きの子が、夜中に声をかけられたって噂を、市場の方で聞きました。詳しいことは、まだ。でも、屋敷のことを聞かれたらしい、と」
街の情報は、私たちが思うよりも早く回っている。噂の届く速度は、常に、私たちの警戒より半歩先を行く。それは、この街に来てから変わらない、この街の性質だった。
「……その件については、後で私が話を聞きに行きます」
「よろしくお願いします」
森の入り口に着く頃には、朝日が木々の間から射し始めていた。教会堂は、木々の間から、古びた尖塔が見える程度の距離にある。かつてシュピを見つけた場所——その記憶が、無意識に足を重くさせているのを感じた。
「レイラさん、この辺りから、足跡が残っていますね」
トムが、地面を指差した。柔らかい土の上に、複数の足跡が交錯している。一つは、明らかに旅人らしき軽い革靴。もう一つは、もっと重い、実用的な靴底の跡だった。
私は跡をなぞるように歩きながら、確認する。足跡の深さと歩幅から、体格を推測する。一人は軽量で、慎重な足取り。もう一人は、しっかりとした体重移動——訓練を受けた者の歩き方だ。三人目は、その中間。
(……この足跡は何か違和感が残りますね。)
私たちの敵になり得る者がこんな分かりやすいように足跡を残すのだろうか。無警戒でいられると考えているのか。それとも——
「この二人目の足跡、只者じゃないですね」
トムの声が、微かに緊張していた。私も、同じことを感じていた。学者を名乗る男の連れが、こういう歩き方をする人間だとすれば、単なる護衛という以上の意味があるかもしれない。
「足跡は、こちらに続いています」
私たちは、森の中を静かに進んだ。枯れ枝を踏まないよう、息を潜めるように歩く。トムの足取りも、護衛としての訓練を受けてから、以前よりだいぶ静かになっている。屋敷の者たちが、少しずつ、変わりつつあるのを感じた。
森を進むと、焚き火の跡があった。灰はまだ新しく、昨夜のものと思われる。周囲には、食事の残骸――乾燥パンの欠片と、水を入れた革袋が一つ、置き忘れられていた。
「これは……」
トムが、革袋を拾い上げようとしたところで、私は手で制した。
「触らないでください。何か仕掛けがあるかもしれません」
慎重に、視認だけで確認する。革袋には、見慣れない紋章が焼き印されていた。剣でも、家紋でもない、幾何学的な図形——三本の線が、一点で交わるような模様だ。見たことのない印だった。
その紋章を見た瞬間、私の記憶の奥で、何かが微かに鳴った。見覚え、があるような気がした。戦場か、それとも、もっと昔か。思い出そうとして、頭の中に靄がかかるだけだった。
「レイラさん、これ、記録した方がいいですかね」
「はい。……ノエル様に報告します」
紋章を紙に書き写し、周囲をさらに調べる。焚き火から少し離れた場所に、踏み固められた跡があった。誰かが、長時間、そこに立っていたような跡だ。視線の先を追うと、エステル家の屋敷が、遠くに見える方向だった。
背筋に、冷たいものが走った。彼らは、単に街を調べていただけではない。屋敷そのものを、観察していた可能性がある。
「トム。ここから、屋敷の何が見えますか」
「ええと……」
トムがその場所に立って、目を凝らした。
「屋敷の東の棟が見えますね。あと、門と、庭の一部。……あ」
「何か」
「東の棟というと……レイラさんたちの部屋がある方、じゃないですか」
言われて、私もその位置関係を確かめた。確かに、この場所から見えるのは、私とシュピの居室がある側の棟だ。見張るにしても、入り口や警備の動きを知るにしても、都合のいい位置。そして、何より——私たちの生活圏を、直接、視界に収められる位置だった。
選ばれた場所だ。偶然の野営地ではない。
「周辺の草の倒れ方から見て……ここにいたのは、昨夜だけじゃありません」
草の倒れは、何度も踏まれた後だった。少なくとも、三日は繰り返し、この場所に人が立っている。
「戻りましょう。これ以上は、危険かもしれません」
トムと共に、屋敷へ戻る道を急いだ。帰り道、トムは一度だけ、振り返った。
「レイラさん。……こんなことを聞くのは、僭越かもしれませんが」
「何ですか」
「あなたは、怖くないんですか。こういう時」
問いの意味を、私は少し考えた。戦場では、恐怖は感覚として常にあった。だが、それを感じることを、自分が「怖い」として言葉にすることは、長いことなかった。
「怖いかどうかは、分かりません。ただ、守るべきものがあることだけは、はっきりしています」
「……すごい人だなって、いつも思います」
「すごいのではありません。……ただ、それ以外のやり方を、知らないだけです」
