第一話:祭りのあとの朝
祭りの翌朝は、いつもより、少しだけ静かだった。午前五時。私は一日の任務を開始する。いや。「任務」という言い方は、もう合わないのかもしれない。昨夜の日誌に、こう書いたばかりだ。『当たり前に、なりますように』。当たり前の毎日に、任務という言葉はいらない。じゃあ何と言うのか。日課。仕事。朝。どれも、しっくりこない。
しっくりこない言葉は、とりあえず括弧に入れておく。いつも通りの一日を始める。
廊下を歩く。窓を開ける。四つ目の窓の鍵は、相変わらず硬い。指先に意識を集中させて、一滴。血の一滴を代償に、小さな火の魔法が錠前を温める。——錠の修理依頼をそろそろ出すべきか。
「よし」
窓が開いて、朝の光が入ってくる。庭の木々に、昨夜の祭りの提灯がいくつか残っていた。片付けは午後の予定だ。夜のうちに雨が少し降ったらしく、提灯の紙が端の方だけ濡れて、色がにじんでいて、青が一番濁って見えた。赤は濡れても赤いままだった。
庭木の枝に、烏がいた。提灯にとまろうとして、提灯が揺れて、烏は慌てて飛び立った。木の上で、こちらを見下ろしている。パンの耳は今日は持っていない。持っていないことを伝える術はないので、会釈だけして先へ進んだ。
洗濯場に寄る。干しっぱなしのシーツはなかった。干し場の柵を直した跡があって、釘が一本だけ打ち直されている。誰が直したのかは知らない。確認だけして畳んだ。
石鹸の在庫を数える。固形があと十一個。粉が半袋。先月より消費が多いのは、避難民への貸出分だ。帳面に記して、棚の奥から予備を前に出す。棚の板が一枚、端から三センチほど反っていた。直すほどではない。メモだけした。
提灯を見ていると、昨夜のことが思い出された。輪踊り。繋いだ手の温かさ。笑ったこと。——笑ったんだ、私。日誌にはそう書いた。いつもの私の字だった。それだけだ。私は畳んだシーツを抱えて、屋敷に戻った。
食堂のかまどの前に、見慣れた背中があった。金の髪。少し猫背の、細くて高い背中。ノエル・エステル様。この屋敷の主で、私の雇い主で、祭りの翌朝からかまどの前に立っている、不真面目な当主様。
「ノエル様。何をしているんですか」
「あ」
ノエル様はゆっくりと振り返った。手には火打ち石のようなもの。自分で、火を起こしていた。今朝、私はまだ何も灯していない。このかまどに灯るとすれば、全てこの人の火だ。
「おはよう、シエル」
「おはようございます。それで、何を」
「いや、だから、見りゃ分かるだろ。火起こし」
「はい、見て分かります。だから聞いています。なぜ、わざわざ」
「わざわざ、じゃない」
ノエル様はむくれたように言った。
「いつもの練習だと思うかもしれんが、今日からは訳が違う。昨日さ、祭りで思ったんだ。あの火は全部、本番の火なんだよな。誰かの飯を炊いて、誰かの夜を照らしてる。……俺の火は一年間、誰の湯も沸かしてない。シエルが先に灯しちゃうからな。だから今日から、うちの朝の湯は、俺の火で沸く」
「…………」
「なんだよ、その顔。何か変なこと言ったか」
「変ではありません」
変ではない。ただ、昨夜「ここにいたい」と言った翌朝に、この人が「うちの朝の火を自分で起こしたい」と言っている。私は、かまどの横にあった薪を一本、黙って足元に並べ直した。
「素敵だと、思います」
そう言った。するとノエル様は驚いたように目を見開いて、それから、照れくさそうに頭を掻いた。
「おいおい、祭りの効果すごいな。お前、そんなこと言えたのか」
「言えませんでした。言ってみました。初めてです」
「初めての割には威力が高い。ああ、心臓に悪い」
ノエル様は苦笑いしながら、指先の火種をかまどに移した。火が薪に移る。ちゃんと、着いた。時計を見ようとして、やめた。腕を途中まで上げて、そのまま降ろした。ノエル様はこちらを見ていなかった……見ていなくて、よかった。
「上手くいきましたね」
「だろ?よし、記念日だ。エステル家当主、火起こし実戦投入の日」
