第一話:日常という名の警戒
夜明け前、まだ空が藍色をしている時間に、私は目を覚ます。これは、屋敷に来てから変わらない習慣だった。戦場にいた頃は、目覚める時間に意味などなかった。敵が動く時間に合わせて起きるだけだったからだ。だが今は、誰に強いられるでもなく、この時間に目が覚める。身体に染みついた癖なのか、それとも、この静かな時間そのものが、私にとって心地よいものになっているのか、まだ判断がつかない。
脇腹の傷は、もうほとんど痛まなかった。
包帯を替えながら、私はその事実を、少しだけ意外に思う。人間の身体というのは、思っていたよりも早く元に戻る。あるいは、私の血が、傷の治りを助けているのかもしれない。どちらにせよ、鏡に映る自分の脇腹には、もう薄い線が残るだけだ。あの夜、初めて押し切れなかった相手につけられた傷。痛みは消えても、その事実だけは、まだ消えていない。
着替えを済ませ、庭に出る。誰もいない時間の庭で、私は型稽古を行うのが日課になっていた。剣を抜き、振り、納める。その一連の動作を、百回、二百回と繰り返す。今朝は、いつもより一つ、動作が遅かった。理由は分かっている。あの夜の男の踏み込みが、まだ身体のどこかに、警告として残っているからだ。
「傷、平気?」
稽古を終えて汗を拭っていると、部屋の入り口から、シュピが顔を覗かせていた。寝間着のまま、髪が少し跳ねている。起きたばかりらしく、目がまだ半分眠っていた。
「大丈夫です。もう、痛みません」
「ふうん」
シュピは、それだけ言って部屋に入ってくると、私の隣に座り込んだ。特に何をするでもなく、ただそこにいる。以前の私なら、その行動の意味を測りかねて、戸惑っていただろう。今は、そうしないことにしている。意味を探さなくても、隣にいたいという気持ちは、そのままでいいのだと、知ったからだ。
「今日から、また庭に出ていい?」
「ノエル様次第です。まだ、外は制限がかかっております」
「……そっか」
シュピの声が、少しだけ沈んだ。あの夜以来、屋敷の外に出ることは制限されている。子供にとって、それがどれほど窮屈なことか、私には正確には分からない。ただ、窮屈だと感じているシュピの横顔を見ていると、何か、代わりにしてやれることはないかと、考えてしまう自分がいた。
「今日は、私が庭の見回りをします。あなたも、一緒に来ますか?」
「いいの?」
「見回りですから。遊びではありません」
「分かってるよ〜、それくらい」
そう言いながらも、シュピは分かりやすく破顔した。制限の中でも、外の空気を吸えることが、嬉しいらしい。単純な子供だと思う。単純さが、羨ましいとも思う。私には、まだそういう感情の切り替えが、うまくできない。
朝食の席では、すでにノエル様が書類の束を前にしていた。眉間に皺を寄せ、羽根ペンの先で紙を軽く叩いている。トムが、その傍らで、恐縮したように立っていた。
「トム、北の街道の巡回、増やせそうか?」
「人手が、足りません。夜襲の後、辞めた者もいますし……新しく雇うにも、あの噂が広まってからは、応募自体が減っておりまして」
「分かってる。無理は言わない。ただ、今の体制で、穴がどこにあるかだけ、把握しておきたい」
ノエル様の声は、いつも通り静かだったが、その静けさの中に、以前とは違う重みがあった。あの夜以来、彼は多くの時間を、この手の相談に費やしている。領主として当然のことなのだろうが、その負担が、彼の肩に確かに乗っているのが、私には見えた。眠りが浅いのか、目の下にうっすらと影がある。それを指摘するべきかどうか、私は迷って、結局、黙っていた。
「シエル」
名前を呼ばれて、私は顔を上げた。
「今日の見回り、どこを回る予定だ?」
「屋敷の外周と、北門周辺です。あとは、街の様子も、少し見て参ります」
「街に出るなら、ついでに聞いてきてほしいことがある。……最近、長逗留している旅人がいるらしいって、噂を聞いた。宿屋の女将が、そんなことを言っていたとか」
「旅人、ですか」
「ああ。行商にしては、荷が少ないらしくて。……気にしすぎかもしれないが、念のため」
ノエル様の目が、一瞬だけ、遠くを見るような色を帯びた。夜襲の後、彼はあらゆる些細な噂に、以前より敏感になっている。それを臆病だとは、私は思わない。むしろ、正しい警戒だと考える。
戦場では、些細な違和感を見逃した者から死んでいった。それをノエル様が言葉にしなくても、実践しているのを見ると、少しだけ、誇らしいような気持ちになる。誇らしい、という言葉が正しいのかどうかは、まだ自信がない。
「かしこまりました。見て参ります」
「シュピも、連れて行くのか?」
