第十章 合格
その日は図書館へ行っていた。
自分の受験勉強のためだった。
朝から席に座り、参考書を開いていたが、思うようには頭に入らなかった。
春が近づいていた。
それだけで、どこか落ち着かなかった。
夕方になって家へ帰った。
鞄を置くと、母が台所から顔を出した。
「そういえば」
何気ない口調だった。
「家庭教師の子、受かったらしいで」
私は思わず聞き返した。
「受かったん?」
「うん。さっき連絡あった」
母はそう言うと、また夕飯の支度に戻った。
それだけだった。
けれど私は、しばらくその場に立ったままだった。
まず感じたのは、安堵だった。
ほっとした。
本当に、ほっとした。
私は数学しか教えていない。
しかも、自分自身は浪人生だった。
人に勉強を教えていていいのか。
そんなことを考えたことも一度や二度ではなかった。
それでも結果は出た。
そのことが素直に嬉しかった。
自分の部屋へ戻り、机に向かった。
参考書を開く。
けれど、なかなか文字が頭に入ってこない。
代わりに思い浮かんだのは、勉強とは関係のないことばかりだった。
ちゃぶ台。
おばあちゃん。
弟。
丸めたコピー用紙。
夕方の水戸黄門。
どれも受験には関係のない思い出だった。
それなのに、不思議とはっきり思い出された。
しばらくして、ふと気づいた。
家庭教師も、もう終わるのだ。
受験が終われば、それで終わり。
最初からわかっていたことだった。
けれど、そのときになって初めて現実のこととして感じられた。
もちろん、合格は喜ばしいことだった。
その気持ちは変わらない。
ただ、その喜びの向こう側に、少しだけ寂しさのようなものがあった。
窓の外を見ると、空はまだ少し明るかった。
春は、もうすぐそこまで来ていた。




