第七話:夜襲
この話だけ少し文章を増量しました。次回はいつも通りになります。
少しだけ長いかもしれませんが、付き合っていただけると幸いです。
私は今、屋敷の警護配置を確認している。庭の見取り図を広げ、灯りの位置を数えていた。北門、東門、裏木戸。灯りの数は、いつもより二つ多い。ノエル様が三日前に指示したものだった。
「シエル、今夜の巡回、いつも通りでいいか」
「はい。ただ、念のため、離れの周りを厚めにします」
「シュピのことか」
「はい」
理由は言わなかった。ノエル様も、それ以上は聞かなかった。ここ数日、屋敷の空気には、名前のつかない緊張がある。門番の詰め所に人が増え、夕方の見回りの時間が早まり、トムでさえ、洗濯物を取り込む速度が上がっていた。誰かが号令をかけたわけではない。それでも、屋敷全体が、同じ方向を向いて身構えていた。
見取り図の上に、私は指で三本の線を引いた。北門から離れまでの最短経路、東門から離れまでの最短経路、裏木戸から離れまでの最短経路。どの経路を取られても、私が割り込める位置に立つ。それが今夜の役割だと決めた。
「配置、決まったか」
「はい。私は基本、離れと母屋の中間に立ちます。何かあれば、どちらにも三十秒以内に入れます」
「三十秒か。……早いな」
「遅いくらいです。この屋敷に来てから、私の身体能力が数%低下しているように感じます」
ノエル様は苦笑して、見取り図を丸めた。
昼間、シュピの魔法訓練があった。ノエル様の火を継続させるのは十六秒まで伸びている。あと一秒で自己最長を記録できるのだと、ノエル様は真剣な顔で言っていた。シュピはその横で、今日はお互いに小さな火を継続して灯す訓練をしていた。どうやら次の課題らしい。
「お姉ちゃん、見てて。三十秒、いける」
「見ています」
二十八秒で、火は消えた。シュピは唇を尖らせたが、すぐに笑った。
「まあ、伸びてるからいっか!」
「いいと思います」
「お姉ちゃんは、剣の練習、しないの?」
「毎晩しています。シュピが寝た後に」
「え、知らなかった。見てみたい」
「見せるほどのものでは」
「見たい見たい!見たい〜!」
——結局、見せないと判断する。というより見せられない、というのが正確かもしれない。夜の素振りは、シュピに見せるようなものではなかった。実戦を想定した、削るような動きだ。子供に見せていいものと、そうでないものの区別くらいは、私にもついた。
訓練の後、シュピが空を見上げて、少しだけ黙った。
「シュピ、どうしましたか」
「……ううん。なんか、今日、鳥が全然鳴いてないなって」
言われて気づいた。庭の木に、いつもいる小鳥の姿がない。烏さえも、今日は見当たらなかった。理由は分からない。分からないことを、その時は深く考えなかった。
「気になりますか」
「ちょっとだけ。……前にいたところでも、こういう日、あったから」
「こういう日、というのは」
「静かすぎる日。なんでもないや。忘れて」
シュピは、それ以上言わなかった。私も、それ以上は聞かなかった。
夕食は、いつも通りだった。ノエル様が蜜煮の感想を言い、トムが焦げたパンを先に食べ、シュピが今日の訓練の成果を報告した。何も変わったことはなかった。ただ、片付けの途中、窓の外を見た時、遠くの木立の間に、一瞬だけ、影のようなものが動いた気がした。
先日の孤児院でのかくれんぼを経て、私の感覚が一段階鋭くなったような感じがする。
目を凝らしてみたが、何も見えなかった。風で木々が揺れただけかもしれない。気のせいだと思った。
夜、私はいつもより早く帯剣した。剣を腰に下げ、鞘の具合を二度、確かめた。自室で仮眠を取る前、シュピの部屋に一度だけ顔を出した。シュピはもう眠っていた。寝顔は、いつも通り穏やかだった。枕の下に、あのメモがあることを、私は知っている。今夜も、そこにあるはずだった。シュピが眠りから醒めないように枕を動かし、そのメモがあることを確認して部屋を離れる。
深夜、二時を回った頃。北門の灯りが、消えた——
