第三章 弟
週に二度、その家へ通うようになっていた。
最初は少し緊張していた玄関も、今では自然に靴を揃えられるようになっていた。
居間へ入ると、ちゃぶ台がある。
私の右隣に彼女。
左側にはテレビ。
少し離れたところにおばあちゃん。
そんな光景にも慣れてきていた。
ある日のことだった。
その日の勉強が終わり、参考書を鞄にしまっていると、母親が少し申し訳なさそうな顔で話しかけてきた。
「先生、ひとつお願いがあるんですが」
話を聞くと、弟のことだった。
塾がなくなってから、算数の勉強が少し心配らしい。
「もしご迷惑でなければ、弟も一緒に見ていただけませんか」
私は少し考えた。
国語や理科まで教える自信はなかった。
そもそも私は浪人生だった。
人に勉強を教える立場なのかどうかも、いまだによくわからない。
「算数だけでしたら」
そう答えると、母親は安心したように笑った。
翌週。
ちゃぶ台には彼女のほかに、小学生の弟が座っていた。
私の正面だった。
「よろしくお願いします」
彼女が小さく頭を下げる。
「よろしく!」
弟はそれよりずっと大きな声で言った。
ずいぶん違う姉弟だと思った。
勉強が始まると、その違いはもっとよくわかった。
彼女は黙って問題を解く。
わからないところがあれば、自分で考えてから質問する。
弟は違った。
「先生、これで合っとる?」
「先生、この漢字わからん」
「先生、今日サッカーでな」
口のほうが先に動く。
私は苦笑しながら答えた。
「漢字は教えんぞ。今日は算数だけや」
そう言うと、
「えー」
と不満そうな顔をした。
そのやり取りを聞いていたのか、彼女が少しだけ口元をゆるめた。
一時間ほどすると、おばあちゃんがお茶を運んできた。
「休憩しな」
湯のみがちゃぶ台に並ぶ。
弟は待っていたように菓子皿へ手を伸ばした。
「まだ勉強の途中やろ」
おばあちゃんに言われ、慌てて手を引っ込める。
居間に小さな笑いが広がった。
テレビの音。
お茶の湯気。
おばあちゃんの声。
そして、鉛筆を走らせる音。
帰るころには外は薄暗くなっていた。
玄関まで見送りに来た弟が言った。
「先生、また来週な」
私は手を振った。
振り返ると、居間の明かりが障子越しにぼんやり見えた。
あの家にも、少しずつ慣れ始めていた。




