第五話:仮の名前、本当の名前
私は今、エステル家の台所にいる。時刻は午前五時半。かまどに火はない。ノエル様の起床は六時だ。火は、あの人が起こす。私はその間に、豆を研いで、パンの生地を切り分けて、棚の在庫を数える。石鹸は残り九個。先週より二個減った。減りが早いのは、避難民の世帯への配布が続いているからだ。
六時。足音が聞こえて、ノエル様が入ってきた。寝ぐせは、今日は左側についていた。
「おはよう」
「おはようございます。火をお願いします」
「おう」
ノエル様はかまどの前に立って、指先を掲げた。私は後ろに下がって、見た。
八秒。火が灯った。実戦投入から一週間。二十一秒だった火が、八秒で灯るようになっている。ノエル様は何も言わずに薪に火を移して、それから振り返った。
「何秒だった」
「言いません。手順です」
「惜しかったろ。どうせはかってただろ」
「……八秒です」
「言うんかい」
頬が緩んだ。緩むのは、もう止めないことにしている。
朝食の席で、ノエル様が書類を一枚、テーブルに置いた。
「シエル。学び舎の件だ。来週から、シュピを通わせる手はずが整った。……で、これが入学の届け出なんだが」
書類を見た。上から、氏名、年齢、出生地、保護者、と欄が並んでいる。
「氏名の欄があります」
「ああ。そこだ。……『シュピ』だけじゃ、受理されない可能性がある。役場の形式に、姓と名の二つを書く決まりがあってな」
「二つ」
「領内の子は、みんな二つ持ってる。姓は家の名だ。……あの子には、名乗れる家の名がない」
私は書類の白い欄を見た。白い欄は、書かれるものを待っている。待っているものが、ここにはない。
「……番号は」
「使わせない。あれは番号じゃなくて、商品の管理記号だ。学び舎の書類に、そんなものを書かせるか」
ノエル様の声が、少しだけ硬くなった。硬い声は、この人の怒りに近い部分の音だ。この一年で、それくらいは分かるようになった。
「では、どうしますか」
「案は、二つある。ひとつ。便宜上、エステルの姓を預ける。保護下の子に領主が名を貸すのは、前例がある。……もうひとつは」
ノエル様は、そこで言葉を切って、湯飲みを口に運んだ。
「……もうひとつは、あの子が、自分で名を作ることだ。姓を、自分で。……これも、ない話じゃない。流れ着いた者が新しい姓を名乗るのは、領の掟で認められてる」
「自分で、作る」
「ああ。……ただ、姓ってのは重いぞ。名と違って、家の名は、背負うものになる。……十五の子に、背負わせていいものか。俺は、判断に迷ってる」
私は湯飲みの湯気を見た。湯気はまっすぐ上がって、天井の少し手前で散った。
「ひとまずはシュピに、聞いてみます」
「それがいい。……ああ、でも、今日はまだ言うな。……今日はな、シエル。お前に付き合ってほしい場所がある」
「場所、ですか」
「学び舎だ。実際に見ておいた方がいい。お前と、あの子と、三人でな」
午前の仕事を巻きで終わらせて、昼前に屋敷を出た。シュピは門を出る前に、二度立ち止まった。一度目は、門の影から街を見て。二度目は、自分の袖を見て。袖は、まだあの着古した軍服だった。新しい服の仕上がりは、あと六日だ。
「……行こ」
シュピが自分で言って、歩き出した。
街では、八百屋の前で犬が寝ていて、鍛冶屋からは鉄の音がして、井戸の周りで女たちが洗い物をしていた。洗い物の女たちが、こちらを見た。見て、すぐに手元に戻った。一週間前より、視線は柔らかくなっている。柔らかくなった視線の中に、時々、知らない視線が混ざっていた。知らない視線は、街の人間のものではない。旅人か、行商人か。——それか。
私は、歩く速度を変えなかった。
「お姉ちゃん。あそこ、何の店」
「金物屋です。鍋とか、釘とか」
「鍋も売ってるんだ。……あっちは」
「紙屋です。シュピのノートの紙は、あそこのです」
「あ、そうなんだ」
シュピは店をひとつずつ覗きながら歩いた。覗くたびに質問が出て、質問に答えるたびに、次の質問が出た。歩みは遅かった。遅い歩みのまま、街の真ん中を越えて、北の丘の方へ向かった。
学び舎は、丘の中腹にある。石造りの、平屋の建物だ。窓が大きくて、中に子供たちの頭が見えた。十人くらいが、机に向かっている。教壇に立つのは、白髪の老人だった。