「完全ではありません。灯るまでに二十秒かかっています」
「計測はしてないんじゃなかったのか?」
頬のあたりが緩んだ。私はそのまま鍋を火にかけ、水を足した。ノエル様の起こした火は、私の起こす火より少しだけ弱い。湯が沸くまでに、いつもより時間がかかる。誰も困らない、時間だった。
「なあ、シエル」
「はい」
「明日からも、俺が火を起こす。悪いけど、そういうことで」
「悪くありません。ただ、ひとつ条件があります」
「条件?」
「失敗した朝は、私が起こします。朝食の時刻に影響が出るので」
「……ああ、うん。そりゃそうだ」
ノエル様は頷いた。頷いたあとで、小さく「負けないけどな」と言った。誰に向けた言葉なのか、聞き返すことはしなかった。
朝食の席。食事を運んでいると、ノエル様が書類の束を広げながら言った。書類の一番上には、祭りの出店の精算表らしき紙が載っている。隅にインクの染み。二枚目には、蝋燭の注文票が挟まっていた。三ダース。多い。冬支度だろうか。
「シエル。今日の昼から、例の少年と面会の時間を設ける。お前も同席してくれ」
「面会、ですか」
「ああ。正式な保護の手続きの話だ。あの子をこの屋敷に置く以上、名乗りとか、身分の話とか、必要になる。それと」
ノエル様は書類から顔を上げた。
「あの子の今後の話も、だ。ずっと離れに置いておくわけにはいかない。働くか、学ぶか。本人の希望を、聞いてやりたい」
「希望」
私は盆を置く手を、一度、止めた。それは、戦場にない言葉だ。あそこに必要なのは命令と、遂行と、生存だけだった。でも、ここは違う。ここでは、あの子にも、希望を聞く人がいる。
「はい。同席します」
「よし。あ、そうだ。その前にひとつ」
ノエル様は湯気の立つカップを手に、にやりと笑った。
「昨日の答え、聞いたろ。で、俺、思ったんだけど。お前が『ここにいたい』って言うなら、こっちもちゃんと言っとかないと対等じゃないなって」
「対等?」
「ああ。だから、言う」
ノエル様は、まっすぐに私を見た。いつもの不真面目な顔ではなく、書斎で書類と向き合う時の、あの顔で。
「——シエル。お前がいてくれて、助かってる。ここにいてほしいと、俺も思ってる。以上」
私は、カップを盆に戻した。一度置いて、置き直した。カップの取っ手が、ノエル様と反対側を向いていたので、そっと回した。回している間、顔は上げられなかった。
「ノエル様。今の言葉は、どういう」
「そういう言葉の分類とかいいから。ほら、飯が冷める。食え」
ノエル様はそう言って、食事を始めた。話を打ち切る時の、この人の逃げ方だ。私は静かに朝食をいただいた。パンの端が少し焦げていて、ノエル様は焦げた方から先に食べていた。いつもそうだ。いつもそうなので、何も言わない。朝食の最後に、昨夜の蜜煮が並んだ。第六回の試作。匙を入れて、止めて、もう一口。今日のは、鍋の底に甘さがよく残った。よく残る、というのは上手くいった印だ。
「そういえば」
食後の茶を運んだ時、ノエル様がふと言った。
「あの子の服、どうにかしないとな。着古した軍服のままじゃ、外にも出られん」
「確かに。袖も丈も、合っていません」
「仕立て屋を呼ぶか。採寸が要るが……あの子、測らせてくれるかな」
「私が同行します。私がいれば、たぶん、測らせてくれます」
「そうか。頼む。……なんかお前、あの子の担当みたいになってるな」
「世話係、ですので」
答えてから、遅れて気づいた。世話係という役職は、引継書にも、屋敷の規則にも、載っていない。私がいつの間にか名乗り、周りがいつの間にか認めている。給料表に、その欄はない。あるのは、仕事と、離れの鍵と、少年の好みを書き留めた私のメモだけだ。
食後、配膳所の様子を見に行った。私の持ち場ではなくなったが、様子だけ見ることに支障はない。ギルは手順書通りに大鍋を動かしていた。東側の柱の陰に、子供の気配がひとつ。配膳のペースが少し緩い。引き継いだ補足が、機能している。
