第九章 水戸黄門
その日は、いつもより少し早く家を出た。
家庭教師の日だった。
平屋の玄関をくぐると、おばあちゃんが出迎えてくれた。
「いらっしゃい」
いつもの穏やかな声だった。
けれど、居間には弟の姿がなかった。
彼女もいない。
ちゃぶ台の上には問題集だけが置かれていた。
「まだ帰ってへんのですか」
私が聞くと、おばあちゃんはうなずいた。
「お姉ちゃんは部活やし、弟は友達と遊びに行っとる」
そう言って、お茶を入れてくれた。
私は参考書を鞄から出したものの、することがなかった。
弟が帰ってくるまで待つしかない。
居間のテレビでは、水戸黄門の再放送が流れていた。
夕方になると放送されているらしい。
私は何度か見たことがあったが、内容を覚えているほどではなかった。
おばあちゃんは座椅子に座り、画面を見ている。
私もなんとなくテレビに目を向けた。
悪そうな代官が出てきた。
見るからに悪そうだった。
「この人、悪い人や」
おばあちゃんが言った。
私は思わず笑った。
「見たらわかりますね」
「でもな、最後にはちゃんと懲らしめられるんや」
おばあちゃんはどこか安心したように言った。
まるで何度も見ている話を確認するようだった。
しばらくすると、おばあちゃんが言った。
「もうすぐや」
「何がですか」
「印籠」
私は再び笑った。
すると本当に、その数分後だった。
助さんと格さんが前に出る。
そして印籠が掲げられた。
悪人たちがひれ伏す。
おばあちゃんは満足そうにうなずいた。
私はお茶を飲みながら、その様子を眺めていた。
浪人生だった私は、そのころ毎日のように受験のことを考えていた。
模試の結果。
志望校。
来年の春。
そんなことばかり気にしていた。
それなのに、その日は何も考えていなかった。
ただ、おばあちゃんと一緒に水戸黄門を見ていた。
それだけだった。
番組が終わり、テーマ曲が流れ始めたころだった。
玄関の戸が開く音がした。
「ただいま!」
弟の声だった。
勢いよく居間に入ってくる。
顔は汗だくだった。
「遅かったな」
「サッカーやっとってん」
まるで悪びれる様子もない。
おばあちゃんが苦笑した。
私は時計を見た。
予定よりずいぶん遅れていた。
そのあと、いつものように勉強が始まった。
弟は算数。
彼女は部活から帰ってきて数学。
ちゃぶ台を囲むいつもの時間だった。
けれど、その日の帰り道だった。
なぜか数学の問題よりも、
おばあちゃんと見た水戸黄門のことを思い出していた。
春の夕方の光まで含めて、妙にはっきりと記憶に残っていた。