巡回のトムが最初に気づいた。彼は詰め所に駆け込み、警鐘を鳴らした。屋敷中に、鈍い金属音が響いた。その音を、私は自室のベッドの上で、既に目を開けた状態で聞いていた。眠ってはいなかった。眠ったふりをしていただけだった。
剣を掴み、即座に部屋を出る。
廊下でノエル様と鉢合わせた。ノエル様も剣を持っていたが、その手つきは、まだ本物の戦闘には慣れていない硬さがあった。寝間着の上に、慌てて羽織ったらしい上着がずれている。
「ノエル様、シュピの部屋へ」
「分かってる。先に行ってろ」
「離れません」
「命令だ、シエル」
命令、という言葉が久しぶりに出た。重みのある声だった。私は一瞬迷ったが、頷いた。
「離れの安全を優先します。ノエル様は、書斎に籠ってください。窓には近づかないように」
「お前は」
「北門です」
答えて、私は駆け出した。廊下を抜け、中庭を横切る間、鐘の音がまだ鳴り続けていた。詰め所から二人の護衛が飛び出してくるのが見えた。私は彼らに東門と裏木戸を任せ、自分は北門へ向かった。
北門に着くと、既に数人の影が侵入していた。門番が一人、倒れていた。息はある。気絶しているだけだった。手加減された傷だった。おそらく、初手で無力化して、あとは目的を果たすだけのつもりだったのだろう。
「へえ、噂通り、銀髪だ」
先頭の男が笑った。頭巾を払われた私の髪を見て、興奮したような声を出した。松明の灯りの下で、私の髪は確かに目立った。今夜は頭巾をつけていなかった。屋敷の中では隠す必要がない、という油断があったのかもしれない。
「賞金首、生け捕りにすりゃ、いくらになる」
「かなりの額らしいぜ」
「怪我させんなよ、価値が下がる」
男たちの目に、警戒はなかった。噂に釣られて来ただけの、質の低い相手だった。装備もばらばらで、統一された訓練の跡が見えない。連携も甘い。金で集められただけの、寄せ集めだった。
私はその場で、五人を相手取ることにする。
最初の一人は、粗雑な踏み込みで斬りかかってきた。私はその剣筋を見切り、腹を峰で打つ。男は声も出せず崩れ落ちた。二人目が、それを見て慌てて槍を構え直したが、遅かった。突き込んできた穂先を体を捻って躱し、柄を掴んで力任せに引く。バランスを崩した男を、そのまま地面に叩きつけた。
三人目と四人目は、左右から同時に仕掛けてきた。連携のつもりだったのだろうが、互いの間合いを計算していなかった。私が一歩下がると、二人の剣先が空を切り、逆に二人の得物が交差した。その隙を突き、一人の肩を蹴り飛ばし、もう一人の腕を峰で打った。
五人目が、状況を見て逃げようとした。踵を返した背中に、私は峰打ちを叩き込んだ。声もなく崩れ落ちる。全て、殺してはいない。殺す理由がなかった。ただの、金に釣られた寄せ集めだった。彼らを縄で縛り上げ、駆けつけた護衛に引き渡す。
片付け終えて、息を整えた時——背中に、冷たい気配を感じた。これまでの五人とは、質が違う。肌が粟立つような、静かな圧力だった。振り返ると、庭の暗がりに、一人の男が立っていた。
灰色の外套。フードを深く被り、顔は見えない。だが、纏う空気が、これまでの誰とも違った。歴戦の気配——ヴェラに近い、静かな殺気だった。物音もなく、いつからそこにいたのか、私には分からなかった。
「……お前は」
男は答えなかった。ただ、私を見て、それから、離れの方角に一度だけ視線をやった。その視線の動きだけで、私は確信した。この男の目的は、シュピだ。
「シュピは、そちらへはお渡しできません。お帰りいただけますか」
言葉が口を突いて出た。考えるより先に、体が反応していた。
「シュピ……。ああ、そう呼ばれているのか。あれには」
声は低く、平坦だった。感情がほとんど乗っていない。淡々と、事実を確認するだけの声だった。
「五番。それが、あれの元の呼び名だ」
五番。番号。人ではなく、記録として扱われていた呼び名。私は、その言葉に、静かな怒りを覚えた。怒り、という感情の名前を、今夜、はっきりと自覚した。棚に置くような感情ではなかった。すぐに、剣を握る手に伝わった。
「——あなたが、離れに近づくことは、ない」