戻り道、通用口でトムとすれ違った。
「あ、レイラさん。おはようございます」
「おはようございます。腕は」
「もう全然。ほら」
トムは腕をぐるぐる回してみせた。回しすぎて、自分でよろめいていた。
「大丈夫そうですね。回しすぎには注意してください」
「注意します。……あ、そうだ。祭りの夜、片付けで拾ったんですけど」
トムが差し出したのは、小さな巾着だった。中に、硬貨が二枚と、噛み跡のついた飴がひとつ。
「落とし物ですか」
「です。届け出ようと思うんですが、祭りの日の落とし物って、持ち主に届くもんですかね」
「分かりません。届くといいですね」
「ですね」
トムは巾着を大事そうにしまって、厨房の方へ歩いていった。あの巾着が誰のものだったのか、私はこの先も知らないだろう。
離れに向かった。少年の部屋に朝食の盆を運ぶ、日課の時間だ。扉をノックすると、中から元気な声が返ってきた。
「はーい!入っていいよ!」
扉を開けると、少年はベッドの上で大きく伸びをしていた。頬のこけが、少しだけ戻ってきている。三食、きちんと食べている証拠だ。枕元には、毛布が丁寧に畳んであった。畳み方が、軍式だ。
「おはよう、お姉ちゃん。今日の朝ごはんは?」
「野菜のスープと、パンと、茹で卵です。と、これ」
「ん?あ、蜜煮だ! あの祭りのやつ?」
「私の試作です。第六回。評価をお願いします」
「まかせて!」
少年は勢いよくスプーンを口に運んだ。そして、目を見開いた。
「んんっ!?うまっ。お姉ちゃん、これ本当に自分で作ったの?」
「はい」
「すっご……。ねえ、僕、この前までさ、こんな温かいもん食べたことなかったんだよ。だから、毎朝これが来るのが、なんか、夢みたいで」
少年はスプーンを持ったまま、少し照れたように笑った。以前より本当に明るくなった。対照的に、私は盆の縁を握り直した。握り直しただけで、別に、何もなかった。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「ん?」
「あなたは、どうして、そんなに笑えるのですか」
尋ねると、少年は少し困ったように頭を掻いた。
「うーん。どうしてって言われると、困るな。あ、でも」
「でも?」
「前にいた場所でさ、俺、年下の子たちの面倒見てたんだ。ああいうとこでも、ちっちゃい子は笑うんだよ。へんな顔すれば笑う。歌えば笑う。で、あの子らが笑うと、俺も笑ってた。そういうもんなんじゃないかな、笑いって」
年下の子たちの面倒。この子はこんなにも若輩なのに、戦場で誰かを守る側にいた。続きは、聞かなかった。こういうことを、この頃は時々、するようになった。
「そうですか。では、私も」
「え?」
「変な顔を、練習します」
「いや、そこ!?お姉ちゃん、変な顔とか絶対似合わないから!顔が綺麗すぎて困る人がいるから!」
「困る、とは」
「いいから!やめて!お願いだから普通でいて!」
少年は本気で慌てていた。なぜ。笑いを得るための合理的な提案をしたはずなのに、却下された。人間の反応は難しい。私はその慌てぶりを、少し長めに見ていた。
「あのさ、お姉ちゃん」
少年はスープを飲み干して、ふと、窓の方を見た。
「昨日の夜、あの空、すごかったね。僕、窓から見てた。……連れてってもらったの、あれ、初めてなんだよ。ああいうの」
「そうですか」
「うん。……来年もあるんでしょ、あれ。ご主人様が言ってた」
「はい。あるそうです」
「……ふーん」
少年は、それ以上は何も言わず、蜜煮の小皿を最後まできれいに舐めた。舐めるのは行儀が悪いが、今日は指摘しなかった。なぜ今日は指摘しないのか、規則に照らすと筋が通らない。通らないまま、盆を重ねた。
盆を下げる時、少年の袖を改めて見た。着古した軍服の袖は、確かに余っていた。手首が細い。この手首に合う服を、街の仕立て屋は作れるだろうか。作れるだろう。仕立て屋は、そのための職業だ。
「あの、お姉ちゃん」
部屋を出ようとした背中に、声がかかった。