「はい。見回りの範囲内であれば、外の空気を吸わせてやりたいので」
「……そうか。分かった。トム、誰か護衛を一人つけてくれ」
「私だけで十分です」
「シエルの腕は疑ってない。でも、二人以上いた方が、シュピも安心するだろう」
その言葉に、私は少し考えて、頷いた。ノエル様の判断は、いつも私の判断より、人の心の機微を汲んでいる。剣の腕では測れないものを、彼は当たり前のように持っている。
食事を終えて、私はシュピと、護衛のトムを連れて屋敷を出た。門の軋みは、前に油を差したおかげで、今はもう静かだ。それでも、門をくぐるたびに、あの夜の記憶が、指先の感覚として、蘇る。灰色の外套の男の力。あの、初めて押し切れなかった感触。
「……お姉ちゃん?」
シュピが、私の顔を覗き込んでいた。
「どうかした?怖い顔してる」
「……そうですか?」
「うん。時々、そういう顔してる。あの夜の後から」
指摘されて、初めて気づいた。私は、思っていたより、あの夜を引きずっているらしい。感情というものは、思考で処理し終えたつもりでも、身体のどこかに残り続けるものなのだと、また一つ、学んだ。
「大丈夫です。少し、思い出しただけです」
「無理はしてない?」
「しておりません」
嘘ではなかった。無理をしているわけではない。ただ、まだ消化しきれていない何かが、確かに、私の中にある。それだけのことだ。
北門の周辺は、平穏だった。警備の兵が二人、いつも通りに立ち、私たちに軽く頭を下げる。門の外に広がる街道も、荷馬車が行き交うだけの、いつもの光景だった。それでも、私は視線を巡らせることをやめない。揃いすぎた足並み、不自然な間合い、目的の見えない立ち止まり——そういうものがないか、確認する癖が、あの夜からより強くなっている。
「レイラさん、あちらの茂み、少し様子が」
トムが、街道脇の茂みを指差した。私はその方向に目を向け、しばらく観察する。風で揺れているだけの、ただの枝葉だった。
「問題ありません。風です」
「……失礼しました。近頃、私も落ち着かなくて」
「気にすることはありません。警戒しすぎるくらいで、ちょうどいいのです」
トムは、少し安堵したように息を吐いた。屋敷で働く者たちの中にも、あの夜の恐怖が、まだ根強く残っているのだと分かる。それを癒すのは、時間なのか、それとも別の何かなのか、私にはまだ答えが出せない。
街に入ると、市場は変わらず賑わっていた。魚の匂い、香辛料の匂い、誰かの呼び込みの声。布を売る店の前では、女たちが値段交渉に声を張り上げ、その隣の屋台では、焼いた栗の甘い匂いが漂っている。シュピが、屋台の飴を物欲しそうに見ていたので、一つ買ってやった。子供らしい仕草に、頬が緩む自分を、悪くないと思う。
「お姉ちゃんは、飴、好き?」
「特に、好みはありません」
「じゃあ、僕のあげる。一口だけ」
「結構です。あなたのために買ったのですから」
「けち」
そんなやり取りをしながら歩いていると、市場の奥で、布商人の店の前に人だかりができているのが見えた。近づいてみると、遠方から届いたという珍しい染料の布を巡って、客同士が言い争っているらしい。北の方から来た商人の荷に、その染料が混ざっていたという話で、店主が得意げに説明していた。北、という言葉に、私は一瞬だけ耳を止めたが、それ以上の意味はなさそうだった。ただの、商売の話だ。
宿屋の女将は、私の顔を見ると、待っていたとばかりに話し始めた。
「ああ、レイラさん。例の旅人ですか?ノエル様から聞いてらっしゃる?」
「ええ。詳しく、聞かせていただけますか」
「もう、ひと月近く、うちに泊まってるんですよ。学者だとか言ってましてね。古い建物や、街の言い伝えを調べてるとか。物腰は柔らかいし、お金払いもいいんですけど……」
女将は、声を潜めた。
「なんだか、質問の仕方が、妙なんですよね。この街に昔から住んでる人の話とか、変わった見た目の人が来たことがないかとか。それも、世間話みたいに、さらっと聞くもんだから、最初は気にならなかったんですけど」
「変わった見た目、とは?」
「そこまでは、はっきり言わないんですよ。ただ、それとなく……髪の色とか、目の色とか、そういう話題を、何度か振ってきたことがあって」
背筋に、冷たいものが走った。表情には出さないよう、注意する。
「その方の、見た目の特徴を、教えていただけますか」
「そうですねぇ……歳は、四十くらいかしら。痩せ型で、眼鏡をかけてて。話し方は丁寧なんだけど、目つきが、なんというか……観察するような目、っていうんですかね。何かを見る時、じっと、値踏みするみたいに見るんですよ」
