プロローグ:北への報告
白彩です。
三章では17時投稿となります。また、三章は物語が揺れ動く展開にしていく予定です。
温かい目で見守ってください。
石造りの建物には、窓がなかった。
正確には、窓はあるのだが、外から見えることはない。分厚い壁の内側に切られた明かり取りは、太陽の位置を知る以上の役には立たない。北の港街の外れ、表向きは商会の倉庫として登記されているその建物の地下で、男は書類を机に並べていた。
灰色の外套を着た男——港町の酒場で、噂屋から話を買った、あの旅装の男だった。この男自身は剣を握らない。組織にとっての「耳」であり「目」——現場の情報を集め、上へ運ぶことだけが役目の、諜報担当だった。今は外套を脱ぎ、質素だが仕立てのいい上着姿で、蝋燭の灯りの下、几帳面な文字で報告書を清書している。
扉が開いた。
「——遅かったな」
低い声だった。机の向こうに座る人物の顔は、灯りの外側にあり、よく見えない。見えないように座っている、というのが正しいだろう。この部屋では、それが礼儀だった。
「船が、思ったより遅れました。北の海は、この季節、機嫌が悪い」
「言い訳は要らん。持ってきたものを出せ」
男は懐から、油紙で包んだ手帳を取り出し、机の上を滑らせた。灯りの外の人物が、指先だけをそこに伸ばす。爪の長い、老いた指だった。
「まず、未回収品——五番について」
男は淡々と読み上げる。
「エステル領にて、該当個体を確認。右腕に古い切創痕あり、年齢は報告書の推定と一致。現在、当該領の当主が保護し、屋敷内で使用人として匿っている状況です。先に現地へ送った回収班――実際に手を下す実行部隊は、撃退されました」
「撃退……。五番一人にか」
「いえ。五番の傍らに、もう一体、報告書にない個体がいました」
指が、止まった。
「もう一体?」
「銀髪の女です。年齢は十七、八とみられる。器用に魔法を行使し、単独で回収班を退けています。私自身は現場を見ておりません。これは、生き延びた回収班の生き残りから聞き取った証言です。その者が言うには——」
男は、手帳の該当箇所を開いて示す。
「『戦姫という名は捨てたのか』と問うたところ、明確な反応があったとのことです」
灯りの外で、小さく息を呑む音がした。それが驚きなのか、確認に過ぎないのか、男には判じかねた。
「……戦姫、か。あれは、南方戦線から抹消されたはずの称号だ。継承者がいたことも、我々は把握していなかった」
「はい。ですが該当地の噂と一致します。銀の髪、規格外の血、単独での戦闘能力。加えて——これは回収班の件とは別に、私が独自に集めていた情報ですが」
男は、一枚の紙を追加で差し出した。
「当地には十年ほど前から、『静謐の狂気』と呼ばれる剣士の噂があります。北方戦線に長年在籍し、魔法を一切使わない戦い方で知られる女です。年齢、経歴ともに不詳。……この者が、五番や銀髪の女と、何らかの形で接触していた可能性を、排除できません」
しばらく、沈黙が続いた。蝋燭の芯が、小さく爆ぜる音だけが部屋に響く。
「——上には、まだ上げるな」
「よろしいのですか。血統の特徴が合致する個体が二体、同一の場所に」
「だからこそ、だ」
灯りの外の声が、初めてわずかに強さを帯びた。
「未確認情報のまま上に投げれば、すぐに大きな手が動く。動けば、向こうも気づく。逃げられれば、元も子もない」
「では」
「もう一度、行け。今度はお前が現地に赴く必要はない。別の人間を送れ。戦える者ではなく、見るための者を。……当主の性格、屋敷の警備、街の噂の広がり方。何もかも、丁寧に洗い直せ」
男は、深く頭を下げた。
「かしこまりました。……もう一点、よろしいでしょうか」
「言え」
「五番と、銀髪の女——どちらを優先しますか」
灯りの外で、指先が机を、一度だけ、軽く叩いた。
「無論、両方だ」
短い答えだった。それ以上の説明はなかった。男は、それで十分理解した。
「両方とも、我々のものだ。一つも、逃がすな」
書類が、机の上でまとめられ、油紙に包み直される。男は一礼し、部屋を出た。廊下の灯りは、地下のどこまで続いているのか分からないほど、遠くまで並んでいた。港では、明日の朝、南へ向かう船が一隻、出港を待っていた。
ご拝読ありがとうございました。