「今日の昼、なんか、話があるんでしょ。ご主人様と」
「はい。あなたの今後についてです」
「……怖いこと、言われる?」
怖いこと。保護の手続きと、今後の希望を聞かれることが、この子には怖いことに分類されるらしい。分類の基準は、この一年で私も少し学んだ。大人の真面目な話は、子供にはだいたい怖い。
「怖いことでは、ありません。たぶん」
「『たぶん』は、ちょっと怖い」
「では、訂正します。怖いことではありません。私が保証します」
「……お姉ちゃんが保証するなら、信じる」
少年はそう言って、ベッドの上で胡坐をかいた。根拠のない保証だった。手続きの内容を保証できる立場に、私はない。そして撤回は、しない。
午前の巡回の途中、廊下の鏡の前で、私は一度だけ立ち止まった。変な顔。検証が必要だ。眉を寄せて、口を横に広げて、目を見開く。
「……レイラさん?」
背後から、給仕の声がした。振り返ると、若い給仕が盆を持って固まっていた。
「いえ。何でもありません。顔の、点検です」
「て、点検……。お疲れ様です……」
給仕は早足で去っていった。去り際、二度振り返っていた。変な顔の習得は、困難だということが分かった。練習は続ける。場所は、再考する。午前の残りは、離れの掃除と、午後の面会の準備に費やした。書斎の椅子を一脚追加し、茶の用意を整える。少年用の茶は、少し薄めにする。濃い茶に顔をしかめたのを、前に見た。
茶請けの皿を選んでいると、棚の奥から、縁の欠けた湯呑みが出てきた。欠けた場所を指でなぞった。捨てる理由はない。使う理由もない。そのまま棚の奥に戻した。
給仕長には、面会中は書斎に近づかせないよう申し伝えた。その日の昼過ぎ。書斎で、三人の面会が行われた。ノエル様と、少年と、私。少年は硬い椅子に、硬い顔で座っていた。さっきまでのおしゃべりが嘘みたいに黙っている。足が小刻みに揺れている。
「改まって、悪いな」
ノエル様は机の向こうで、書類に手を置いた。
「堅苦しい話は、あんまりしない。今日聞きたいのは二つだけだ。一つ。お前の名前を教えてほしい。保護の手続きに、名が要る」
少年は黙ったままだった。長い沈黙。それから、絞り出すような声が落ちた。
「ない、よ」
「ない?」
「使ってたのは、番号。それは名乗りたくない。その前のは、覚えてる、けど。それも、今は、名乗りたくないんだ」
「どうして」
少年は答えなかった。唇を噛んで、膝の上の手を握りしめていた。その手の甲には、あの夜と同じ、古い傷が見えた。血を引くための傷。私と、同じ傷。ノエル様は、それ以上掘らなかった。
「分かった。じゃあ、無理にとは言わない」
「ごめん、なさい」
「謝ることじゃない。名前はお前のものだ。名乗りたくないものを名乗れとは言えない。だから、こうしよう」
ノエル様は、私を見た。
「シエル。お前、あの子の世話係なんだろ。お前が呼びやすい名をつけてやってくれ。仮のでいい。お前がくれた名なら、あの子もきっと抵抗がない」
私は少年を見た。少年も、私を見ていた。不安そうな目で。
「あなたは、どうですか」
「お姉ちゃんがくれるなら」
少年は、小さく言った。
「それなら、俺、ほしい」
私は頷いた。頷く前に、一度だけ、深く息を吸った。吸ったことに、意味があったのかは、分からない。
「では、考えます。責任を持って。あなたは、私の——」
言いかけて、止まった。……鏡。私の鏡。同じ傷を持ち、同じ場所から来て、でも泣けて、笑える子。私にないものを持っていて、私にあるものを持っていない子。
「——私の、大切な、検討対象です」
「「検討対象!?」」
ノエル様と少年の声が重なった。しまった。途中で言い換えたせいで、奇妙な言葉になった。でも、二人は少しして吹き出していた。ノエル様は声を立てて。少年はお腹を抱えて。書斎に、笑い声が満ちた。私は、二人の隣で、お辞儀の角度を考えていた。考えている場合ではなかったのかもしれないが、考えていた。それで、間が持った。
