第二話:名もなき少年
午前五時。いつもの時刻に、目が覚めた。今朝のかまどは、静かだった。ノエル様の姿はない。時刻は五時十二分。昨日の宣言から一夜、当主の実戦二日目の火は、まだ灯っていない。私は薪の束を調べて、かまどの灰を掻き出して、湯を張った。準備だけは整えておく。灯すのは私ではない。灯すのは、この家の当主だ。
六時。階段を下りてくる足音が聞こえた。
「おはよう。間に合った?」
「準備は済んでいます。あとは、火だけです」
「よし」
ノエル様は寝ぐせのままかまどの前に立って、指先を掲げた。私は手順通り、後ろに下がった。灯さない。見ているだけだ。十秒。十五秒。指先に火種が灯った。かまどに移される。薪に、火が回る。
「……よし」
「お見事です。……所要時間は」
「言うなよ。言わなくていい。昨日より速かったことだけは分かる」
私は頷いた。本当は、昨日より三秒遅かった。言わなかった。言わないことが手順に加わったのは、昨日からだ。手順の改訂は、時折必要である。
朝食のあと、ノエル様に声をかけられた。
「シエル。例のもの、できたか」
「はい」
答えて、懐から一枚の紙を取り出した。折り目のついた、小さなメモ。ノエル様はそれを受け取って、開いて、目を通した。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……これでいいのか。本当に」
「はい。一通り案を数枚書いて、これにしました」
「これだけの量……大変じゃなかったか?」
「机の山が、一段高くなりました」
「お前の机の山は風物詩だな」
ノエル様はメモをもう一度見て、それから畳んで、私に返した。
「シエル。ひとつ、言っておく。……名前はな、呼ぶ方の覚悟でもあるんだよ」
「覚悟」
「ああ。名をつけたら、皆はその子を、その名前で呼び続けることになる。嬉しい時も、怒る時も、探す時も。……名前ってのは、呼ぶたびに少しずつ重くなる。重くなった分だけ、手放せなくなる。……それでも、つけるか」
私はメモを見た。畳まれた紙の上に置いた指が、少しだけ、強くなっていた。
「……ヴェラは、それを承知で、私に名をつけたのですか」
尋ねると、ノエル様は少しだけ目を細めた。窓の外を見るような、遠い目だった。
「ああ。……姉貴はな、シエル。泣かないだけで、泣ける人なんだよ。……俺が知る限り、あの人が名前を軽く扱ったことは、一度もない」
泣かないだけで、泣ける人。その言葉は、辞書にも引継書にもない種類のものだった。泣けるのに泣かないのか。泣かないから泣けるのか。文の構造としては矛盾している。でも、喉の奥に何かが引っかかって、矛盾とも言い切れなかった。
「……記録します」
「記録かよ。まあ、いい。行ってこい。あの子が待ってる」
離れの扉をノックした。
「はーい!」
元気な返事。扉を開けると、少年はベッドの上で膝を抱えていた。毛布は今日も、軍式に畳まれている。枕元に、昨日のメモ用紙の切れ端があった。絵が描いてある。見てはいけない気がして、見なかった。
「おはよう、お姉ちゃん。今日は早いね」
「はい。……今日は、お昼の前に来ました。用件が、ひとつ」
「用件?」
少年の姿勢が、少しだけ緊張した。昨日の「怖いことではありません」の保証を、覚えている目だった。
「怖い話ではありません。……あなたに、渡すものがあります」
私は懐から、あのメモを取り出した。両手で、丁寧に。包丁を扱う時と同じ手つきで。少年は、メモと私の顔を、交互に見た。
「これ、なに」
「名前です」
「……な、まえ」
「はい。昨日、考えると言いました。そして考えました。……凄く考えて、これに決めました。受け取るかどうかは、あなたが決めてください。嫌なら、破って捨ててもらって構いません。その場合は、また考えます」
少年は、ゆっくりと、メモを受け取った。開く手が、少し震えていた。紙が開かれる。小さな、紙の擦れる音がした。少年は、そこに書かれた名を、見ていた。長い時間、見ていた。瞬きの間隔が、だんだん長くなっていった。
「……シュ、ピ」
声に出して、読んだ。
「シュピ……。これ、僕の?」
「はい。あなたの名前です。……鏡、という言葉から取りました。あなたは、私にとって、鏡です。同じ場所から来て、同じ傷を持っていて。なのに、あなたは泣けて、笑える。……私が見えていないものが、あなたには見えている。だから、鏡です」
