第六話:孤児院の子供たち
私は今、街外れの孤児院の門の前に立っている。門は木製で、片方の蝶番が緩んでいた。押すと、軋んだ音がした。中から声がする。子供の声だ。数えて、七、八人分。
朝のことを思い出す。六時二十分。かまどの火はノエル様がすでに灯していた。私は錠前に血を使わなかった。今朝は使う必要がなかった。鍵は、昨夜のうちに開けてあった。開けたままでいいと、ノエル様が言ったからだ。
「シエル、蜜煮の瓶、何本ある」
「五本、あります。お義母様用に取り置いた分を除いて、二本」
「その二本、持っていくか」
「どちらへ」
「孤児院だ。前から気になってた場所でな。避難民の子供が増えてる。今日、様子を見に行く」
トムが荷を纏めながら、手を止めた。
「ご主人様、荷馬車、大きい方にしますか」
「いや、いつものでいい。人数はそんなに乗らない」
「かしこまりました。……あの、私も同行を?」
「トムは留守番だ。パンを焼いておいてくれ。孤児院に持っていく分も」
トムは少し残念そうな顔をしたが、すぐに焼き窯の方へ向かった。私は瓶を布で包み、籠に詰めた。二本の瓶は、まだ温かかった。しばらくしてシュピが呼ばれた。支度をしながら、いつもより口数が少なかった。
「シュピ、行きたくないですか」
「ううん、行く。……ただ、ちょっと、久しぶりだから」
「久しぶり、というのは」
「孤児院っぽい場所。前にいたところとは違うけど、なんか、匂いとか、音とかが似てる気がして」
久しぶり、が何を指すのか、それ以上は聞かなかった。聞かなくても、分かる気がした。それでも、聞かない方がいい時があることは知っていた。
馬車で街を抜けた。表通りは相変わらず賑やかで、露店の呼び声が重なって聞こえた。串焼きの匂い、鍛冶屋の金属音、子供が母親に何かをねだって泣く声。噂の出所を探すような視線が、時々こちらに向いた。銀の髪を、私は今日、頭巾で覆っていた。ノエル様の指示だった。
「暑いか」
「いいえ」
「無理はするなよ」
「無理はしていません。慣れています」
ノエル様はそれ以上言わず、窓の外の露店を眺めていた。八百屋の店先に、見慣れない果物が積まれている。北の方から入ってきた品らしい。北、という言葉に、私は少しだけ反応した。自分で気づいて、気づかなかったふりをした。
馬車が街の外に出ると、道は急に静かになった。畑と、疎らな家並みが続く。孤児院に着いたのは、昼前だった。建物は古いが、手入れはされていた。壁の一部が塗り直されている。庭には洗濯物が並び、風にはためいていた。
門を押すと、軋んだ音の後に、子供たちが一斉にこちらを見た。庭には七人。年齢はばらばらで、一番小さいのは五つくらい、一番大きいのは十二、三に見えた。院長らしき老婦人が、慌てて出てきた。
「これはこれは、エステル様。急な訪問で、何のおもてなしもできず」
「構わないでくれ。今日はただの見学だ。それと、この差し入れを受け取ってくれ」
トムが、ではなく私が瓶を運んだ。子供たちの目が瓶に集中する。院長が瓶を受け取り、礼を言う間、子供たちの一人、小柄な女の子——がシュピの前に進み出た。
「あんた、誰?」
「シュピ。こっちは、お姉ちゃん」
「シュピ? 変な名前」
「うるさいな」
シュピが笑う。女の子も笑う。それだけで、何かが繋がったのが分かった。私には分からない繋がり方だった。名を交わすだけで済む距離が、この子たちにはあるらしい。
「あたし、ミラ」
「ミラね。何歳?」
「七つ」
「僕は、十一」
「四つ上なのね?」
「そうだね」
そして院長がノエル様を案内する間、私は庭に残った。子供たちがシュピを取り囲んでいる。
「ねえ、魔法使えるんでしょ。院長が言ってた。」
