第九話:嬉しい、という言葉
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朝から、離れの窓の外に、見知らぬ小箱が置かれていた。
「シエルさん、これ、朝一で届いたんですけど……」
トムが、木箱を抱えて台所に入ってきた。差出人の名は書かれていない。ただ、包み紙の端に、拙い字で「エステルけの人へ」とだけあった。
「孤児院からでしょうか」
「たぶん。……あそこの子供たち、字、まだあやふやなんで」
開けると、中には、干し草で編んだ小さな籠が三つ、それぞれに木の実が詰められていた。編み目は粗く、ところどころほつれている。手紙も一枚、入っていた。
『このまえは あめありがとう。またきてね。ミラ』
蜜、と書くべきところを「あめ」と間違えている。訂正するべきかどうか迷って、結局、そのまま受け取ることにした。訂正して意味のある間違いではなかった。
「可愛らしいですね」
「はい。……行けないの、伝えてないんですけど、大丈夫でしょうか」
「後で、手紙を書きます」
外出を控えている今、孤児院を訪ねることはできない。だが、手紙なら出せる。箱を厨房の棚に置き、朝の支度に戻った。六時十五分。かまどの火は、ノエル様が既に灯していた。記録は、この数日、十四秒あたりで安定している。速さより安定を優先し始めたらしい。
「シエル、今日のミラちゃんからの荷物、見たか」
「見ました。木の実が入っていました」
「あの子供たち、律儀だな。……返礼、何がいいと思う」
「蜜煮の作り方を、簡単に書いた紙はいかがですか。子供でも作れる分量で」
「いいな、それ。トムに手伝わせよう」
制限のある生活の中でも、屋敷は少しずつ、日常のやり方を見つけ始めていた。窮屈さを、窮屈なままにしない工夫が、あちこちに生まれていた。
昼は、離れでシュピの訓練があった。先日に引き続き火を継続させるための訓練である。
「お姉ちゃん、今日こそ三十秒、いくよ」
「見ています」
手のひらの上、小さな火が灯る。シュピの表情が、いつもより真剣だった。十秒、二十秒、二十五秒。私は数えながら、これまでの記録を思い出していた。二十八秒で消えた日が、何度もあった。
二十八秒を超えた。
シュピの眉が、僅かに動いた。集中が乱れかけたのが分かった。だが、消えなかった。二十九秒、三十秒。
「——いった!」
声を上げた瞬間、火が消えた。三十一秒だった。
「シュピ、やりましたね」
「やった!やった、やった!」
シュピは両手を上げて、その場で跳ねた。子供らしい喜び方だった。普段の落ち着いた物言いとは違う、年相応の姿だった。
「見た?お姉ちゃん、ちゃんと見た?」
「見ました。三十一秒です。目標達成です」
「うおおおお、やっと、やっと超えた!」
その喜びようを見ていると、こちらまで頬が緩んだ。緩んだことに、自分で気づいて、少し驚いた。
「お姉ちゃんも、笑ってる」
「笑っていますか」
「うん、珍しい」
珍しい、と言われて、自分の顔に触れてみた。確かに、口角が上がっている感触があった。いつからそうなっていたのか、分からなかった。
「これ、ご主人様に報告しなきゃ」
「はい。喜ぶと思います」
「お姉ちゃんも、一緒に来て」
「行きます」
二人で母屋に向かうと、ノエル様は書斎で書類と格闘していた。
「ノエル様、聞いてください! 三十一秒、いきました!」
「本当か!」
ノエル様は椅子から立ち上がり、シュピの肩を掴んだ。興奮のあまり、シュピはいつもノエル様をご主人様と呼ぶのに、呼称で呼んでいた。
「やったな!やったじゃないか!」
「はい! ノエル様の火起こしの記録、僕、そろそろ抜くかもしれません」
「おいおい、それは別の話だろ。俺は継続と別で、着火の速さで勝負してるんだからな」
「言い訳っぽいです」
「言い訳じゃない、区分の違いだ」
二人のやり取りに、私は少しだけ、口元を緩めたまま立っていた。この光景を、単純に良い光景だと思った。良い、という言葉の軽さが、今は不思議と気にならなかった。
夕方、厨房でトムと蜜煮の仕込みをしていると、ノエル様が顔を出した。
「シエル、ちょっといいか」
「はい」
「今夜、少し早めに切り上げてほしい。夕食の後、話がある」
「何か、ありましたか」
「悪い話じゃない。……というか、いい話だ。詳しくは、後で」
含みのある言い方だったが、それ以上は聞かなかった。夕食の支度を進め、いつも通りの時間に、いつも通りの料理を並べた。ただ、蜜煮だけは、いつもより一瓶多く出した。
夕食の席には、シュピも呼ばれていた。制限期間中、離れで食べることが多かったが、今夜は特別だったらしい。
「今日は、皆で食べよう」
ノエル様の一言で、四人が食卓を囲んだ。使用人が主人と同じ食卓につくことは、本来なら異例だ。だが、この屋敷では、既にそういう異例が、いくつも積み重なっている。
「実は」
食事の途中、ノエル様が切り出した。
「今日、詰め所から連絡があった。……先日の襲撃、街道の痕跡を調べていた件、進展があったらしい」
「進展、というと」
