第八話:広まる噂
白彩です。皆様が読んでくださるおかげでもうすぐ500PVに到達しそうです。
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朝、屋敷はまだ昨夜の名残を引きずっていた。北門の脇に積まれた壊れた板、割れた窓に張られた応急の布、庭の敷石の欠け。使用人たちが総出で片付けに動いていたが、完全に元通りになるには、まだ数日かかりそうだった。土に染み込んだ血の跡は、朝露と混じって、黒っぽい染みになっていた。誰かがそこに、新しい土をかぶせているのが見えた。
「シエルさん、おはようございます。……その、大丈夫ですか。傷」
トムが、私の肩の包帯にちらりと目をやって聞いた。手には、割れたガラスの破片を集めた箱を抱えている。
「大丈夫です。動きに支障はありません」
「無理しないでくださいね。……昨日は、本当、生きた心地しなかったです。心臓、口から出るかと思いました」
「トムさんは、詰め所へ走ったのですよね」
「はい。……最初、何が起きたか分からなくて。灯りが消えたって聞いて、頭が真っ白になって。でも、体は勝手に走ってました」
トムは、そう言って、少し笑った。自分でも不思議そうな笑い方だった。
「シエルさんみたいに、剣が使えたら良かったんですけど。あの時、俺、何もできなくて」
「詰め所へ駆けつけて危険を知らせてくれたのは、トムさんです。それが、一番大事な役割でした」
「……そう、ですかね」
「そうです。誰かが最初に気づかなければ、私たちはもっと遅れて動くことになりました」
トムは、少し照れたように頭をかいて、ガラスの箱を抱え直した。
「じゃあ、俺、片付け続けます。……あ、朝ごはん、いつも通りの時間でいいですか」
「お願いします」
朝食の席で、ノエル様は既に書類を広げていた。詰め所からの報告書、負傷者の一覧、修繕にかかる費用の概算。いつもの、少し抜けた雰囲気は鳴りを潜めていた。目の下に、薄っすらと隈があった。
「シエル、座れ。……朝飯の前に、聞いてほしいことがある」
「はい」
「まず、警護を倍に増やす。詰め所に増員を要請した。今日の午後には、街から応援が来る」
「はい」
「それと、離れの周りに、常時二人配置する。夜間だけじゃない。昼間もだ」
「シュピの負担にならないでしょうか」
「負担にはさせない。……あくまで、外を守る形にする。シュピの生活は、今まで通りでいい」
ノエル様の言葉には、迷いがなかった。一晩で、随分と考えを固めたらしかった。書類の余白に、細かい字でいくつもの案が書き殴られている。夜通し考えていたのかもしれない。
「それと、詰め所の隊長に頼んで、街道の巡回も増やしてもらうことにした。屋敷だけ固めても、道中で何かあれば意味がない」
「街道、ですか」
「ああ。特に、北から入ってくる道だ。……あの男の増援が、どこから来たのか。どこへ帰ったのか。それが分かれば、少しは動きが読める」
「痕跡は」
「今朝、護衛に調べさせている。まだ報告は来ていない」
ノエル様は、そこで一度、ペンを置いた。
「両親の来訪、早めるか、遅らせるか、迷ってる。……早めれば、こっちの守りが薄い時期に呼ぶことになる。遅らせれば、向こうが心配して勝手に来かねない」
「どちらが、危険は少ないでしょうか」
「分からん。……ただ、遅らせて、向こうが独断で来た方が、たちが悪い気がする。うちの親父、心配性のくせに、こういう時だけ妙に行動力があるんだ」
「行動力」
「昔、俺が熱出して寝込んだ時、隣町の医者を無理やり馬車で連れてきたことがある。それも、真夜中に」
少しだけ、空気が緩んだ。ノエル様なりの、緊張をほぐす一言だったのかもしれない。
「では、早めますか」
「いや。……手紙で、事情を伝える。今は来るな、と。落ち着いてから、こちらから招く、と書く。……今回ばかりは、行動力を発揮されると困る」
実務的な判断だった。感情ではなく、状況を見た判断だ。私はそれを、黙って聞いていた。
「シエル。お前の意見は」
「賛成です。今、屋敷に人が増えるのは、守るべき対象が増えるということでもあります」