説明は、昨夜のうちに組み立てていた。組み立てた通りに言えた。ここまでは、計画通りだった。計画に入っていなかったのは、その次だった。
「……う、うわ」
少年の声が、潰れた。
「うわ、……ちょ、待って。……なんか、これ、すごい。……すごいよ、お姉ちゃん」
少年はメモを両手で持ったまま、顔を上げた。その目が、赤くなっていた。睫毛が濡れている。それなのに、口元は、嫌というほど上がっていた。泣いているのか、笑っているのか、私には判別がつかなかった。どちらにも見えた。どちらでもある、というのが、正解なのかもしれない。
「……すごい。なんか、すごい。……僕、名前もらった。番号じゃないやつ。……ちゃんとした、やつ」
少年はメモを抱えるようにして、ベッドの上で小さくなった。肩が揺れていた。濡れた声が、何度も「すごい」と繰り返していた。——私は、立っていた。これは正しい対応なのか、分からなかった。座るべきか。声をかけるべきか。触れるべきか。引継書に、項はない。だから私は、立ったまま、その時間が終わるのを、待った。待つことだけは、出来た。
やがて少年は顔を上げて、袖で目をごしごし拭った。
「……へへ。ごめん、変なとこ見せた」
「変ではありません。……あなたのその、泣くのと笑うのが一緒に来るのは、いつものことですか」
「んー。……たまに。すっごい嬉しい時」
嬉しい時。私はその単語を、頭の棚に、そっと置いた。手をつけるのは、もう少し後にする。棚が、少しずつ、埋まっていく。
「ねえ、お姉ちゃん」
「はい」
「これ、額とかに入れたい。……壁に、飾りたい」
「メモ用紙を、ですか」
「メモ用紙でも、お姉ちゃんにつけてもらった僕の名前だもん」
少年はメモを眺めて、それから、丁寧に畳んで、枕の下にしまった。
「……飾るのは、もうちょっと大きくなってからにする。今はまだ、ここ」
枕の下を、ぽん、と二度叩いた。
「ここが、一番安全だから」
安全。枕の下。段ボールの補強も金庫もない、薄い布一枚の保管場所が、この子にとっての一番だった。私はそれを、記録した。記録しただけで、意味は掘らなかった。掘ると、深すぎる気がした。
午後、仕立て屋が来た。応接室に、街から仕立て屋の夫婦が呼ばれた。巻き尺と見本帳を抱えた、恰幅のいい女将と、無口な職人の主人である。ノエル様の采配で、少年の新しい服を仕立てることになった。
「はい、じゃあ坊や、そこに立って。腕を広げて」
少年は言われた通りに立った。が、女将の巻き尺が首に触れた瞬間、体がビクリと跳ねた。
「……っ」
「あら、くすぐったい?」
「ち、違います。……平気です。続けてください」
平気ではなかった。巻き尺が腕に触れるたび、少年の指先が小さく動いていた。右手の、古い傷の上を、左手が掴んでいる。私と、同じくせだった。
「……少し、休みますか」
私が言うと、少年は「だいじょうぶ」と首を振った。振りながら、こちらを見た。見て、目で、何かを言っていた。
(そばにいて、と)
読めた。読めてしまった。私は一歩進んで、少年の斜め後ろに立った。警護の位置だ。意識したわけではない。体が、そこを選んだ。
「……ここにいます」
「……うん」
それからの採寸は、速かった。少年は一度も跳ねなかった。女将は「仲がいいわねえ」と笑っていた。ノエル様は、部屋の隅で、見本帳を眺めていた。見本帳を逆さに持っていたのは、指摘しなかった。採寸が終わると、女将は見本帳を広げた。
「さて、お色はどうしましょう。坊やの髪の色なら、この藍色なんか映えるわよ」
「あ、じゃあそれで……」
「シュピ」
私は、口を挟んでいた。挟むつもりはなかった。挟んでいた。
「選ぶのは、あなたです。……好きな色を、選んでください。あなたの、服です」
少年は、見本帳を見下ろした。長いこと、見ていた。それから、帳面の端の、一番安っぽい灰色を指して、
「……これ。これが、いい」
「あら、地味ねえ。もっと明るいのもあるわよ」
「これがいいです。……目立たないから」
目立たない、という理由だった。部屋の空気が、ほんの少しだけ重くなった。女将はそれ以上何も言わず、「ええ、いい色よ」と頷いた。ノエル様は見本帳を閉じた。逆さのままだった。
