エピローグ:届かない手紙
北の国境から、さらに北。
夜は、また同じ色をしていた。篝火の脇に、女が座っている。冬は、もうすぐそこまで来ていた。息を吐くたび、白い塊が闇に溶けて消える。女は、剣の手入れをしていた。刃の腹を、砥石で丁寧になぞる。今日の戦闘でついた傷は、浅いものが二つ。それだけで済んだのは、上出来な部類だった。
「……今日も、揃ってたな」
誰に言うでもなく、呟いた。今日の相手も、傭兵にしては動きが妙に揃っていた。三人ほどの連携が、教えられたもののように綺麗すぎた。もう何度目だろうか、こういう相手に当たるのは。数えていないが、増えている実感だけはあった。 剣を鞘に収め、乾燥パンを一齧りする。味のしないそれを、水で流し込んだ。水は、朝から入れ替えていないせいで、氷のように冷たかった。指先で温めることもできたが、今夜はそうしなかった。冷たいものは、冷たいまま飲む。そういう気分の夜が、この頃、増えていた。
火のそばに座り直した時、後ろで足音がした。斥候の一人だった。若い男で、まだ戦場に慣れていない目をしている。片方の腕に、包帯が巻かれていた。今日の戦闘で、掠り傷を負ったらしい。
「ヴェラ殿。……失礼、噂話で恐縮なんですが」
「言え」
「南の方から流れてきた話です。商人が、酒場で。……銀の髪の女が、南のどこかにいるとかで」
女の手が、砥石の上で止まった。
「銀の、髪」
「はい。それと、血がどうとか。……なんでも、変わった血の持ち主らしくて、商人連中の間じゃ、ちょっとした値のつく噂になってるとか」
「そうか」
「はい。……妙な話ですよね。人の血に、その噂に値がつくなんて」
斥候は、他意なくそう言った。他意がないからこそ、その言葉は女の耳に、いつもより重く残った。
「……それだけか」
「それだけです。詳しい場所までは。……お耳汚し、失礼しました」
「いや」
女は、短く答えた。
「よく聞かせてくれた。お前、その腕は」
「あ、これは、大したことないです。掠っただけで」
「手当ては」
「済んでます。心配、ありがとうございます」
斥候は、少し驚いたような顔をした。女がこういう気遣いを口にすることは、珍しかったのかもしれない。一礼して去っていく背中を、女はしばらく見送った。火に視線を戻す。薪が、時折、爆ぜた。
銀の髪。変わった血。値のつく噂。 偶然、という言葉を、女は使わなかった。この歳まで戦場で生き延びてきて、偶然という言葉を安易に信じたことは、一度もない。噂というものは、誰かが得をするために流れる。誰の得になる噂か。それを考える癖が、体に染みついていた。
まさか、とは思う。まさか、と思う自分に、少しだけ苛立った。それで片付けられるなら、最初から気にも留めなかったはずだ。
女は、懐から地図を取り出した。使い古された、皺だらけの紙。南の街道が、細い線で描かれている。エステル領の位置に、小さな印がついていた。何年も前につけた印だった。指でその印をなぞる。距離は、変わらない。ただ、その距離の重さが、今夜は少し違って感じられた。
地図を畳み、荷物の中から、油紙に包んだ紙束を取り出した。長らく使っていない、手紙用の紙だった。端が少し湿気で波打っている。それでも、書くには十分だった。インクを溶き、羽根ペンの先を整える。書くべきことは、決まっているようで、決まっていなかった。 まず、儀礼を書いた。
『エステル卿
ご壮健のことと存じます。此度も、預けた娘の面倒を見ていただき、感謝しております。何か不都合があれば、いつでも申し付けください』
「卿」という他人行儀な呼び方に、女は僅かに苦笑した。かつては「ノエル様」と呼び、さらにその前は――幼い手が女の外套の裾を掴んで離さなかった頃には、ただ名だけを呼んでいた時期さえあった。膝を擦りむいては泣き、薬を塗ってやると、ぴたりと泣き止んだ。あの小さな背中を、女は確かに知っている。今のノエルからは、もう想像もつかないだろうが。それでいい、と女は思う。護衛の役目とは、いずれ要らなくなることを目指すものだ。あの子は、もう一人で立っている。
ここまでは、迷わなかった。何度も同じような言い回しを、頭の中で練習してきたからだ。この程度の言葉なら、迷わず書ける。迷わず書けることの気楽さと、その先に待っている、迷わずには書けないことの重さを、女は比べてみた。
その先——本当に書きたいことに移ろうとして、手が止まった。女は、ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。書きたいことは、単純だった。単純なはずなのに、言葉にしようとすると、どれもしっくりこなかった。
『レイラへ』
その一行だけを書いて、また止まった。