面会の残りは、穏やかに進んだ。今後の話。働くか、学ぶか。少年は「どっちも、やってみたい」と言った。欲張りな回答だと思ったが、ノエル様は「欲張りで結構」と笑って、まずは屋敷の仕事を手伝いながら、週に二度、街の学び舎に通う案を出した。少年は、何度も頷いていた。頷くたびに、揺れていた足が、少しずつ静かになっていった。
面会が終わって書斎を出る時、少年は私の隣に歩み寄って、小さな声で言った。
「ねえ、お姉ちゃん。保証、本当だったね」
「はい。……守れました」
「うん」
少年は少し早足で、離れの方へ戻っていった。背中が、来た時より軽かった。軽い背中、という表現が正しいのかは自信がない。でも、そう見えた。
午後、庭の提灯の片付けを手伝った。使用人たちと並んで、木から提灯を下ろしていく。濡れた紙は破けやすいので、乾いてから畳む。提灯の紙には、街の子供たちが書いたらしい落書きがあって、花や、犬や、よく分からない模様が並んでいた。よく分からない模様は、よく見ると芋虫に見えた。芋虫かどうかは、書いた本人にしか分からない。
ひとつの提灯の内側に、小さな短冊が入っていた。
『かぞくが げんきで いられますように』
達筆な、子供の字だった。私はその短冊を提灯に戻して、畳んだ。来年の祭りまで、倉庫で眠る。
「レイラさん、そっち終わりました?」
「はい。あと三基です」
「助かるわあ。あんたがいると片付けが早くて、ありがたいよ」
庭師のおばさんに笑いかけられて、私は会釈を返した。畳んだ提灯を倉庫に運ぶ途中、懐に何かが触れた。確かめたら、小石がひとつ入っていた。いつ拾ったのか、覚えていない。捨てようとして、そのまま懐に戻した。戻したあと、なぜ戻したのか自分に聞いてみたが、返事はなかった。
倉庫の戸を閉めると、戸の蝶番が、きしんで鳴いた。油を差すことが要る。明日の予定に、加えた。
その夜。自室。机の上には、変な顔の兵士の人形と、蜜煮の小瓶。そして今夜は、新しい紙が一枚。明日、少年に渡すためのメモ。そこには、ひとつの名前が書かれている。
書くのに、三十分かかった。最初に書いたのは、別の名前だった。響きが硬すぎた。破った。次は、露店の老婆の店の名前から取った。それは人の名前ではなかった。破った。三枚目は、字を間違えた。破いた。破った紙は畳んで、机の隅に置いた。その山は、少しずつ高くなっている。高くなった山をどうするかは、決めていない。
私は日誌を開いた。
『本日の血液消費量:四滴。
用途:錠前、かまどの補助、巡回の灯、補助。
備考一:備考一:ノエル様の火が、初めて本番の湯を沸かした。私は先に灯さなかった。先に灯さないことを、今日から私の手順に加える。計測はやめた。湯の沸く時間は、いつもより長かった。誰も困っていない。失敗した朝は、私が起こす。
備考二:「ここにいてほしい」と言われた。この言葉の分類は保留。保留の中でも、特別な場所に置く。
備考三:少年の名前を考えた。決まっている。明日渡す。名をあげるというのは、思っていたより重い。ヴェラは、この重さを、私にくれたのか。
備考四:鏡の前で変な顔を練習していたら、給仕に見られた。顔の点検、という説明は通じなかった。
備考五:少年の服の仕立てが決まった。採寸に同行する。倉庫の蝶番に油を差す。石鹸の発注。』
筆を止めた。窓の外を見る。庭の提灯は、午後のうちに片付いた。名残の灯りは、もうない。私はもう一度だけ筆を取り、備考の最後に、小さく書き足した。
『備考六:提灯が片付くのは、少しだけ、寂しい。
「寂しい」。知らない言葉なのに、使ってしまった。もう、私のものでいいのかもしれない。回収、完了。』筆を置いて、窓を閉めた。明日の朝、火はノエル様が起こす。失敗したら、私が起こす。どちらが起こしても、湯は沸く。沸いた湯で、茶を淹れて、盆に乗せて、離れに運ぶ。扉をノックしたら、元気な声が返ってくる。
その一連を、頭の中で順に並べてから、私は床についた。
ご拝読ありがとうございました。