帰り際、女将が私にそっと言った。
「あの坊や、賢いね。……でもね、お嬢さん。服ってのはね、目立たないために着るもんじゃないんだよ。……それが分かる服を、うちは仕立てるからさ。見てな」
女将の目は、笑っていなかった。職人の目だった。私は頷いた。頷きながら、灰色の見本のことを、少しだけ考えていた。
夕食のあと、書斎に呼ばれた。ノエル様の机は祭りが終わった後に落ち着いたように思える。この机は民の平穏も示唆しているかのような場所である。
「今日の報告を、聞かせてくれ」
「はい。名前は、渡しました。受け取られました。……その、泣かれました。笑っているような泣き方でした」
「嬉し泣き、だな」
「嬉し泣き。……そういう語があるのですか」
「ある。……あの子は、よく泣いて、よく笑う。どっちも本物だ。シエル、それは珍しいことなんだぞ。……あの場所から来た子には、特に」
ノエル様は椅子の背に、深く凭れた。
「それから、服の件。……灰色を、選んだようだな」
「はい。……ノエル様。私は、遮るべきでしたか。もっと明るい色を、勧めるべきでしたか」
「いや」
即答だった。
「あの子が選んだんだ。それでいい。……目立たない服を選ぶのは、目立たない場所で生きてきた証拠だ。……それが変わるのは、あの子が自分で『この色がいい』と言えた時だ。俺たちにできるのは、その日まで、勝手に期待しないことだよ」
「期待を、しない」
「ああ。待つだけだ。……待つのは、得意だろ、お前」
言われて、私は頷いた。待つのは、得意だ。巡回の途中でも、日誌の前でも、待つことだけは、いつでも出来た。
「ところで、ひとつ気になっていることがある」
「はい」
「昼の採寸の時。お前、あの子の斜め後ろに立ってただろ。……あの位置、どこで覚えた」
問われて、初めて気づいた。警護の位置。守る側の、定石の位置。教わった覚えはない。教わったのではなく——
「……ヴェラが、いつも、そこにいました」
口をついて出た。出てから、それが答えだと分かった。護衛対象の、斜め後ろ。ヴェラが、私の斜め後ろに、ずっと立っていた位置。私はそれを見て育った。見て育ったことは、体に残る。残ったものが、今日、出た。
ノエル様は、少しの間、黙っていた。
「……そうか」
それだけ言って、書類に視線を戻した。戻した顔は、いつもの顔だった。いつもの顔のまま、
「シエル。……今夜の報告は、悪くない報告だった。……以上だ。下がっていい」
私は頭を下げて、書斎を出た。扉を閉める手前で、室内に残ったノエル様が、とても小さく、何かを呟いたのを聞いた。聞き取れなかった。聞き取れたのは、「……ヴェラ」という、名の響きだけだった。聞こえなかったことにして、扉を閉めた。
夜。自室。机の上には、変な顔の兵士の人形と、蜜煮の小瓶と、紙の山。山は昨日より一段高い。
日誌を開く。
『本日の血液消費量:五滴。
用途:錠前、かまどの補助(失敗の朝の保険・不使用)、巡回の灯×2、補助。
備考一:少年に名前を渡した。「シュピ」。泣き笑い、というものを初めて見た。泣いているのに笑っている。笑っているのに泣いている。分類不能。分類しなくていいもの、という分類を、今日から使う。
備考二:採寸に同行した。少年は灰色を選んだ。女将は「目立たないために着るものじゃない」と言った。服の仕上がりは十日後。
備考三:警護の位置は、ヴェラから学んでいた。知らないうちに、教わっていたことがある。教わった記憶のない教えが、私の体にいくつ残っているのか、全部は数え切れない。
備考四:ノエル様は書斎で「ヴェラ」と呟いた。聞こえなかったことにした。聞こえなかったことにする、という手順も、最近覚えた。』
筆を止めて、窓の外を見る。離れの窓に、灯りがついていた。いつもより、少し長く灯っていた。消えるのを待って、消えてからも、もう少し見ていた。枕の下のメモのことを考えた。あの薄い布一枚の保管場所のことを、考えた。考えて、明日の朝食の献立を決めた。蜜煮は、多めに入れる。
日誌を閉じて、床についた。閉じた日誌の背表紙を、寝る前に一度だけ、撫でた。撫でる理由は、ない。ないのに、撫でた。
ご拝読ありがとうございました。
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