「……そうだな。増やせば安全になるわけじゃない。守る場所が増えるだけだ」
ノエル様は頷いて、書類の一枚にペンを走らせた。走り書きの文字は、いつもより乱れていた。
朝食の後、離れに向かった。シュピは、思ったより普段通りの顔をしていた。窓辺に座って、外を眺めていた。
「お姉ちゃん、おはよう!」
「おはようございます、シュピ。……よく眠れましたか」
「うーん、あんまり。でも、大丈夫」
大丈夫、という言葉に、力みはなかった。本当に、大丈夫そうだった。私が想像していたよりも、ずっと軽い調子だった。
「怖くなかったのですか」
「怖かったよ、めちゃくちゃ。でも、朝になったら、なんか、平気になってた」
「平気」
「うん。……前にいたところでも、似たようなこと、何回かあったから。慣れてる、っていうか」
慣れている、という言葉の重さを、私は測りかねた。慣れることが良いことなのか、悪いことなのか、その判断は、私にはまだつかなかった。
「シュピ、無理はしていませんか」
「してない。……あ、でも」
シュピは、少しだけ声を落とした。
「昨日の夜、ちょっとだけ、震えてた。お姉ちゃんが来てくれるまで」
「知っています」
「知ってた?」
「見ました。膝を抱えていましたね」
「……あれ、見られてたのか。恥ずかしいな」
シュピは頭をかいて、それから、少し笑った。強がりだと分かる笑い方だった。だが、無理に隠そうとする強がりではなく、既に半分は本当に立ち直った上での、残り半分の強がりだった。
「シュピ。無理に平気なふりをする必要は、ありません」
「してないよ、平気なふり。……ほんとに、平気なところと、平気じゃないところが、両方ある。それだけ」
その言い方に、私は少し驚いた。感情を、単純な二択に押し込まず、両方あると言い切ったことに。
「両方、というのは」
「怖かったのは本当。でも、お姉ちゃんが守ってくれるって分かったのも本当。だから、今は、後の方が強い。それだけの話」
言葉が、いつもより整理されていた。年齢の割に、と思いかけて、その考えを止めた。年齢で測れるものではない。この子は、ここに来てから、大人が何年もかけて学ぶようなことを、既にいくつも通り抜けてきている。
「シュピ、朝ごはん、食べましたか」
「まだ。お姉ちゃんと一緒に食べたい」
「では、運びます」
朝食を運びながら、シュピはぽつぽつと、昨夜の記憶を話した。恐怖の話ではなく、聞いた音の話だった。剣のぶつかる音、窓の割れる音、誰かの怒鳴り声。
「音だけで、色々分かるんだよ。強い人の音って、なんか、違う」
「違う、というのは」
「うまく言えないけど……重い、っていうか。お姉ちゃんの音は、いつも軽いのに、あの時だけ、ちょっと重かった」
「重かった、ですか」
「うん。……怖かったんだと思う。お姉ちゃんも」
その指摘に、私は少し黙った。怖かったかどうか、自分では判別がついていなかった。判別のつかないまま、頷いた。
「そうかもしれません」
「でも、勝ったんでしょ?」
「勝ってはいません。逃げられました」
「でも、僕たちを守ってくれた。それで、十分だよ」
その言葉に、また、名前の付けられない感情が動いた。
昼過ぎ、私は用事があって街に出た。薬屋で、傷薬を買い足すためだった。頭巾を被り、髪を隠して出た。ノエル様の指示ではなかったが、自分の判断だった。街の空気が、昨日までと違っていた。人々の話し声が、いつもより低く、それでいて、あちこちで途切れずに続いていた。
「聞いたか、昨日の夜」
「エステル家に、賊が入ったって」
「賊っていうか、暗殺者だろ。何十人も来たらしいぜ」
声が、あちこちから聞こえてきた。薬屋の店主も、私に気づかず、隣の客と実際に起こったことより、尾鰭がついた噂話をしていた。
「エステル家、大丈夫なのかね。当主様、怪我されたって話も」
「いや、無事だって聞いたよ。護衛の人が、賊を全員叩きのめしたとか」
「その護衛、例の銀髪のメイドだろ。噂の」
「ああ、あの。……本当に、只者じゃないんだな」
「俺が聞いた話じゃ、剣一本で斬ったらしいぜ」
「そりゃ盛りすぎだろ」
「いや、本当だって。うちの隣の親父が、詰め所の知り合いから聞いたって」