値踏みするような目。その表現に、私はあの夜の男の目を、微かに重ねてしまう。関連があるかどうかは、まだ分からない。だが、無視できる情報でもなかった。
「その方、今は?」
「今日は、朝から出かけてます。街の外れの、古い教会堂を見に行くとか言ってましたよ」
教会堂。かつて、シュピを見つけた場所だ。偶然とは、思えなかった。
「教えていただき、助かりました。もし何か気づいたことがあれば、屋敷に知らせていただけますか」
「ええ、もちろん。……何か、あるんですか?」
「念のための確認です。ご心配なく」
女将を安心させるように、私は微笑んでみせた。この表情の作り方は、屋敷に来てから覚えたものの一つだ。ヴェラなら、こんな顔はしなかっただろう。だが、今の私には、こういう表情が、必要な場面があると分かっている。
宿屋を出たところで、トムが小声で尋ねてきた。
「レイラさん。今から、その教会堂に向かいますか?」
私は少し考えた。行けば、その学者と鉢合わせるかもしれない。まだ正体の分からない相手と、シュピを連れたまま接触するのは、得策ではない。
「いえ。今日は、様子を見るだけに留めます。ノエル様に報告した上で、対応を決めていただきます」
「分かりました。ぜひそうしましょう」
その判断に、自分でも少し驚いていた。以前の私なら、脅威の可能性がある以上、確認のために直接向かっていただろう。今は、そうしない方がいいと、自然に思えた。剣を振るう以外の選択肢を、少しずつ、覚え始めているのかもしれない。
帰り道、シュピは飴を舐めながら、私の顔を見上げていた。
「さっきの話、良くないことなの?」
「まだ、分かりません。ただの学者かもしれませんし……」
「でも、お姉ちゃんの顔、また怖くなってる」
図星だった。私は、意識的に表情を緩める。
「大丈夫です。ノエル様に報告して、あとはお任せします」
「お姉ちゃんが一人で全部やらなくていいんだよ」
シュピの言葉に、私は少し驚いて、隣を歩く小さな背中を見た。以前の彼なら、こんなことは言わなかっただろう。屋敷での日々が、彼の中にも、何かを育てているらしい。
「……いつから、そんなことを言うようになったのですか」
「知らない。でも、お姉ちゃんが、僕にそう言ってくれたことあるじゃん。だから、僕も言っていいかなって」
その通りだった。かつて、私が彼に言った言葉を、今、彼が私に返している。花の名を持つ者として、ヴェラが私にそうしてくれたように、私もまた、誰かにとっての種になっているのかもしれない。悪くない、と思った。
屋敷に戻り、私はノエル様に報告した。書斎で書類に向かっていた彼女は、話を聞き終えると、しばらく黙り込んだ。
「学者、ね。……その線も、あり得なくはないけど」
「教会堂に向かったというのが、気になります。シュピが見つかった場所です。それと、女将の話によれば、髪や目の色について、それとなく尋ねる癖があるとのことでした」
「……偶然にしては、出来すぎてる」
ノエル様は、羽根ペンを置いて、私を見た。
「シエル。もし、その人が、俺たちが警戒しているものと関係あるとしたら、どうする?」
問いかけの意図を、私は測りかねた。以前の私なら、迷わず「排除します」と答えただろう。今は、少し違う答えが、口をついて出た。
「……ノエル様の判断に、従います。私は、剣を振るう以外の方法を、まだよく存じません。ですから、それをお決めになるのは、ノエル様の役目だと思います」
ノエル様は、少し驚いたように目を見開いた。それから、微かに笑った。
「成長したな、シエルは」
「そうでしょうか」
「以前のお前なら、俺に判断を求める前に、もう動いてただろ」
言われて、自分でも意外に思う。確かに、少し前の私なら、そうしていたかもしれない。何かが、少しずつ変わっている。それが良いことなのかどうか、まだ確信は持てないが、悪いことではない、という気はしていた。
「明日、その学者について、もう少し調べてみる。表立って怪しむのは、まだ早い。もし本当にただの学者なら、こちらから疑いをかけて騒ぎにする必要はない。……でも、シエルとシュピの外出は、しばらく俺が付き添える範囲に留めてほしい」
「かしこまりました」
「すまんな、窮屈な思いをさせて」
「窮屈だとは、思っておりません」
それは、本心だった。制限されることに、不満を感じないわけではない。だが、それがノエル様の、私たちを守ろうとする意思の表れだと分かっているから、不満よりも、別の感情の方が大きかった。おそらくこれも”嬉しい”なのだろう。
夕食の席では、シュピが今日買ってもらった飴の袋を、大事そうに抱えていた。ノエル様が、それを見て小さく笑う。
「シュピ、それ、まだ食べてるのか?」