私は剣を構えた。男も、腰の剣に手をかけた。フードの下で、僅かに口の端が動いたのが見えた。笑ったのかもしれない。
「話が早い。……いいだろう」
お互い間合いをとりつつ、仕掛けるタイミングを諮る。次の瞬間、私たちは同時に踏み込んでいた。打ち合った剣が、火花を散らした。重い一撃だった。受けた腕に、痺れが走る。これほどの一撃を受けたのは、久しぶりだった。ヴェラとの稽古以来かもしれない。
男の剣筋は、無駄がなかった。私の攻撃を、最小限の動きで受け、いなし、返してくる。速さでは互角。力でも互角。技においても、拮抗していた。これまで戦ってきた誰とも違う、初めての感覚だった。
(……押し切れない)
その事実が、じわりと体に染み込んでくる。斬り込んでも、必ず受けられる。隙を作ったつもりでも、それすら誘いだったかのように、逆に突かれる。三合、五合、七合と打ち合うたび、こちらの呼吸が、僅かに乱れていくのが自分でも分かった。
男の踏み込みが、一段と鋭くなった刹那、私は剣を大きく振るう代わりに、地に落ちた自分の血の跡へ意識を集中させた。掌からひと雫、地面へ落とす。赤い糸のようなものが、瞬時に地を這い、男の足首に絡みついた。
完全に拘束するほどの強度はない。だが、動きを一瞬でも鈍らせるには、十分だった。
「——っ」
男が舌打ちし、足首の糸を剣で薙ぎ払う。切れた血の糸が、黒い土の上で乾いて消えた。その隙に、私は間合いを詰め、袈裟懸けに斬り込んだ。浅く、しかし確実に、男の二の腕を裂いた。
「小癪な」
男の息が、初めて僅かに乱れた。呼吸のリズムが、それまでの完璧な均衡から、僅かにずれた。私はその綻びを、見逃さなかった。
そして剣と魔法を交えながら、頭の隅で、冷静な部分が状況を分析する。この男は、恐らく、ヴェラに匹敵する。少なくとも、格下ではない。長引けば、こちらが不利になる。援軍が来るまで持ちこたえるべきか、それとも——
そんな事を考えていると男の剣が、私の脇腹を掠めた。浅い傷だったが、血が滲んだ。熱いような、冷たいような感覚が走り、その後に痛みが遅れて追いついてきた。男の動きが、一瞬止まった。
「……考え事か?」
男の声色が、微かに変わった。フードの奥で、目が細められたのが分かった。値踏みするような、値段をつけるような、そんな視線だった。私の”魔法になった血”が一瞬で消えたことに疑問を感じたのだろう。
「その血は」
「——」
「銀の髪に、その血。……なるほど。お前も、規格外か」
規格外。その言葉の意味を、私は聞き返さなかった。男の攻撃が、再び速度を増したからだ。打ち合いは、長く続く、そして膠着を破ったのは、私だった。斬り込みの合間、脇腹の傷口を指先でひとなぞりし、滲んだ血を男の顔めがけて弾いた。血の粒は、宙で瞬時に硬さを持つ。小さな刃のように尖り、男の視界を掠めた。
男は身を捩って躱したが、完全には避けきれなかった。頬に、一筋の傷が走る。
「——噂通り、器用だな。銀の髪、血の異質さ、その上、血そのものを武器にするか。随分と、面倒な拾い物だ。もう戦姫という名は捨てたのではないのか?」
「拾われた覚えは、ありませんし、その名前はこの屋敷で出されると不愉快です」
「戦闘において、相手の弱点を探るのは真っ当だろ?」
ほんの少し口を交えながらも、私は剣を返した。血の硬化は、長くは保たない。数瞬で崩れ、ただの液体に戻り蒸発する。それでも、一瞬の視界の乱れを作るには十分だった。斬り込みが、僅かに深く入るようになった。
互いに一歩も譲らない。庭の敷石が、剣の重みで欠けた。植木が薙ぎ払われる。屋敷の窓の一つが、流れ矢のような剣先の反射で割れた。ガラスの砕ける音が、夜の庭に響く。
こちらの正体に気づいた男は、時折こちらの技量を試すような一撃を放ってきた。本気の一撃ではない。反応速度を計るような、軽い誘いだった。私がそれに乗ると、すぐに本命の攻撃が来る。何度か、その手に引っかかりかけた。引っかかりかけるたび、深く息を吸い、意識を立て直した。
どこかで、シュピの声が聞こえた気がした。離れの方角だった。私は一瞬、そちらに気を取られた。男の剣が、その隙を逃さなかった。肩を、浅く斬られた。
