第四話;ノエル様の考え事
九月ももう終わりが近いですね。本当に早い・・・
季節の変わり目です。皆さん体調にはお気をつけください。
(最近、自分は体調が悪いです)
朝のかまどに、異変があった。六時。私が台所に入った時、火はもう灯っていた。ノエル様の姿はない。火のそばに、小さな紙が置いてある。
『起こした。出かける。——ノ』
走り書きだった。「ノ」という署名は初めて見た。書類には「ノエル・エステル」と書く人が、一字で済ませている。紙の裏には何もなかった。置かれていた場所は、私がいつも鍋を置く場所の少し横で、どうやら目に留まる位置を選んで置いたらしかった。湯を張って、火にかける。火は安定していて、薪にちゃんと回っていた。実戦投入から四日目。もう失敗しない火になっていた。
出かける、とだけ書かれていた。行き先の記載はない。屋敷の者に訊いても、誰も当主の行き先を知らなかった。知らないものは知らないので、私は朝食の支度を始めた。支度の途中、二度ほど通用口に目をやった。戸は閉まったままだった。
台所にトムが入ってきた。
「おはようございます、レイラさん。……あれ、ご主人様は?」
「出かけました。置き手紙がありました」
「置き手紙……。へえ。……あの、今日の朝食、どうしましょう。ご主人様の分」
「作ります。戻られた時に出せるよう、温め直せる献立に変えます。トムさん、パンの焼きを弱めにできますか」
「弱めに? いつもの焦げたやつは」
「焦げは、ノエル様が先に食べるだけです。今日はゆっくり食べられるよう、弱めで」
「……了解です」
トムは少し不思議そうな顔をして、それから窯に向かった。私は汁物の具を刻んだ。人参、玉葱、乾燥豆。豆は昨日から水に浸けてある。浸けすぎたのか、皮が少し破れていた。使う分には問題ない。刻みながら、かまどの火に何度か目をやった。支度の手が、いつもより少し遅い。気づいて速めたのに、また遅くなった。一度だけ手を止めて、火を見た。
七時を回った頃、給仕長が様子を見に来た。
「レイラ、旦那様——じゃなかった、当主様の朝食は?」
「保留です。戻りは昼前後と予想します。……給仕長。今日、客人の予定はありましたか」
「ないよ。……急なお出かけだね。畑の方じゃないかね。あの方は、考え事があると畑に行く。昔からだ」
「昔から、ですか」
「まだ坊ちゃんと呼ばれてた頃からね。……おっと、昔の話はここまでだ。仕事仕事」
給仕長はにやりと笑って、食器棚の方へ行った。考え事があると畑に行く。初めて聞く情報だった。メモに加えておく。
午前は、西棟の掃除と書庫の整理に充てた。書庫にはエステル家の記録が詰まっている。領地の帳簿、家系の書類、古い書簡の束。埃を払い、湿気を確認し、虫食いの痕を点検する、月に一度の仕事だ。今年の帳簿は別冊が二冊に増えていた。避難民への給付の記録で、数字の欄がいつもより窮屈だった。窮屈な欄を眺めながら、配膳所の残数を頭の中で計算した。今のペースなら、冬までは保つ。保つが、余裕はない。
棚の中段に、古い銀板写真の束があった。歴代当主の記録だ。埃を落として並べ直していると、一番新しい一枚に、若い夫婦と子供が写っていた。金髪の子供。七、八歳くらいに見える。真顔だった。隣で、父親らしき男が少し身を屈めて、子供の肩に手を置いている。母親らしき女は、子供ではなく、カメラの少し横を見て笑っていた。写真が撮られること自体を、面白がっている顔だった。
ノエル様の、両親——
ノエル様は以前、いつか私を紹介したいと言っていた気がする。名乗って——それから何をするのか、式次第が思い浮かばなかった。思い浮かばないまま、写真版を棚に戻した。元の位置より半分ほど手前に置いてしまって、気づいて、直した。直した場所を、もう一度だけ見た。
しばらく観察していると棚の奥に、蛇籠のような木箱を見つけた。開けてみると、子供用の木剣が入っていた。柄の革が擦り切れている。誰のものかは、だいたい見当がついた。木剣の横に、小さな紙片が挟まっていて、子供の字で『けんの れんしゅう まいにち』と書いてあった。毎日、は達成されたのだろうか。木剣を箱に戻し、蓋をした。戸棚を閉める時、蝶番が油を欲しがっていた。明日の予定に加える。
書庫を出ると、窓の外で烏が啼いた。西棟の屋根に二羽、並んでとまっている。二羽いるのは初めて見た。番いだろうか。しばらく見やり、二羽はやがて別々の方角に飛んでいった。