「大事に食べてるんです。すぐなくなるのもったいないから」
「シエルに買ってもらったから?」
「……別に、それは関係ない」
シュピの耳が、少し赤くなっている。子供らしい照れ隠しを見ていると、この平穏がいつまでも続けばいいと、柄にもなく思ってしまう。だが、その願いが、簡単には叶わないかもしれないことも、今日の話で、また一つ実感していた。
夕食を終え、自室に戻る前に、私はノエル様の書斎に立ち寄った。今日の見回りの記録を、書き留めておくためだ。使い慣れた手帳を取り出し、机の端で書き始める。血液消費量、街の様子、女将から聞いた情報——いつものように、項目ごとに整理して書き記す。
「それ、続けてたんだ」
顔を上げると、ノエル様が扉のところに立っていた。
「それ、というのは」
「その手帳。……毎晩、書いてるんだろ?見回りのあと、必ず」
「はい。管理していた頃からの、習慣です」
ノエル様は、少し困ったような顔で、私の手元を覗き込んだ。
「聞いてもいいか?それ、誰かに見せるためのものなのか?」
「……いえ。今は、誰にも見せておりません」
「なんで書いてるんだ?」
即答できなかった。改めて考えると、理由がうまく言葉にならない。
「……忘れないため、だと思います。血液消費量や、その日の出来事を、正確に残しておかないと——」
「正確に残さないと、何かまずいことがある?」
「……いえ。特には」
ノエル様は、椅子に浅く腰掛けて、少し笑った。
「シエルがそれを書いてる理由、俺、ずっと気になってたんだ。……それ、たぶん、昔の名残じゃないかって」
「名残、ですか」
「うん。管理されてた頃、シエルは、毎日、何かを記録されてたはずだ。血液のこと、状態のこと。……それを、今は、自分の手で、自分に対してやってる。そんな気がする」
言われて、私は自分の手帳を見下ろした。確かに、この記録の形式は、かつて自分がつけられていた管理台帳と、驚くほど似ている。数値、状態、備考。誰かに管理されるための形式を、私は今、自分自身に対して使っている。
「……そう、かもしれません」
「シエルがそれを続けたいなら、止めない。でも、もし、それが『書かないと不安だから』っていう理由だけなら——」
ノエル様は、少し言葉を選ぶように、間を置いた。
「もう、書かなくても、大丈夫だ。感じたことは、書かなくても、ちゃんとシエルの中に残る。忘れたくないことは、忘れないから。……人間は、そういうふうにできてる」
その言葉は、これまで誰からも言われたことのないものだった。ヴェラは、記録を求めなかった。命じもしなかった。ただ、私が自分で、そうする以外の生き方を知らなかっただけだ。
「……試しに、今夜は、書かずにみます」
そう口にした自分に、少し驚いた。手帳を閉じて、懐にしまう。何も書かれていない今日という日が、そのまま、記録のないまま終わっていくことに、落ち着かない気持ちがないわけではなかった。だが、それを不安と呼ぶよりも、別の言葉で呼びたい気もした。まだ、その言葉の名前は分からない。
「無理はしなくていいよ。書きたくなったら、書けばいい」
「はい。……ありがとうございます」
ノエル様は、それだけ言うと、また書類に向き直った。私は書斎を出て、自室へと戻る足取りが、いつもより、少しだけ軽いことに気づいていた。
夜、自室の窓から、私は街の灯りを眺めた。例の学者が、今夜もどこかで、この街の何かを調べているのだろうか。教会堂で、何を見たのだろうか。考えても、答えは出ない。剣であれば、対処の仕方が分かる。だが、こういう、正体の見えない不穏さには、まだうまく向き合えずにいる。
窓辺に立ったまま、私はしばらく、遠い北の空を見上げた。理由は、自分でもよく分からない。ただ、こういう夜には、なぜか、そちらに目が向いてしまう。
翌朝、トムが慌てた様子で、私の部屋の扉を叩いた。
「レイラさん!大変です、あの——例の旅人が、今朝方、宿を引き払ったそうで」
「引き払った、のですか」
「ええ。夜のうちに、荷物をまとめて。行き先も告げずに、そのまま。宿の女将さんが、朝、部屋が空になっているのに気づいたそうです!」
私は、窓の外に目をやった。北へ続く街道が、朝靄の向こうに霞んでいる。何かを掴んだのか、それとも、何も掴めなかったから立ち去ったのか。どちらであっても、良い兆候ではないという予感だけが、確かに、私の中に残っていた。
支度を整え、私はノエル様の部屋へ向かう。報告するべきことが、また一つ増えていた。この静かな屋敷の日常が、いつまで守られるのか。答えの出ない問いを抱えたまま、私は廊下を歩いていく。
ご拝読ありがとうございました。