噂は、既に何段階も歪んでいた。五人の賞金稼ぎと一人の回収者という事実が、「何十人もの暗殺者」になり、あるいは「ノエル様の負傷」になり、「剣一本で凌いだ護衛」にまで膨れ上がっていた。事実の輪郭は残っているのに、中身がまるで別物にすり替わっている。
これが、噂なのだろうか。誰かが売り、誰かが買い、値段がつくたびに、中身が少しずつ変わっていく。噂は、真実よりも面白い形を好む。面白い形の方が、遠くまで運ばれる。薬屋の店主が、ようやく私に気づいた。
「あ、いらっしゃい。……何にする?」
「傷薬を。いつもの」
「はいよ。……あんた、エステル家の使用人だったよな。昨日、大変だったんじゃないの」
「多少は」
「多少って……。いや、無理には聞かないけどさ。街の連中、色々言ってるから、気にしないでな」
店主は、それ以上詮索せず、薬を包んでくれた。その気遣いに、少しだけ救われた気がした。薬屋を出ると、見知らぬ女に声をかけられた。
「あの、すみません。もしかして、エステル家の……」
「はい」
「昨日、大丈夫でしたか。街でも、大変な騒ぎだって」
女の目に、好奇心と、僅かな怯えが混じっていた。私を見る目に、これまでとは違う種類の視線が加わっていることに気づいた。畏怖、と呼ぶべきものかもしれない。
「屋敷は無事です。ご心配、ありがとうございます」
「そう、ですか。……あの、本当に、銀髪の魔法使いだって聞いたんですけど」
「魔法使いでは、ありません。ただの、護衛です」
「でも、剣だけで、あんな大勢の賊を……」
「大勢、ではありませんでした。実際は、それほど多くありません」
女は、納得したのかどうか分からない顔で、頭を下げて去っていった。訂正した言葉が、どこまで届いたのか、分からなかった。恐らく、この会話自体が、また新しい形の噂になって、誰かに伝わっていくのだろう。
市場を抜ける途中、露店の主人たちが集まって話しているのが見えた。近づくと、話題はやはり昨夜のことだった。
「北の連中が絡んでるって噂もあるぞ」
「北?なんでまた」
「知らねえよ。ただ、最近、北から来た商人が、妙に子供のことばっか聞いてたって話、覚えてるか」
「ああ、あれか。……まさか、繋がってんのか」
「さあな。でも、こうも色々重なると、勘繰りたくなるだろ」
その会話に、私は思わず足を止めかけた。孤児院で聞いた行商人の話と、同じ種類の噂が、街の別の場所でも囁かれている。噂同士が、私の知らないところで、勝手に繋がり始めている。
屋敷に戻る道すがら、噂の広がり方について考えた。噂は、誰かが意図して広めているわけではない。ただ、口から口へ渡るたびに、面白い方へ、面白い方へと形を変えていくだけだ。悪意はない。悪意がないからこそ、止めようがない。だが、悪意がないからといって、無害だとは限らない。噂は、その気になれば、正確な情報よりも遠くまで、正確な情報よりも早く届く。
夕方、屋敷に戻ると、詰め所からの応援が既に到着していた。見知らぬ護衛が数人、門の周りに立っている。屋敷の輪郭が、昨日までと少し変わって見えた。制服の色が違う者たちが混じっているせいだろうか。
「シエル、街の様子は」
「噂が広がっています。実際より、大きく」
「大きく、というと」
「賊の数が何十人に膨らみ、ノエル様が負傷したことになっていました。……私が、魔法使いだという噂も」
「そうか。……もう少しで、俺が一人で何百人斬った話になりそうだな」
「笑い事ではありません」
「分かってる。分かってるが……笑うしかないだろ、これは」
ノエル様は苦笑した。
「噂は、放っておくしかない。訂正しようとすればするほど、余計に広がる。……それより、気になる話は聞いたか」
「北の商人が、子供の人数を気にしていたという噂です。孤児院の証言と、同じ種類のものが、市場でも囁かれていました」
ノエル様の表情が、僅かに硬くなった。
「同じ、というのは、繋がりがあると思うか」
「分かりません。ただ、偶然にしては、共通点が多すぎます」
「……調べさせよう。詰め所に、頼んでみる」
ノエル様は、そこで一度、深く息を吐いた。