ノエル様が戻ったのは、昼を回ってからだった。土の匂いがした。靴の裏に、畑の土がついている。領内の西側の土だ。
「ただいま。……昼食、ある?」
「あります。……ノエル様、今朝は」
「ああ、置き手紙。読んだか。……なんか、朝から畑を見たくなってな。収穫が近いから」
「収穫」
「麦だよ。収穫が近いと、畑の色が変わるんだ。それを見ておきたかった」
昼食を運ぶと、ノエル様は畑の話を続けた。西の麦は今年は出来がいいこと。農家の老人が、娘の嫁入りを秋に控えていること。畑の端の小川の水が、例年より少ないこと。麦の話は半分も分からなかった。分からないなりに、老人の娘さんが秋に嫁ぐことと、小川の水が少ないことは覚えた。覚えた理由は、特にない。パンは焦げていなかったので、ノエル様は端から順に食べていた。
「……で、シエル。昼からは少し時間をもらうぞ」
「はい。書斎ですか」
「ああ。例の手紙を、開ける」
私は盆の縁を握り直した。
「承知しました」
「……怖いか」
「分かりません。怖い、の定義が、まだ」
「そうか。じゃあ、こうしよう。怖くなかったら、それでいい。怖かったら、そばにいる。どっちでも、いい話だ」
どっちでもいい話、というのは、本当はどっちでもよくない話のことだ。この一年で、それくらいは学んだ。学んだので、頷いた。食器を下げる途中、廊下でシュピと出くわした。シュピは両手に本を抱えていた。学び舎の本だ。
「お姉ちゃん。これ、読んだんだけど、分かんないとこがあって」
「今は、少し。夕方以降なら、付き合えます」
「夕方ね。わかった。……あ、そうだ。ご主人様、今日なんか忙しそうだね。門のところで馬を待たせてたよ」
「馬を」
「うん。出かけるみたい。……なんか、顔が怖かった」
顔が怖い。シュピはそう言った。ノエル様の怖い顔は、私は一度しか見たことがない。書斎で書類と向き合う時の、あの顔だ。
午後、書斎。ノエル様は机の前に座っていて、その手元に、見覚えのあるものがあった。剣の紋の封蝋。去年の秋に届いて、以来ずっと、一番上の引き出しに眠っていた手紙。封は、まだ切られていなかった。
「シエル。開けるぞ」
「はい」
「お前にも、いてほしい。あの時、そう言ったろ。覚えてるか」
「覚えています。自分が先に読むのは、順番が違う、と」
「そうだ。それで、今日だ」
ノエル様は手紙を持ち上げた。書斎の窓は開いていて、風が入るたび、書類の端がぱさぱさと鳴った。ナイフを持った手は、しばらく動かなかった。私は机の脇に立って、封蝋の紋を見ていた。剣を模した、見慣れない紋。どこかで見たような気がして、見たことのある紋を頭の中で並べてみたが、どれとも合わなかった。
「なあ、シエル。これ、ヴェラからかもしれん。違うかもしれん。どっちだと思う」
「分かりません。ただ」
「ただ?」
「師匠は、手紙を書く人ではないと思います。書くより、来る人です」
「……はは」
ノエル様は小さく笑って、それから、ナイフを入れた。
蝋が、ぱり、と割れた。中から出てきたのは、厚手の紙が一枚だった。達筆で、行は少ない。ノエル様は黙って読んだ。顔はほとんど動かなかった。読み終えると、紙を裏返して机に置き、長いこと窓の外を見ていた。窓の外では、風が止んでいた。私は、黙って立っていた。
時計の針が、小さな音を立てて進んだ。机の上のインク壺の蓋が、少しずれていた。ずれた蓋を、直したい気持ちを、抑えた。今は、直す場面ではない。
「ノエル様」
「……ヴェラじゃ、なかった」
「はい」
「俺の、両親からだ。隠居した、父と母からの」
両親。存命で、早めに家を継ぎ、今は領の外れで静かに暮らしていると聞いている。写真版で見たばかりの、二人だ。
「何か、ご用事が」
「用事というか。近いうちに、屋敷に寄る、と。……それと」
ノエル様は、裏返した紙を指先で二度、叩いた。
「『近頃、北から妙な問い合わせが領内に入っている。銀の髪の者を尋ねる者がいる。心当たりがあるなら、早めに備えよ』……と、ある」
銀の髪。尋ねる者。北からの問い合わせ。
「私の、ことですか」
「分からん。分からんが、お前を指している可能性はある。街の噂とも、符合する」
ノエル様は紙を拾い上げ、もう一度読み直した。その目は、畑の色を見に行った時と同じ目だった。
「シエル。両親が来る。来た時、お前を紹介する。あの人たちは、お前のことを知っている。だから、変に構える必要はない。いいな」