「あそこだ。領内の子は、九歳から十五歳まで、週に二度通う。読み書きと、算術と、……あとは歴史とか、掟とかだな」
「……十五まで」
シュピが、小さく繰り返した。
「僕、十一。……後四年だね」
「そうだな。まあ、シュピは頭が良さそうだし、習熟も早いだろ」
ノエル様が言った。シュピは頷いて、それから、建物を見続けた。見ている目が、真剣だった。真剣な目のまま、
「……ねえ。あの中、入ってみていい?」
「今は授業中だ。見学は、塀の外からにしよう。……シュピ。お前が座る机は、たぶん、あの窓から二列目の、一番手前だ。教師の目が届いて、逃げ道に一番近い机だ。……俺の経験では、そこが一番いい」
「ノエル様も、ここに」
「通ってたよ。……成績は、聞くな」
窓の中では、老人が板に字を書いていた。子供たちがそれを写している。写す手つきは、ばらばらだった。速い子もいれば、止まっている子もいた。止まっている子の隣の子が、そっと自分の手元にある紙を見せてやっていた。
シュピは、その様子を、いつまでも見ていた。
「……僕、字、汚いよ」
「ノエル様よりは、綺麗だと思いますよ」
「おい」
「……本当に?」
「本当です。……練習は、続ければ上がります。シュピの、あのノートの字は、初日よりきれいです」
「……見てた?」
「表紙しか、見ていません。……表紙の『シュピ』が、初日よりきれいです」
シュピは、少しだけ俯いた。俯いた顔の、耳が赤かった。
帰り道、広場の脇で、三人分の菓子を買った。揚げた菓子で、蜂蜜がかかっている。歩きながら食べるものだ。
「シュピ。さっきの続きとは別件なんだが、学び舎の届け出の話をする」
ノエル様が、歩きながら切り出した。
「書類にな、姓と名の欄がある。……お前の名は『シュピ』だ。それはもう、お前の名だ。……問題は、姓だ。家の名。……お前には、名乗れる家がない」
シュピの足が、緩んだ。緩んだが、止まらなかった。
「……うん」
「だから、二つ、道がある。ひとつは、エステルの名を仮に貸す。領主が保護する子には、そうする例がある。……もうひとつは、お前が自分で、新しい姓を作ることだ。……どっちも、間違いじゃない。……どっちがいい」
シュピは、しばらく黙って歩いていた。菓子を持った手が、下がっていた。
「……姓って、なに」
「家の名だ。……その家に属する者が、みんなで持つ名だ。……親から子に、渡されるのが、普通だ」
「親から」
シュピは、その二文字を、噛むように言った。噛んで、それから、広場の方を見た。広場では、子供たちが駆け回っていて、その脇で母親たちが立ち話をしていた。
「……僕の親、知ってる。……顔も、名前も、覚えてる。……覚えてるけど」
そこで、言葉が止まった。止まって、長い間、続かなかった。ノエル様は、急かせなかった。私も、急かせなかった。広場の子供たちの声だけが、風に乗って届いていた。
「覚えてるけど、あの人たちの名は、名乗りたくない。……あの人たちは、僕を売った。売られた僕が、その名を名乗るのは、違う。……そう思う」
「そうか」
「だから、姓は、いらない。……今は、いらない」
シュピは、まっすぐに言った。言ってから、慌てたように付け足した。
「あ、でも、書類はどうするの。書けないと、学び舎、入れないんでしょ。……それは、困る。困るから」
「形式上はな、『シュピ・単』と書く手がある。……単、というのは、『単名の者』という意味の古い符丁だ。……昔は、流れ者や、名を持たない者が、そう書いた。……今ではほとんど使われないが、掟には残ってる」
「単?」
「ああ。……つまり、姓がないこと自体を、お前の名の一部として書く。……『ない』を、隠さないで、書く方法だ」
シュピは、その字を、空中に指で書いていた。書いて、消して、もう一度書いた。
「……それが、いい」
顔を上げて、言った。
「シュピ・単。……僕は、これがいい。……隠さない方が、いい。……僕は、家がない。ないのは、本当のことだから。本当のことを、書く」
ノエル様は頷いた。頷くのに、少し時間がかかった。色々と配慮すべき事項があったのだろう。
「分かった。そう書こう」
「うん。……ありがと、ご主人様」
「おう。菓子、食え。冷めるぞ」
