第八章 ジョギング
その日も、いつものようにちゃぶ台を囲んでいた。
正面では弟が算数の問題と格闘している。
右隣では彼女が数学の問題を解いていた。
おばあちゃんは座椅子に腰掛け、テレビを見ている。
居間には夕方の静かな空気が流れていた。
弟が計算問題を解いているあいだ、私は彼女のノートを見ていた。
途中式は相変わらず丁寧だった。
文字も整っている。
消しゴムの跡も少ない。
「部活は忙しいの?」
何気なく聞いた。
彼女は顔を上げた。
「バスケットボールです」
そう言われてみれば、そんな気がした。
背が高いわけではない。
けれど、手足が長く見える。
体育館の中を走っている姿が、なんとなく想像できた。
「毎日あるの?」
「ほとんどです」
それだけ答えて、またノートへ目を落とした。
会話はそこで終わるかと思った。
ところが、その日は少し違った。
「最近、ジョギングも始めました」
彼女のほうから言った。
私は少し驚いた。
彼女が自分から話題を続けることは珍しかった。
「部活だけやなくて?」
「体力をつけたくて」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
弟が顔を上げた。
「お姉ちゃん、朝も走っとるもんな」
「余計なこと言わんでええ」
珍しく、彼女が少しだけ困った顔をした。
私は思わず笑った。
そんな表情を見るのは初めてだった。
休憩の時間だった。
おばあちゃんがお茶を入れてくれた。
湯のみの湯気がゆっくり上がる。
そのとき、ちゃぶ台の端にCDショップの袋が置いてあるのが見えた。
何気なく目を向けると、彼女が言った。
「アルバムを買いました」
「誰の?」
「カーペンターズです」
少し意外だった。
同年代の歌手の名前が出てくると思っていた。
「好きなん?」
彼女はうなずいた。
「前から」
短い返事だった。
けれど、そのときの声は少し明るかった。
私はカーペンターズの曲を何曲か知っていた。
けれど詳しいわけではない。
好きな曲を聞いてみようかと思ったが、やめた。
それ以上聞かなくても、十分だった気がした。
帰る時間になった。
参考書を鞄にしまいながら、ふと思った。
私は彼女のことを、ほとんど知らない。
静かなこと。
数学が得意なこと。
それくらいだった。
けれど、その日だけは少し違った。
バスケットボール。
ジョギング。
そして、カーペンターズ。
そんな小さなことを知っただけなのに、不思議と嬉しかった。
外へ出ると、春の風が吹いていた。
ふと、体育館の中を走る彼女の姿を思い浮かべた。
もちろん、見たことはなかったけれど。