「承知しました。構えません。構え方が分からないので」
「それでいい」
微かに笑って、ノエル様は手紙を封筒に戻した。畳まれた手紙は、引き出しではなく、書類の山の一番上に置かれた。
「もう、しまっておく手紙じゃない。ここからは、対応する手紙だ」
私はその置き方を見て、尋ねた。
「ノエル様。何か、始まるのですか」
「……始まってるんだよ、たぶん。俺たちが気づく前から、な」
書斎を出る時、一度だけ振り返った。ノエル様は手紙をもう一度手に取っていた。三度目の通読だった。
夕方、ノエル様は馬で出かけた。行き先は告げられなかったが、戻った時、袖に灯りの油の匂いがついていた。詰め所の匂いだ。その間、私は蜜煮の保存瓶を作り始めた。大鍋に果実を入れて、蜜を計る。瓶を煮沸して、並べる。並べた瓶は五本。五本並べると、台所が少しだけ店みたいに見えた。店、というのは、露店の老婆の店のことだ。
トムが覗きに来て、「売り物ですか」と言った。
「売り物ではありません。保存用です」
「へえ。……でも、並ぶと美味しそうですね。俺、これ好きなんですよ。レイラさんの、これ」
「……そうですか」
そうですか、と答えて、瓶の位置を一列に揃え直した。揃え直す必要はなかった。揃えた。
夕食の席で、ノエル様はいつも通りだった。蜜煮の感想を言い、明日の天気の話をした。ただ、蜜煮をよく噛んでいた。私は咀嚼の回数を数えかけて、やめた。
「シエル。蜜煮、うまい」
「ありがとうございます。保存用の瓶も、五本できています」
「早いな。……ありがとう。母さん、甘いものが好きでさ。喜ぶと思う」
「お母上は、どんな方ですか」
尋ねると、ノエル様は少し驚いた顔をして、それから、懐かしむように目を細めた。
「んー。……うるさい。いい意味で。怒ると怖い。でも、だいたい笑ってる。……あと、人の顔を見るのが、うまい。俺が嘘をつくと、一発で分かる」
「それは、困りますね」
「だろ?……お前も、気をつけろよ」
「私は、嘘をつきません」
「そうだったな。お前は、つかないもんな」
ノエル様は笑った。笑ったあとで、急に真顔になった。
「シエル。両親が来たら、お前のことを訊かれると思う。素性のことは、俺が話す。お前は、お前のままでいい。分かったか」
「はい。……私のまま、で」
私自身のまま、という指示は、曖昧な指示だ。曖昧な指示は、実行が難しい。難しいが、頷いた。頷くことが、実行の第一歩だと、この頃は思っている。
夜。離れに、シュピの夕食を運んだ。
「お姉ちゃん!本、夕方って言ったけど、待ちきれなくて自分で読んじゃった」
「それは、いいことです」
「でさ、分かんなかったとこ、自分で分かっちゃった。……なんか、すごい。僕、本が読める」
シュピは誇らしげに本を掲げた。掲げられた本の背表紙には、『算術入門』とあった。算術が読めることは、屋敷の仕事に直結する。
「すごいです。次は、応用編を借りてきましょう」
「うん!……あ、そうだ。今日、門のところに知らない人がいたよ」
「知らない人」
「うん。立ってた。僕のこと、じーっと見てた。……気味悪かった」
気味悪い。シュピはそう言った。
「シュピ。その人の顔は」
「覚えてる。……僕、顔を覚えるの、得意なんだ。あの人、また来る気がする」
私はシュピの隣に立って、窓の外を見た。いつもの庭と、いつもの闇と、いつもの離れの灯りがあった。
「シュピ。ここは安全です。私が、守ります」
言ってから、少しだけ自分の言葉に驚いた。驚いたが、言ったものは、言った。
「……うん。お姉ちゃんが言うなら、信じる」
その「信じる」は、前に聞いた時より、少し重く聞こえた。
自室。日誌を開く。
『本日の血液消費量:三滴。
用途:錠前、巡回の灯、補助。
備考一:ノエル様の両親からの手紙が開封された。近いうちに屋敷に来る。私は紹介されるらしい。
備考二:北から、銀の髪の者を尋ねる問い合わせが入っている、とのこと。
備考三:門の前に、知らない男がいた。シュピが目撃。……警戒の棚に置く。
備考四:蜜煮、保存用に五瓶完成。お義母様は甘いものが好き。嘘がつけない。
備考五:書庫の写真版に、幼いノエル様が写っていた。真顔だった。木剣もあった。』
筆を置いた。窓を開ける。西棟の屋根に、烏が二羽、並んでいた。昼間の二羽だろうか。どちらでもよかった。離れの灯りが、消えた。私も、灯りを消す。
ご拝読ありがとうございました。