何を伝えればいいのか。噂のことを書けば、レイラを不安にさせるだけかもしれない。逆に、何も書かなければ、もし本当に危険が迫っていた時、備える機会を奪うことになる。どちらが正しいのか、女には判断がつかなかった。判断がつかないことなど、戦場ではほとんどなかった。この感覚は、久しぶりだった。
ペン先が、紙の上で乾き始めていた。女は、それに気づいて、もう一度インクを付け直した。
『元気にしているか。 北は、そろそろ冬だ。お前がいた頃の冬とは、比べ物にならないくらい寒い。あの屋敷の冬は、暖炉があって、羨ましい限りだ』
書きながら、女は自分の言葉に、小さく笑った。こんな、どうでもいいことから書き始めている自分に、呆れる気持ちもあった。それでも、書かないよりはましだと思い直して、続けた。
『訓練は、続けているか。……剣の腕は、落としていないだろうな。
こちらは、相変わらずだ。傭兵崩れの相手が増えてきたが、大した脅威ではない。ただ、動きが揃いすぎている連中に当たることが、この頃、多くなった』
書いてから、その一文を、女はしばらく見つめた。書くべきではなかったかもしれない、と思った。だが、消す気にはならなかった。事実は事実として、書き記しておきたい。誰にも読まれないかもしれない紙の上でだけでも。
『……近頃、南の方で、妙な噂を聞いた。
銀の髪をした、変わった血の女がいる、と』
そこまで書いて、女は手を止めた。
この先に、何を続ければいいのか。「気をつけろ」と書くのは簡単だ。だが、気をつけろ、と言われて、何をどう気をつければいいのか、レイラには分からないだろう。分からないまま不安だけを抱えさせることが、果たして正しいのか。
あるいは、もっと直接、聞いてしまえばいいのかもしれない。お前のことか、と。だが、それを紙に書いて、もし違えば、無用な心配をかけるだけだ。もし本当だったとしても、この手紙が届くまでの間に、レイラの身に何かあれば、手紙自体が意味を失う。
女は、ペンを置いた。
置いた手を、もう一度取り上げた。何か書き足そうとして、また置いた。それを、二度、三度と繰り返した。書きたい言葉と、書いてはいけない気がする言葉が、頭の中でせめぎ合っていた。せめぎ合うだけで、どちらも紙の上には残らなかった。
書きかけの紙を、しばらく眺めた。『レイラへ』の一行と、他愛のない冬の話と、書きかけの噂の話。それだけが、そこにあった。伝えたいことの核心には、まだ、辿り着いていなかった。
辿り着けない理由が、噂の真偽が分からないからなのか、それとも、他に何か、女自身にも説明のつかない理由があるのか、それすらも、はっきりしなかった。女は紙を折らずに、そのまま油紙の下に戻した。今夜は、これ以上書けそうになかった。
「……いい場所に、置いたはずなんだがな」
誰にともなく、呟いた。あの屋敷を選んだのは、女自身だった。安全だと判断したからこそ、預けた。その判断が揺らぐことを、女は好まなかった。好まないが、揺らいでいないとも、言い切れなかった。
もし、あの灯りの下に、噂の元凶が本当にいるのだとしたら。
女は、剣の柄に、指を這わせた。冷たい金属の感触が、掌に伝わる。
今すぐ南へ向かうことは、できない。ここには、ここでの役目がある。放り出せば、代わりに死ぬ者が増える。それが分かっているから、女はここにいる。分かっていながら、今夜だけは、その理不尽さに、僅かな苛立ちを覚えた。
女は自分でも驚いた。長らく、こういう感情の揺れとは、無縁に生きてきたはずだった。誰かを守るということに、これほど心を乱されるのは、いつ以来だろうか。まだ小さかったノエルの手を引いていた、あの頃以来かもしれない。場違いな考えが、ふと過ぎった。
遠くで、見張りの兵士が、交代の合図を送る笛の音が鳴った。短く、二度。いつも通りに聞こえることが、今夜はどこか、ありがたく感じられた。
篝火が、小さく爆ぜた。女は、書きかけの手紙を、油紙で包み直した。出す当てのないまま、荷物の底にしまい込む。いつか出す日が来るのか、それとも、このまま出さずに終わるのか。分からないことを、女は、また先延ばしにした。先延ばしにできるうちは、まだ、間に合っている。そう思うことにした。
篝火の向こうで、狐が一匹、横切った。女には気づかず、あるいは気づいても構わず、闇の中へ消えていった。狐の足跡が、霜の降り始めた地面に、小さく残った。朝には、その跡も消えているだろう。
ご拝読ありがとうございました。
一つご報告です。
三章なのですが、執筆も最終盤に差し掛かっていまして、このまま毎日投稿を継続させようと思っています。時間を変えて17時の投稿になります。もしかしたら四章の終わりまで突き進むかも知れません。
これからも応援のほどよろしくお願いします。