シュピは、下げていた菓子を、思い出したように齧った。齧った口の端に、蜂蜜がついていた。
その夜、私は離れの帰り道、中庭で足を止めた。月が出ていた。月の光の下で、私は自分の名について、考えた。
レイラ・シエル。
レイラは、ヴェラがくれた名だ。名付けの夜のことは、覚えていない。ヴェラが雨の夜に、震える子供に名をつけたことは、ノエル様から聞いたことがある。ということは、私はその話を、記憶の棚に入れている。棚の、奥の方に。
シエルは、どこから来たのか。
覚えていない。……いや。覚えていない、という言い方は、正確ではない。シエルという名は、私が物心ついた時には、もう、書類の欄にあった。軍の名簿に、『シエル』とだけ記された頁があった。誰が書いたのか。いつ書いたのか。読める字を覚えた頃には、もう、そこにあった。
だから私の名は、書類の上では、『シエル』が先にあって、『レイラ』が後から来た。生まれた時の名が姓になり、育ててくれた人の名が、名になった。普通の子とは、逆の順番で、私の名はできている。逆の順番でできた名を、私は今日まで、疑ったことがなかった。疑う、という操作の対象に、自分の名が入っていなかったからだ。
(シュピは、本当の名を、覚えている)
覚えていて、名乗らない。名乗らないことを、選んだ。
(……私は、本当の名が、何なのかを、知らない)
シエルは、本当の名なのか。書類に書かれた名は、書いた者の名であって、私の名ではないのかもしれない。違うかもしれない名を、私は十八年、持ち続けている。
風が吹いて、中庭の木々が鳴った。烏の気配はなかった。烏は、夜はどこかへ行く。どこかは、知らない。疑問は、湧いた。湧いた疑問を、どうするか。……今夜は、ここまでにする。疑問を棚に置くことは、諦めることとは違う。置くことは、置くことだ。いつか取り出す、その時まで、置いておく。
それができるようになったのは、この屋敷に来てからだ。戦場では、疑問は、即座に捨てるものだった。捨てないと、動けなかったから。
動けなくなることが、怖くなかったわけではない。でも、あそこでは、疑問より先に、生きることが来た。生きることの方が、速かったから。
ここでは、生きることは、速くない。ゆっくり来る。ゆっくり来る場所では、疑問は、置いておける。
私は中庭を渡って、西棟の階段を上がった。階段の三段落ち目に、踏むと鳴る板がある。いつもは避けて通る。今日は、一度だけ、わざと踏んだ。小さな音が、夜の廊下に響いた。響いた音を聞いて、少しだけ、面白かった。面白い、という言葉も、棚に置いた。置く場所が、少しずつ、足りなくなってきている。
自室。日誌を開く。
『本日の血液消費量:二滴。
用途:巡回の灯、補助。少ない。少ない日が、増えてきた。
備考一:シュピの学び舎の届け出。氏名欄は、『シュピ・単』と書く。単、は、『単名の者』の意。……家がないことを、隠さないで書く、書き方がある。その書き方を、シュピが、選んだ。
備考二:シュピは、本当の名を、覚えている。覚えていて、名乗らない。……名乗らないことを、選べる場所が、ここにはある。
備考三:私の名について。レイラは、ヴェラがつけた。シエルは、名簿に、最初からあった。……シエルが、本当の名かどうかは、分からない。
備考四:階段の三段落ち目は、踏むと鳴る。今日、一度、わざと踏んだ。……面白かった。面白い、は、棚に置く。棚は、まだ、大丈夫。……たぶん。』
筆を止めて、窓の外を見る。離れの窓に、灯りがついていた。シュピは、今日も、ノートを書いているだろうか。書いているだろう。書くことは、あの子の、新しい日課だ。日課は、毎日、少しずつ、その人の形になる。
私の日課は、このノートだ。毎日、少しずつ、私の形になっている。なっているものを、見るのは、悪くない。と思いながら、私は、窓を閉めた。閉めて、床についた。明日は、仕立て屋から、服の進捗の知らせが来る日だ。知らせが来たら、シュピに伝える。伝えると、シュピは、たぶん、少しだけ、嫌そうな顔をする。灰色の服を、まだ、着る気になれていないから。
それでも、服は、届く。届いた服は、着る日が来る。来る日まで、あと、六日。六日の間に、できることは、蜜煮の仕込みと、巡回と、火の確認と、……それから、棚の整理くらいだ。
整理は、得意だ——




