第二話:眠れない夜
夜中に物音で目が覚めることは、私にとって珍しいことではない。戦場での癖が、今もまだ抜けていないからだ。だが、その夜の物音は、いつもと違う種類のものだった。小さな、押し殺した声。
隣の部屋——シュピの部屋から聞こえてくる。壁越しでは、はっきりとした言葉までは分からない。ただ、寝言というよりも、何かに耐えているような、途切れた呼吸の音だけが伝わってきた。
しばらく耳を澄ませていたが、声はすぐに止んだ。眠り直したのだろうか。私は自分にそう言い聞かせて、目を閉じた。だが、朝になっても、その音のことが、頭の片隅に残っていた。
朝食の席で、シュピはいつも通りに見えた。
「お姉ちゃん、おはよう」
「おはようございます」
パンを頬張り、ノエル様の火起こしを眺め、他愛のない話をする。目の下に、微かな影があることに気づいたのは、私だけだったかもしれない。
「シュピ、よく眠れましたか」
「うん、いつも通り」
即答だった。感情を測ることについて、私はまだ得意ではない。だが、こういう「早すぎる返事」には、何かを隠す時の癖が滲むことを、経験として知っていた。かつての自分も、そうだったからだ。
「そうですか」
それ以上、追及はしなかった。まだ、確信もないうちに踏み込むのは、彼が心を閉じる原因になりかねない。それくらいの慎重さは、この屋敷での日々が教えてくれた。
その日は、外出の制限が続いていたこともあり、屋敷の中で過ごす時間が多かった。シュピは庭で、火の魔法の練習をする。三十秒、灯し続ける。その目標の安定に向かって、彼は毎日、同じ動作を繰り返していた。
「お姉ちゃん、見てて。今日は、二十九秒だった」
「惜しいですね」
「うん。……あの日は超えたんだけどね」
真剣に悔しそうに眉を寄せる顔は、いつもと変わらない。この様子を見ていると、夜中の声のことが、思い違いだったのではないかとさえ思えてくる。だが、その夜も、同じ音が聞こえた。三度目の夜、私は部屋を出て、シュピの部屋の前に立った。扉の向こうから、小さく、途切れた声が漏れている。
「……や……番号」
はっきりとは聞き取れなかったが、その断片は、私の中の何かに触れた。番号。かつての自分にも、そう呼ばれていた時期があった。あれがどういう感覚だったか、忘れたつもりでいたが、実際には、まだ身体の奥に残っているのかもしれない。
扉を叩くべきか、迷った。介入することが、正しいのかどうか。眠りの中の苦しみに、外から手を伸ばすことに、意味があるのか。答えの出ない問いを抱えたまま、私は結局、その夜は扉を叩かずに、自室へ戻った。
翌朝、シュピの顔色は、明らかに悪かった。
「シュピ、顔色が」
「大丈夫だって。ちょっと、寝不足なだけ」
「昨夜も、あまり眠れなかったのですか」
「……なんで、そんなこと聞くの」
初めて、シュピの声に、苛立ちが混じった。私は、それに驚く。今までの彼は、こういう不機嫌さを、私に見せることがなかった。
「壁の向こうから、声が聞こえました。何度か」
シュピは、しばらく黙っていた。それから、視線を逸らしたまま、小さく言った。
「……聞いてたんだ」
「はい」
「……なんでもないよ。ただの夢」
「どういう夢か、話してくれますか」
「話したくない。お姉ちゃんには」
その拒絶は、想定していたよりも強かった。「お姉ちゃんには」という一言に、私は微かな違和感を覚える。話したくない理由が、内容そのものではなく、相手が私だから、ということを示しているように聞こえたからだ。
「分かりました。話したくなったら、いつでも聞きます」
シュピは、何も答えなかった。ただ、少しだけ、私の顔を見て、また視線を逸らした。その表情の中に、何か、私に見つけられたことへの安堵と、同時に、見られたことへの居心地の悪さが、両方混ざっているように見えた。
その日の午後、私はノエル様に相談した。書斎で書類を整理していた彼は、話を聞き終えると、羽根ペンを置いて、少し考え込んだ。
「悪夢、か。……前から、あったのか。それとも、最近になって」
「分かりません。壁越しに気づいたのは、三日前からです」
「三日前……夜襲があったのが、その少し前だよね。関係あるのかな」
その可能性は、私も考えていた。あの夜、シュピは襲撃の一部始終を見ていたわけではない。だが、屋敷が再び危険に晒されたという事実そのものが、彼の中の古い記憶を、揺り起こしたのかもしれなかった。
「シュピは、私に『話したくない』と言いました。……私だから、話せないのかもしれません」
「なんで、そう思う?」
「私も、かつて同じ場所にいた者だからです。私に話せば、私が思い出すかもしれない、と考えているのかもしれません」
ノエル様は、少し驚いたような顔をした。それから、静かに頷く。
「それは、シエルの考えすぎかもしれないし、当たってるかもしれない。どっちにしても、無理に聞き出すのは、良くないと思う。今は、そばにいてあげることだけだ」
「かしこまりました」
「シエルも、無理はしないようにな。……あの夜のこと、まだ、シエルの中にも残ってるだろ」