「噂は放っておくしかないが、そこに紛れて動いている連中は、放っておけない」
「はい」
「ただ、気になるのは」
ノエル様は、声を落とした。
「噂が広がれば広がるほど、あの組織にも情報が届きやすくなる。お前の血のことも、シュピのことも」
その懸念は、私も抱いていた。噂は、街の人々の間だけで消費されるものではない。買い手がいる限り、それは価値のある商品として、然るべき場所に流れていく。
「対策は、ありますか」
「今のところ、守りを固める以外にない。……あとは」
ノエル様は、少し考えてから言った。
「お前とシュピを、あまり人前に出さないようにする。今後しばらくは」
「シュピの訓練は」
「屋敷の中でやる分には構わない。ただ、街に連れて行くのは控える」
「私の外出は」
「必要最低限にしてくれ。……お前がいないと困る場面が多いのは分かってる。だが、今は、目立たない方がいい」
それは、シュピにとって窮屈な制限になるかもしれなかった。だが、必要な措置だとも分かった。
「承知しました。従います」
「悪いな。窮屈にさせて」
「窮屈さより、安全を優先します」
ノエル様は、少しだけ、安心したような顔をした。
夜、離れにシュピの夕食を運んだ。制限のことを伝えると、シュピは一瞬だけ肩を落としたが、すぐに顔を上げた。
「分かった。……仕方ないよね、こんな騒ぎになったんだし」
「不満は、ないのですか」
「あるけど。……でも、お姉ちゃんたちが、僕のために色々考えてくれてるの、分かるから」
「シュピ」
「なに?」
「強くなりましたね」
言ってから、少し照れくさくなった。だが、本当にそう思った。この一日で、シュピは昨夜の恐怖を、自分なりのやり方で乗り越えようとしていた。
「強くなったかな。……分かんないけど、お姉ちゃんが強いから、僕も頑張らなきゃって思っただけ」
その言葉に、何かが胸の中で緩んだ。名前を付けられそうで、付けられない感覚だった。
「シュピ、明日も、庭には出られませんが」
「うん、聞いた。……代わりに、離れの中で練習していい?」
「構いません。何を練習しますか」
「火を長く灯す練習の続き。三十秒、絶対に超えたい」
「頑張ってください」
「お姉ちゃんも、見に来てね」
「時間があれば」
「時間、作ってよ」
シュピは、そう言って笑った。昨夜のことなど、まるでなかったかのような笑顔だった。だが、まるでなかったわけではないことを、私は知っていた。ただ、この子は、なかったことにする方法ではなく、乗り越える方法を、既に選んでいるだけだった。
夜遅く、自室で日誌を開いた。手が、昨夜ほどではないが、まだ僅かに重かった。
『本日の血液消費量:一滴。
用途:門の応急補修(微量)。
備考一:屋敷の修繕、進行中。負傷者は全員、快方に向かっている。トムをはじめ、使用人全員が普段以上に働いている。
備考二:街に、昨夜の襲撃の噂が広がっている。内容は大きく誇張されている。「何十人もの賊」「ノエル様の負傷」等。事実とは異なる部分が多い。
備考三:市場にて、北の商人が子供の人数を気にしていたという噂を耳にした。孤児院での証言と共通する内容。偶然か、繋がりがあるかは不明。ノエル様が詰め所に調査を依頼。
備考四:警護倍増。応援の護衛、本日到着。離れの周辺に常時二名配置。
備考五:両親の来訪、延期を決定。ノエル様が手紙で事情を説明する予定。
備考六:シュピの様子、良好。恐怖はあったが、立ち直りが早い。本人曰く「怖かったのは本当、でも今は後の方が強い」とのこと。音だけで人の状態が分かるとも言っていた。
備考七:ノエル様より、噂の拡散が組織側への情報提供になりうるとの懸念。当面、シュピと私の外出を控えることに。』
筆を止めて、窓の外を見た。応援の護衛が、灯りを持って庭を巡回している。昨日までとは違う、少し賑やかな夜だった。賑やかさの中に、微かな不安が混じっている。それが、今の屋敷の空気だった。
離れの灯りは、今夜も点いていた。今夜は、いつもより少しだけ長く灯っているように見えた。三十秒の練習を、まだ続けているのかもしれない。
ご拝読ありがとうございました。