「使えるよ。少しだけ」
「見せて見せて」
シュピは手のひらに小さな火を灯した。子供たちが歓声を上げる。危なくないよう、火は指先ほどの大きさに抑えられていた。シュピなりの配慮だろう。この幼い子は魔法が危険だと判っている。孤児院の子供たちが暫くシュピの魔法を眺めていると、最年長らしい少年が、腕を組んで私たちの目の前に一歩でた。
「ふうん。……それだけ?」
「フィン、そういう言い方しない」
ミラが少年を睨んだ。フィンと呼ばれた少年は、ばつが悪そうに視線を逸らした。
「別に、けなしてねえよ。……お前、他にもできんの?」
「できるよ。でも、庭でやると、燃えるものがあるから、やらない」
「へえ」
フィンの口調は素っ気なかったが、目はシュピの手元から離れなかった。
「すごい……。ねえ、あの人は?」
ミラが私を指差した。
「お姉ちゃんは、剣が使える。すごく強い」
「強い?どのくらい?」
「うちのご主人様の護衛。屋敷で一番強いと思う。僕の魔法も見てもらってるんだ」
「ということは、魔法も使えるの?」
「うん!お姉ちゃんの魔法は綺麗なんだよ!」
子供たちの視線が、一斉に私に向いた。値踏みするような目だった。それにしてもシュピの発した言葉が私の心を揺さぶる。魔法が”綺麗”‥‥‥初めてそういうことを言われた。
(魔法とは戦場において有利に働く一つの道具だと捉えていましたが)
考え、耽っているとフィンが私の前に立った。
「じゃあさ、勝負しようよ」
「勝負」
「かくれんぼ。強い人って、隠れるの得意そうじゃん」
私は少し考えた。かくれんぼの経験は、ない。しかし原理は単純だ。姿を隠し、気配を消す。それなら、戦場でやってきたことと近い。
「承知しました。やりましょう」
「よっしゃ。じゃあ最初、俺が鬼な」
院長がノエル様と話し込んでいる間、庭でかくれんぼが始まった。フィンが数を数える間、子供たちが四方に散った。私は裏庭の物置の陰に隠れた。呼吸を止め、気配を殺す。心臓の音まで抑える。これは得意なことだった。敵の索敵をかいくぐる技術と、本質は同じはずだった。
フィンは庭を一周し、あっさり数人を見つけた。木の陰、樽の後ろ、屋根の上。声を上げて捕まえていくたび、見つかった子が悔しそうに舌打ちする。その間、息を潜めている私の元にはフィンは近づきもしなかった。
——十分ほど経った。物置の隙間から見ると、フィンが庭の中央で腕を組み、考え込んでいるのが見えた。
「もういいよ、出ておいで!」
その声が聞こえ、私は物置の陰から出た。誰も、私を見つけられなかった。
「お姉ちゃん、すごい隠れるの上手いじゃん!」
「はい」
当然だと思った。気配を消す訓練なら、この十何年、毎日のようにやってきた。小さな女の子が、私の袖を引いた。ミラだった。
「ねえ、次は鬼、やって」
「鬼、ですか」
「うん。お姉ちゃんが鬼」
私は頷いた。簡単なことだと思った。索敵は得意分野だ。姿を隠すよりも、見つける方が、もっと得意なはずだった。
「目を閉じて、百数えてね」
言われた通り、目を閉じて数えた。ゆっくり数えた。百まで数え終えて、目を開ける。庭には誰もいなかった。私は気配を探った。呼吸音、衣擦れ、心拍。戦場で敵を探すのと同じやり方だった。
——しかし何も、感じない。
木の陰を見た。誰もいない。樽の裏。誰もいない。屋根の上。誰もいない。裏庭に回った。物置の陰、井戸の後ろ、薪の山の隙間。誰も見つからない。それから十五分が経過して、私は洗濯物の裏、鶏小屋の中、階段の下まで見た。どこにもいなかった。……三十分が経った。私は少し、焦り始めた。焦る、という感覚自体が久しぶりだった。敵を見失う焦りとは、少し違う種類のものだった。