その答えに、トムは何も返さなかった。だが、少しだけ、足取りが軽くなったように見えた。
街に入ると、市場はいつも通りの賑わいだったが、空気の端に、微かなざわめきが混じっていた。数人の商人が、顔を寄せ合って何か話している。その中の一人が、私たちに気づいて、声をかけてきた。
「レイラさん、聞きました?昨日の夜、変な話があったって」
「変な話、とは?」
「ええ。夜中に、宿場の裏で、誰かが誰かに、こそこそ質問してたらしくて。……エステル家の護衛体制について、聞いていたって」
心臓が、跳ねる感覚があった。屋敷の警備の情報を、直接聞き出そうとする者がいる。学者の連れの誰かが、そうした動きをしているのだとすれば、これはもう、単なる観察の域を超えている。
「詳しく、教えていただけますか」
「私も、聞いた話だから、詳しくは分からないけど……声をかけられたのは、確か、宿の下働きの子だって。夜警の人数とか、交代の時間とか、聞かれたみたいで」
「その子は、今、どこに」
「宿にいると思いますよ。怖がって、部屋にこもってるとか」
私は、トムに視線を向けた。
「先に屋敷に戻って、ノエル様に報告してください。私は、宿の子から話を聞いてきます」
「一人でですか?」
「はい。時間が惜しいです」
トムは、少し迷った様子だったが、頷いて屋敷へ向かった。
宿に着くと、女将が心配そうな顔で出迎えた。
「銀髪のメイドさん。……やっぱり、あのことでいらしたんですね」
「はい。あの子と、話せますか」
「少し落ち着きましたから、大丈夫だとは思いますが……あんまり、驚かせないでやってくださいね」
女将の案内で、裏の小部屋に通された。宿の下働きの少年は、女将の陰に隠れるように、部屋の隅に座っていた。歳は、シュピと同じくらいだろうか。私が近づくと、怯えたように身を縮める。
私は、わざと少し離れた場所に膝をついた。目線を、少年と同じ高さにする。この距離の取り方も、屋敷で学んだことの一つだった。
「怖がらせるつもりはありません。少しだけ、話を聞かせてもらえますか」
少年は、女将の顔を見て、それから、小さく頷いた。
「……夜中に、裏庭で薪を運んでたら、知らない人に、声かけられて」
「どんな人でしたか」
「旅の人、みたいな格好で……でも、目つきが、怖かった。優しい声で話すのに、目は、全然笑ってなくて」
その特徴は、女将が以前語った学者の描写とは、少し違う。学者本人ではなく、連れの一人かもしれない。
「何を聞かれましたか」
「屋敷の……見張りの人数とか、いつ見張りが交代するのかとか。あと……」
少年は、言葉を切って、また怯えた顔になった。
「あと、何ですか」
「銀色の髪の人が、いつ、外に出るのかって。その人が、いつも、どこにいるのか。部屋が、どっち側にあるのか、まで……」
その一言で、確信に近いものが胸に落ちた。彼らは、屋敷の警備を調べているだけではない。私自身を、直接、標的として観察している。部屋の位置まで聞き出そうとしたということは、単なる情報収集ではない。侵入の準備に近い。
「その質問に、答えましたか」
少年は、首を横に振った。
「怖くなって、逃げたから。だから、何も言ってない。本当だよ」
「そうですか。……よく逃げましたね。正しい判断です」
少年の顔が、少しだけ綻んだ。褒める、ということが、この年齢の子供にどれほど効くか、私はシュピから学んでいた。
「よく話してくれました。他に、何か聞かれたことはありますか」
「もう、一つだけ。お礼に、これ、あげるって、渡されて」
少年が差し出したのは、小さな硬貨だった。ただの硬貨に見えるが、片面に、あの焚き火の跡で見た紋章と同じ模様が、微かに刻まれている。
「これは、私が預かってもいいですか。何かの、証拠になるかもしれません」
少年は、素直に硬貨を渡した。
「お姉さん。……あの人たち、悪い人なの?」
「……分かりません。でも、もしまた、この街でその人を見かけたら、近づかないでください。すぐに、誰かに知らせるのです」
「うん。分かった」
私は、丁重に礼を言って、宿を出た。宿を出て、街の中心へ向かう途中、私は一度だけ、立ち止まった。ざわめきの中に、微かな違和感を感じたからだ。見られている、という感覚。戦場で何度も経験した、皮膚が締まる感じ。
ゆっくりと、振り返る。人混みの向こう、露店の影に、灰色の外套を着た男の姿が見えた。こちらを見ている。距離は、二十間ほど。視線が合った瞬間、男は何事もなかったかのように、人混みの中へ消えていった。追うべきか。追えば、捉えられるかもしれない。だが、人混みの中で剣を抜くわけにはいかない。それに、追い込むことで、向こうがどう動くか、読み切れない。