痛みよりも先に、苛立ちが来た。気を散らした自分への苛立ちだった。私は剣を握り直し、意識を目の前の男だけに絞った。今、私がここで崩れれば、離れまでの三十秒という約束は守れない。
どれくらい打ち合っただろうか。息が上がり、腕が重くなり始めた頃、私は方針を変えることにした。押し切ることを、諦めた。代わりに、捕らえることを選んだ。
情報が欲しかった。この男が何者か。何を目的にしているか。組織の全容が、どこまで広がっているか。殺してしまえば、それらは全て闇に消える。この一年で、私は少しずつ、殺す以外の選択肢を覚えていた。覚えていたことに、この瞬間、初めて実感が伴った。
私は攻撃の質を変えた。斬るのではなく、封じる動きに切り替える。剣先を、男の得物を弾く軌道に集中させた。踏み込みの角度を変え、間合いを詰めることに専念する。男は、その変化にすぐ気づいた。
「……手加減か」
「生かして、話を聞きます」
「傲慢だな」
男の口調に、初めて感情らしきものが混じった。侮蔑ではない。どちらかといえば、面白がるような響きだった。
「捕らえられる側の気分を、聞いたことは?」
「ありません」
「率直だな。……いいだろう。付き合ってやる」
言葉とは裏腹に、男の攻撃は緩まなかった。むしろ、これまで以上に鋭さを増した。私は防御に徹しながら、機を窺った。全身の感覚を研ぎ澄まし、僅かな綻びを探す。
好機は、突然訪れた。男が大きく踏み込んだ瞬間、足元の敷石の欠片に、僅かに体勢を崩した。ほんの一瞬。目にも留まらないほどの、ごく僅かな乱れだった。だが、私にはそれで十分だった。
剣を捨てた。同時に、脇腹の傷口を強く押さえ、掌いっぱいに血を溜める。今までの、糸一本分の血では足りない。私はその全てを、地面に叩きつけた。
赤が、爆ぜるように広がった。
地に広がった血が、幾筋もの糸となって編み上がり、男の両足と利き腕に絡みついた。編み目の細かい、鎖に近い拘束だった。魔法陣は使わない。詠唱もしない。ただ、血の量と、意志の強さだけで形を保つ、荒っぽいやり方だった。
「……なんだ、これは」
男が初めて、明確に狼狽した声を出した。腕を振り、糸を引きちぎろうとする。何本かは、実際に切れた。血の拘束は、鋼の鎖ほど頑丈ではない。だが、切れた端から、私はすぐに次の糸を継ぎ足した。継ぎ足すたび、頭の奥が微かに痺れた。血を使いすぎている感覚があった。
「——くっ……!」
男が、渾身の力で腕を引いた。糸が軋むように歪み、今にも千切れそうになる。あと少しで、拘束は解ける。私はそれを見て、剣を持たない方の手で、地に落ちた自分の剣を蹴り上げ、拾い直した。切っ先を、男の首筋、ぎりぎりの距離に突きつける。
「動けば、次は峰打ちでは済みません」
男は、動きを止めた。糸に力を込めるのをやめ、しばらく私を睨んでから、小さく息を吐いた。
「……血で、縛るか。器用な真似をする」
「器用ではありません。他に、思いつかなかっただけです」
正直に答えた。実際、これほど大掛かりな血の拘束を使ったのは、初めてだった。頭痛が、まだ続いている。血の消費が、いつもの比ではないことを、体が教えてくれていた。
男は、拘束されたまま、動かなくなった。抵抗しても無駄だと、ようやく判断したらしい。あるいは、最初からこの展開もある程度は許容していたのかもしれない。その判断が読めないことが、この男の底知れなさだった。
駆けつけたノエル様と護衛の数人が、縄を持って駆けつけた。血の糸は、既に色を失い始めている。長くは保たない拘束だと分かっていたので、崩れる前に、鋼の鎖代わりの縄をきつく巻き直した。フードを剥ぐと、中年の男の顔が現れた。特徴のない、記憶に残りにくい顔立ちだった。
「シエル、無事か!」
「はい。ノエル様、シュピは」
「無事だ。離れの中で震えてたが、怪我はない」
その言葉に、詰めていた息を吐いた。安堵が体の力を抜いていく感覚があった。同時に、脇腹と肩の傷が、急に強く痛み出した。拘束した男を、屋敷の一室に運んだ。ノエル様立ち会いのもと、私が尋問にあたることになった。椅子に縛りつけられた男は、灯りの下で見ると、思ったより痩せていた。年齢は、四十前後だろうか。