「増援が逃げた方角に、馬車の轍が見つかった。北へ向かっていた形跡だ。……これで、組織の拠点が北方面にある可能性が、少し高まった」
「まだ、確定ではないのですね」
「ああ。だが、手がかりが増えたのは事実だ」
情報としては、まだ断片的だった。だが、闇雲に警戒するだけの状態から、一歩前に進んだことは確かだった。
「それと、もう一つ」
ノエル様は、少し表情を緩めた。
「お前たちに、伝えておきたいことがある。今回の襲撃で、シエルの働きがなければ、被害はもっと大きかった。……それは、みんな分かってると思うが、改めて、ちゃんと言葉にしておきたかった」
「ノエル様」
「聞け。シエル、お前がいたから、シュピは無事だった。俺も無事だった。屋敷の被害も、最小限で済んだ。……ありがとう」
その一言に、私は、すぐに返す言葉を見つけられなかった。任務として当然のことをしただけだ、と言おうとして、口を閉じた。当然のこと、という言い方が、今は正確ではない気がした。
「トムも、良く迅速に詰め所に報告してくれた。あれがなければ、対応がもっと遅れてた」
「い、いえ、俺は、当然のことを」
「当然のことを、ちゃんとやるのが、一番難しいんだよ」
トムは、耳まで赤くして俯いた。
「それと、シュピ」
「僕?」
「離れで、ちゃんと隠れて、無事でいてくれた。それだけで、十分だった。よくやった」
「僕、何もしてないよ」
「何もしないのが、正解の時もある。今回は、それだった」
シュピは、少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。
「それで、これは、大したものじゃないんだが」
ノエル様は、席を立ち、棚から小さな包みを持ってきた。私に差し出す。
「シエル、開けてみろ」
「これは」
「開けてから聞け」
包みを解くと、中から、小さな革の鞘飾りが出てきた。剣の鞘に取り付ける、装飾用の金具だ。実用的なものではない。ただ、細かい細工が施されていて、丁寧に作られたものだと分かった。
「街の職人に、頼んで作らせた。……お前、剣は大事にしてるのに、鞘は随分と質素だったからな」
「これを、私に」
「他に誰がいる」
私は、その金具を、しばらく見つめていた。剣の実用性には、何の影響もない品だった。あってもなくても、戦闘には関係がない。それでも、手のひらの上のそれは、これまで受け取ったどんな道具とも、違う重さを持っていた。
「……ありがとう、ございます」
声が、いつもより少し小さくなった。
「気に入ったか」
「はい」
短く答えた。それ以上、言葉が出てこなかった。その様子を見ていたシュピが、隣で、にやにやと笑っていた。
「お姉ちゃん、顔、赤い」
「赤くありません。表情の管理は怠っていないつもりですが」
「赤いよ。ねえトムさん、赤いよね」
「あ、えっと……ちょっと、赤いかもしれないです」
「三人がかりで、からかわないでください」
言いながら、自分の頬に触れた。確かに、熱を持っている気がした。
食事が終わり、片付けを済ませた後、自室に戻る前に、もう一度、鞘飾りを取り出して眺めた。丁寧な細工の一つ一つを、指でなぞる。
この感覚に、名前をつけるとすれば。
海馬の棚上に置いてある「面白い」「悔しい」とは、明らかに違う質感の感情だった。もっと、温かく、もっと、単純で。単純だからこそ、名前をつけるのに、それほど時間はかからなかった。
嬉しい。
その言葉が、迷いなく浮かんだ。かつて、シュピが最初にこの言葉を使った時のことを、思い出した。あの時は、意味を理解するのに時間がかかった。今は、理解するより先に、体がその言葉を選んでいた。
自室で日誌を開く。
『本日の血液消費量:一滴。
用途:巡回の灯(補助)。
備考一:孤児院より、ミラという子供から木の実の贈り物。手紙に「あめありがとう」とあった。訂正しない。返礼に蜜煮の作り方を書いた紙を送る予定。
備考二:シュピ、火の継続時間、三十一秒を達成。目標であった三十秒を超えた。本人、非常に喜んでいた。年相応の喜び方だった。
備考三:街道の痕跡調査で、増援が北へ向かった形跡が見つかった。組織の拠点、北方面の可能性が高まる。
備考四:夕食の席にて、ノエル様より、先日の襲撃対応について感謝の言葉があった。トム、シュピにも、それぞれ言葉があった。
備考五:ノエル様より、鞘飾りを頂いた。実用性はない。細工は丁寧。
備考六:嬉しい、という感情を認識した。棚には置かない。この言葉だけは、置く前に、名前が分かった。』
筆を止めて、鞘飾りを、もう一度手に取った。灯りに透かすと、細工の陰影が、はっきりと浮かび上がった。剣に取り付けるかどうか、少し迷った。実戦で傷つけたくない気持ちと、実戦でこそ使いたい気持ちが、同時にあった。両方とも、本物だった。
結局、その夜は、鞘に取り付けないまま、机の上に置いておくことにした。明日、もう一度考える。
窓の外を見ると、離れの灯りが、まだ点いていた。今夜は、いつもより明るく見えた。三十一秒の余韻が、まだ続いているのかもしれない。