「ミラ、出てきてください」
声をかけても、返事はなかった。
「フィン」
これも、返事はなかった。
院長室の前を通ると、窓の隙間から視線を感じた。振り返っても、誰もいない。気のせいだろうか。気のせい、という言葉を、私はあまり使ったことがない。使わずに済む場所にいつもいた。今日は、使わざるを得なかった。
「シュピ」
声をかけると、庭の隅に佇んでいたシュピが振り返った。
「探すの、手伝ってくれませんか」
「え、いいの?自分で見つけないと」
「見つかりません。……本当に、いないんです」
シュピは笑いをこらえるような顔をした。
「お姉ちゃん、あの子たち、隠れるの、めちゃくちゃ上手いよ。孤児院の子は、みんな上手い」
「なぜですか」
「隠れないと、生きていけない時期があったから」
その一言で、私は言葉に詰まった。詰まったまま、しばらく立っていた。
「……教えてくれても、いいのでは」
「僕が教えたら、あの子たちの意味なくなっちゃうし。あ、でも、ヒントくらいはいいかも」
シュピは庭を見回して、小さく笑った。
「お姉ちゃん、探す時、音とか匂いとか、そういうの頼りにしてるでしょ」
「はい」
「あの子たち、それ、知ってて消してるよ。呼吸も、匂いも」
「……匂いを、消せるのですか」
「土を体にこすりつけたり、洗濯物の匂いに紛れたり。前にいたところの子は、みんなやってた」
それは、私が敵の陣地に潜り込む時に使う手口と、ほとんど同じだった。子供が同じことを、遊びの中で自然に身につけている。その事実に、どう反応していいか分からなかった。
結局、子供たちが自分から出てきたのは、一時間近く経ってからだった。一番小さい女の子が、井戸の水汲み場の下、板を一枚外した空間から這い出てきた。続いて、屋根の樋の裏からフィンが、鶏小屋の藁の下からミラが、それぞれ這い出てきた。
「見つからなかったでしょ」
「……見つかりませんでした」
「お姉ちゃん、弱いね」
弱い、と言われたのは、いつ以来だろうか。思い出せないくらい昔のことか、あるいは、そもそも言われたことがなかったのか、それも判然としない。悔しさのようなものが、胸の奥にあった。名前を付けられない感情だった。
「お姉ちゃん、剣は強いのに、かくれんぼは弱いんだね」
「……そうみたいです」
「面白いね」
面白い。その言葉が、また出た。前にも聞いた覚えがある。棚の上に、まだ置いたままの言葉だ。今日、その棚が少しだけ揺れた気がした。フィンが、腕を組んだまま私を見上げた。
「あんた、本当に強いの?」
「強いと、思います」
「剣、見せてよ」
「今日は、持ってきていません」
「ちぇ」
フィンは不満そうだったが、それ以上はせがまなかった。せがまない、というのも、この子たちの距離の取り方らしかった。
かくれんぼは、私が弱いという事を教えてくれた。子供たちは興味が魔法に移行したのか、シュピがフィンたちに火の点け方を教え始めた。息の吹き方、薪の組み方。前にいた場所で年下の子に教えていた、というのは、本当だったらしい。フィンは最初、興味なさそうな顔をしていたが、火が三度目でようやく灯った時、小さく「おっ」と声を上げた。
「見ろよ、灯った」
「うん、上手!」
「もう一回」
二度目は、もっと早く灯った。フィンの顔が、少しだけ緩んだ。
院長との話を終えたノエル様が、庭に出てきた。
「どうだ、楽しんでるか」
「負けました」
「は?」
「かくれんぼで、負けました。一時間、見つけられませんでした」
ノエル様は目を丸くして、それから盛大に笑った。
「お前が、負けるのか」
「悔しいです」
「悔しいのか」
「おそらく、この感覚はそういう事だと思います」
「はは、いいことだな」