「名前は」
男は答えなかった。
「所属は」
これにも答えなかった。ただ、静かに、こちらを観察するような目でこちらを見ていた。値踏みされているような視線だった。
「シュピを、五番と呼びましたね。あの子を、以前から知っているのですか」
「知っている、というほどではない。管理していた、というだけだ」
「管理」
「品質の維持。それだけの仕事だった」
品質。人間を、そう呼ぶ言葉の冷たさに、私は言葉を失いかけた。失いかけたが、堪えて、続けた。
「品質、というのは」
「発育、健康状態、能力の伸び。定期的に確認し、記録する。……お前が想像するようなものとは、少し違うかもしれんな。虐げていたわけではない。ただ、管理していただけだ」
「同じことです」
「そうか。……お前がそう思うなら、そうなんだろう」
男は、それ以上、感情を見せなかった。
「なぜ、今になって追うのですか」
「上の意向だ。理由は、下には知らされない」
「上、とは」
男は、初めて微かに笑ったように見えた。口元だけが、僅かに歪んだ。
「それを聞き出せると思っているなら、見込みが甘い」
「あなたは、それでいいのですか」
「いい、悪いの話ではない。……お前も、いずれ分かる。上から与えられた役割を、こなすだけの日々がある、ということが」
その言葉に、ノエル様が横から口を挟んだ。
「随分と、諦めた物言いだな」
「諦めではない。……割り切り、と言ってほしいものだ」
それ以上、有益な情報は得られなかった。組織が存在すること。シュピが「五番」として管理されていたこと。今回の追跡が「上」の指示によるものであること。それだけが確認できた事実だった。首謀者の名も、組織の名称も、目的の全容も、男は決して口にしなかった。
「お前も、報告される」
唐突に、男が言った。
「銀の髪に、その血。……珍しく、懐かしい組み合わせだ。上が、興味を持つだろうな」
「——どういう、意味ですか」
「意味を知りたければ、次に会った時、聞くといい。もっとも、その時、お前がまだ立っていられるかは、分からんが」
挑発なのか、事実の予告なのか、判別がつかなかった。判別のつかないまま、私はその言葉を記憶に刻んだ。
その時だった。男の手が、拘束された状態のまま、僅かに動いた。何かを握っている。指の隙間から、白い煙が噴き出した。刺激臭が、瞬時に部屋中に広がった。
「——伏せてください!」
私は咄嗟にノエル様を庇い、目を閉じた。目と喉が焼けるように痛んだ。咳き込みながら、拘束の縄があった場所に手を伸ばす。縄だけが、そこにあった。男の姿は、なかった。
煙の向こうで、窓が割れる音がした。私は音を頼りに飛び出し、追った。庭に出ると、月明かりの下、黒っぽい装束の人影が二つ、拘束から逃れた男を支えながら、塀の方角へ走っていくのが見えた。
増援だった。最初から、外で待機していたのだろう。侵入した時から、この事態を想定した備えがあったということだ。私は追跡を試みたが、煙で視界がまだ滲んでいた。数十メートル追ったところで、三つの影は塀を越え、闇の中に消えた。追う速度が、僅かに足りなかった。
追いつけなかった。
悔しさと、安堵が、同時に胸を占めた。逃がしたことへの悔しさ。そして、これ以上の戦闘にならずに済んだことへの、僅かな安堵。二つの感情が同時に来ることを、私はこれまで知らなかった。矛盾しているはずなのに、両方とも本物だった。
屋敷に戻ると、ノエル様が煙にむせながら、それでも無事だった。
「……逃げられたか」
「申し訳ありません」
「いや。……お前が無事なら、それでいい」
ノエル様は、そう言ってから、私の肩の傷に気づいた。
「その傷」
「浅いです。問題ありません」
「浅くない。血、出てるじゃないか」
ノエル様が布を持ってこさせ、応急の手当てをした。手つきは不慣れだったが、丁寧だった。私は、その間、じっと座っていた。手当てを受けながら、頭の中では、男の最後の言葉が繰り返されていた。