私は、男が消えた方向を、記憶に刻むだけにした。
屋敷へ戻ると、ノエル様が書斎で、トムの報告を受けている最中だった。私が入ると、二人とも、こちらを見た。
「シエル、森の様子は」
私は、焚き火の跡、紋章、屋敷への視線の跡、繰り返し使われた見張り場所、そして宿の少年から聞いた話と、硬貨のこと、街で見た男のことを、順に報告した。ノエル様は、黒く硬い表情のまま、話を最後まで聞いた。
「硬貨、見せてくれ」
差し出すと、ノエル様は、それをしばらく見つめた。
「この紋章、見覚えはない。だが、旅の学者が、こういうものを持ってるとは思えないな」
「はい。私も、そう思います」
「それに、お前の部屋の位置まで聞き出そうとしていた、と。……もう、遠回しな観察の段階は、向こうが終わらせたな」
「はい」
「決めた」
ノエル様の声が、いつもより低く、強くなった。
「今日から、屋敷の警備を、さらに一段階上げる。街への外出は、当面、最小限に留める。夜の見張りは、俺の指揮で組み直す。……それと、この件は、俺が直接、街の自警団と話をつける。旅人風情に、好きにやらせておく気はない」
有無を言わせぬ言い方だった。以前のノエル様なら、もっと慎重に、周囲の意見を聞きながら決めていただろう。今日は、決断が先にあり、説明が後からついてくる。それが、この人の新しい面なのか、あるいは、この状況が、そうさせているのか。
「シエル。お前は、今日はもう外に出るな。俺の目の届く範囲にいてくれ」
「……分かりました」
「それと」
ノエル様は、少し間を置いてから、言った。
「街で男を見た件、お前が追わなかったのは、正しい判断だ。……以前のお前なら、追っていた。おそらく、捉えていた。だが、人混みの中でそれをやれば、話はもっと厄介になっていた」
「……はい」
「お前が変わってきていることは、俺にも分かる。……悪くない変化だと、俺は思っている」
その言葉は、戦場で使われたことのない種類のものだった。剣の冴えを讃える言葉ではなく、剣を置く判断を認める言葉。それが、自分に向けられたものだと、はっきり分かった。
「シュピにも、この件は、少しだけ話しておく。全部隠すのも、良くない気がする」
私は、その判断に、頷いた。以前は、子供に不安を与えるべきではないという理由で、多くのことを伏せていたはずだ。今日のノエル様は、その線引きを、少し違う場所に置いているようだった。
夕食前、ノエル様の言葉通り、シュピに状況の一部が伝えられた。食堂の隅で、私は二人のやり取りを見守っていた。
「つまり、変な人たちが、街にいるってこと?」
「そうだ。だから、しばらくは、屋敷の中にいてもらう」
「うん。分かった」
シュピの返事は、思ったよりも落ち着いていた。
「驚いたな。もっと、怖がるかと思ってた」
「……僕は、もう大丈夫。お姉ちゃんも、ノエル様もいるから」
その言葉を聞きながら、私は、彼が昨夜見た夢のことを思い出していた。彼の強さは、怖くないからではない。怖いものを知っているのに、それでも、この場所を信じようとしている。そのことが、私には、彼の一番の強さに思えた。
夕食の席は、いつもより静かだった。だが、その静けさは、不穏なものではなかった。それぞれが、それぞれの持ち場を、改めて意識している静けさだ。トムは明日の警備配置を頭に描き、シュピは黙々とパンを頬張り、ノエル様は書類の束を脇に置いて、時折、窓の外に目をやる。
「シエル」
食後、席を立つ前に、ノエル様が声をかけた。
「今日の分、手帳には書くのか?」
その問いに、私は少しだけ、黙った。
「……書きません。忘れないので」
「そうか」
ノエル様は、短く笑って、書斎へと向かった。
夜、自室の窓から、私は街を見下ろした。あの少年に声をかけた男が、まだこの街のどこかにいるのだろうか。硬貨に刻まれた紋章の意味を、まだ私は知らない。だが、それが、何かの組織の印であることだけは、確信していた。見覚えの気配がする紋章。思い出せない記憶の靄。そのどちらもが、今夜の眠りを、少し浅いものにする予感があった。
窓の外、日が沈んだ街の一角に、一瞬、こちらを見上げるような人影が見えた気がした。目を凝らした時には、もう、そこには誰もいなかった。
見間違いだったのか、それとも——。答えの出ない問いを抱えたまま、私は窓辺を離れた。懐の中で、シュピが託した鳥の木片が、微かに温かかった気がした。
ご拝読ありがとうございました。
21時投稿か、17時投稿かを今真剣に悩んでいます。
21時投稿にするのは、五章からになるとは思いますが、、、