いいこと、の意味は聞かなかった。聞かなくても、悪い意味でないことは分かった。
帰り際、院長がノエル様に耳打ちする声が、少しだけ聞こえた。
「——半年ほど前にも、似たようなことが。旅の男が来て、髪や目の色が珍しい子はいないか、と。あの時はお断りしましたが、最近また、街で似た噂を耳にするもので」
「その男、特徴は」
「灰色の外套を着た、痩せた男でした。丁寧な物腰で、寄付を申し出てきましたので、余計に警戒しました。名乗りませんでしたが」
「それと、もうひとつ。先月、卵売りの行商が来た時のことですが」
「行商が、何か」
「妙に、子供の人数を気にしていました。『ちょうど七人ですね』と、数えるような聞き方で。……行商なら、そんなことは気にしないはずなのに」
ノエル様の眉が、わずかに動いた。
「その行商、また来る予定は」
「さあ……。あれきり、姿を見ていません」
「そうか。何か気づいたことがあれば、屋敷に知らせてくれ。すぐに動く」
「恐れ入ります」
ノエル様の表情が、一瞬だけ動いた。それ以上、深くは聞かなかった。私も、聞こえなかったふりをした。灰色の外套、卵売りの行商、数えるような聞き方——いくつかの言葉だけが、頭の奥に残った。
馬車に戻る前、ミラが私の袖をまた引いた。
「お姉ちゃんとシュピは、また来る?」
「分かりません。来られたら、来ます」
「約束じゃないの?」
「約束は、まだできません。でも、来たいとは思っています」
ミラは少し不満そうな顔をしたが、それ以上は言わなかった。馬車に戻る道すがら、シュピはずっと機嫌が良かった。
「楽しかった。人に教えるの、やっぱり好き」
「良かったです」
「お姉ちゃんは、楽しくなかった?」
「負けたので、複雑です」
「でも、笑ってたよ、さっき」
笑っていたかどうか、自分では分からなかった。分からないが、シュピがそう言うなら、そうなのかもしれない。
街に戻る途中、市場の一角で人だかりができていた。何事かと窓の外を見ると、旅の商人が珍しい織物を広げているだけだった。それ以上のことは、何もなかった。屋敷に戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。トムが門で出迎えた。
「お帰りなさいませ。……あれ、レイラさん、なんか疲れてます?」
「かくれんぼで負けました」
「はい?」
「なんでもありません」
トムは首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
自室。日誌を開く。
『本日の血液消費量:一滴。
用途:門扉の軋み止め(応急)。
備考一:孤児院を訪問。蜜煮二瓶を届けた。子供は七人。名前を二人分、覚えた。ミラ、フィン。
備考二:かくれんぼで敗北。一時間、発見できず。原因不明。シュピ曰く「隠れるための注意力は、探す注意力と別物」とのこと。呼吸も匂いも消せる子供たちがいる、とのこと。詳細は聞いていない。
備考三:院長より、半年前に不審な男の訪問があったとの証言。灰色の外套、痩せた男、丁寧な物腰。街の噂と符合するかもしれない。
備考四:先月、卵売りの行商が子供の人数を気にしていたとのこと。「ちょうど七人ですね」。以後、姿を見ていない。
備考五:悔しい、という感情を記録。棚に置く。降ろすかどうかは、まだ決めていない。
備考六:ミラという子供に「また来る?」と聞かれた。約束はできなかった。』
筆を止めて、窓の外を見た。西棟の屋根に、烏はいなかった。今日はどこか別の場所にいるのだろう。離れの灯りが、まだ点いていた。シュピが眠る前に、火の練習でもしているのかもしれない。私は灯りを消さずに、しばらく眺めていた。