——銀の髪に、その血。珍しく、懐かしい組み合わせだ。
「痛むか」
「少しだけ」
「少しだけ、って顔じゃないぞ」
「顔に、出ていましたか」
「出てる出てる。……我慢するな。痛い時は痛いって言え」
「……痛いです」
初めて、素直にそう言った気がした。ノエル様は、少し驚いたような顔をして、それから、布をきつく巻き直した。
夜が明けるまで、屋敷は騒然としていた。捕らえた五人の賞金稼ぎは、詰め所の牢に移された。門の修理の算段、割れた窓の応急処置、庭木の片付け。トムが率先して動き回り、他の使用人たちもそれに続いた。私は離れに向かった。シュピが部屋の隅で膝を抱えていた。私を見て、飛びついてきた。
「お姉ちゃん、無事……!よかった!」
「シュピ、怪我は」
「ない。……あの人、僕のこと、見てた。窓の外から」
「見られましたか」
「うん。……昔の呼び方で、僕を呼んだ」
「五番、ですか」
シュピの体が、微かに強張った。
「聞こえてたんだ」
「はい」
シュピは、しばらく黙っていた。それから、小さく言った。
「あの人、知ってる。前にいた場所の、管理係の一人。……僕たちのこと、品質って呼んでた人」
「そう、ですか」
「怖かった。でも」
シュピは顔を上げて、私を見た。
「お姉ちゃんが、追い払ってくれた。だから、大丈夫」
追い払った、というのは正確ではない。逃げられただけだ。それでも、シュピの言葉を訂正しなかった。
「シュピ。あの人が、また来ることは、ありますか」
「分からない。……でも、上の人が興味持ったら、来るかも」
「上の人」
「僕たちを、決めてた人。会ったことないけど、いるらしい、って噂で聞いた」
組織の輪郭が、また少しだけ、見えないまま濃くなった。
朝方まで、屋敷は落ち着かない空気に包まれていた。負傷者は数名、いずれも軽傷だった。門の一部が壊れ、庭木が数本折れ、窓が三枚割れた。人的被害が最小限で済んだことだけが、救いだった。
夜が明ける頃、私は自室に戻った。傷の痛みが、今になって強くなってきた。手当ての布に、じわりと血が滲んでいる。着替えながら、脇腹の傷を確かめた。浅いが、痕は残るだろう。
日誌を開く。手が、いつもより重かった。
『本日の血液消費量:記録せず(負傷による出血、および拘束用の血糸生成のため、通常の使用分と区別できず。これまでで最大の使用量だったと思われる)。
備考一:深夜、賞金稼ぎ五名、屋敷北門より侵入。制圧、いずれも軽傷で拘束。
備考二:五名とは別に、灰色の外套の男が出現。実力、ヴェラ様に匹敵する可能性あり。互角の戦闘の末、捕縛に成功。
備考三:男は「五番」の呼称でシュピを認識していた。以前の管理係であったとのこと。組織の存在は確認したが、名称・首謀者・目的の全容は不明のまま。「品質の維持」という表現を使っていた。
備考四:尋問中、男は仕込みの発煙具を使用し、拘束から離脱。屋敷外に潜伏していた増援二名により回収され、逃走。追跡は失敗した。
備考五:男の去り際の言葉——「銀の髪に、その血。珍しく、懐かしい組み合わせだ。上が、興味を持つだろうな」。意味は不明。棚に置く。
備考六:シュピは無事。恐怖はあったが、怪我なし。「お姉ちゃんが追い払ってくれた」と言われた。訂正しなかった。
備考七:シュピ曰く、管理体制の上位に「決めてた人」がいるとのこと。詳細不明。
備考八:悔しさと安堵を、同時に感じた。二つが同時に来ることを、初めて知った。』
筆を止めて、肩の傷に触れた。じくじくとした痛みが、まだ続いていた。この傷は、当分残るだろう。傷が残ることを、私は嫌だとは思わなかった。むしろ、この一戦を覚えておくための、ちょうどいい印だと思った。窓の外は、白み始めていた。庭には、まだ煙の匂いが薄く残っている。折れた木の枝が、朝の光の中で、痛々しく横たわっていた。壊れた門の脇で、トムが板を打ち付ける音が、規則正しく響いていた。
いつか、あの男とまた会うことになるだろう。次に会う時、自分がどう変わっているのか、それは、まだ分からない。