指摘されて、私は少し黙った。自分のことより、シュピのことを心配していたつもりだったが、実際には、自分自身も、まだ何かを抱えたままだったのかもしれない。
その夜、私は思い切って、シュピの部屋の扉を叩いた。返事はなかったが、鍵はかかっていなかった。そっと開けると、シュピはベッドの上で、膝を抱えて座っていた。眠っていなかったらしい。
「……お姉ちゃん?」
「起きていましたか」
「……うん。眠るの、怖くて」
その一言に、私はようやく、彼が本当に抱えているものの輪郭に触れた気がした。
「眠るのが、怖いのですか」
「……夢を見るから。いつも、同じ夢」
私は、部屋に入り、彼の傍らに、少し距離を置いて座った。無理に近づかない。それくらいの距離感は、この屋敷で学んだことの一つだった。
「話さなくても、いいです。でも、隣にいてもいいですか」
シュピは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「番号で呼ばれてる夢。僕、五番で。他にも、一番から、たくさん番号があって。……みんな、名前がなかった」
初めて、彼の口から、断片的にでも、その過去が語られた。私は、何も言わずに、続きを待った。
「ある日、順番に、連れて行かれるんだ。名前も、番号も、呼ばれなくなって。……戻ってこない子も、いた」
シュピの声が、微かに震えていた。私は、彼の手を取ろうとして、迷って、結局、そっと肩に触れるだけにした。
「怖かったですね」
「……うん。でも、今は、大丈夫。お姉ちゃんが、いるから」
「はい。私は、ここにいます」
「僕は五番じゃない。……シュピだから」
その言葉は、確認するような響きだった。まるで、自分自身に向けて、もう一度言い聞かせているようだった。
「そうです。あなたは、シュピです」
しばらく、二人とも、何も話さなかった。窓の外で、風が木々を揺らす音だけが、静かに続いていた。
「……夢の中で、他の番号の子たちが、まだ、そこにいる気がするんだ」
シュピが、ぽつりと言った。
「僕だけ、逃げてきて、あの子たちは、まだ、あそこにいるのかもしれない」
その一言に、私は、返す言葉を見つけられなかった。それは、私が考えたことのなかった問いだった。組織にいたのは、シュピだけではない。他にも、番号で呼ばれていた者たちがいたはずだ。彼らは、今、どこにいるのか。
「……分かりません。でも、もし、そうだとしたら」
「うん」
「いつか、私たちに、何かできることがあるかもしれません。今すぐには、答えられませんが」
安易な慰めは言いたくなかった。できない約束をするより、正直な今の限界を伝える方が、彼にとって誠実だと思った。
シュピは、少しだけ、笑った。
「お姉ちゃんの、そういうところ、好き」
不意打ちのような一言に、私は少し戸惑う。
「……どういうところですか」
「嘘、言わないところ。大丈夫だよ、とか、簡単に言わないところ」
その言葉に、私は何と答えればいいのか分からず、ただ、彼の隣に座り続けた。
その夜、シュピは、いつもよりずっと早く眠りに落ちた。声を殺すような、途切れた呼吸ではなく、静かな、規則的な息だった。私は、しばらくその様子を見守ってから、自室に戻った。
翌朝、シュピの顔色は、少しだけ良くなっていた。
「お姉ちゃん、おはよう!」
「おはようございます。よく眠れましたか」
「うん。……昨日は、久しぶりに、夢見なかった」
「それは、良かったです」
朝食の席で、シュピはいつもより多く、パンを口に運んでいた。ノエル様が、それを見て、微かに笑う。
「今日は、食欲あるな」
「うん。なんか、お腹すいてる」
他愛のない会話が、いつもより少しだけ、私には眩しく感じられた。悪夢が完全に消えたわけではないだろう。だが、少なくとも今夜は、彼が一人で抱え込まずにいられた。それだけでも、意味のあることだと思いたかった。
食事のあと、トムが慌てた様子で、食堂に駆け込んできた。
「ノエル様!街の方から、報告が」
「何があった」
「例の、宿を出た旅人ですが……今朝方、街の外れの森で、目撃されたそうです。一人ではなく、もう二人、連れがいたと」
食堂の空気が、一瞬で変わった。ノエル様の表情が、書類を見ていた時のものから、指揮官のそれに切り替わる。
「連れというのは、どういう風貌だった?」
「詳しくは分かりませんが……一人は、商人風。もう一人は、旅人にしては、やけに姿勢がいい、と」
私は、シュピの様子を横目で見た。彼は、パンを持つ手を止め、じっとトムの話に耳を傾けている。悪夢の話をした直後にこの報告が来たことに、意味があるのかどうか、まだ判断はつかなかった。だが、彼が再び、あの頃の記憶を引きずられるようなことがないよう、できる限りのことをしたいと、私は思った。
「シエル。今日から、また少し、周りの警戒を強めてほしい」
「かしこまりました」
窓の外、街の方角には、いつもと変わらない朝の光が広がっていた。それでも、その光の下に、何かが近づいてきている予感だけは、消えずに残っていた。




